2018年1月15日月曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察3

.金石文飛鳥浄御原宮1
 金石文は後代に作り直すことがあり、骨臓器以外は要注意であるが、幸いなことにこの時代になるとたくさんの金石文が残っていて、理論との確認ができる。
資料6の小野毛人墓誌は677年葬となっているが、小野毛人は日本書紀に684年に朝臣を賜姓されている。
資料6
小野毛人墓誌
飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
日本書紀
天武天皇十三年十一月戊申朔 ・・・ 小野臣。 ・・・ 凡五十二氏賜姓曰朝臣

日本書紀は内容が前に記述されることは少ないし、日本書紀の記事の挿入場所天武天皇十三年以前には朝臣が出現しないので、作成日自体が朝臣賜姓後で、後追いで684年以降特に飛鳥浄御原宮治天下天皇の賜姓の朝臣を銘記したのだろう。
飛鳥浄御原宮治天下天皇は672年からで全く問題が無い。
資料7の長谷寺銅板法華説相図の降婁(こうろう)は686年のことを指しているとしているが、私が知るところでは確たる証拠があっての戌歳ではないようである。
降婁は普通十二次の2月を指す言葉であり、漆菟(しつと)という知識を持った人物が如何にも2月を意味する言葉を選択して戌年に当てることがあるのだろうか。少なくとも持統天皇は出現していない。
資料7
『長谷寺銅板法華説相図』
惟夫霊(應)□□□□□□□□ 立稱巳乖□□□□□□□□ 真身然大聖□□□□□□□ 不啚形表刹福□□□□□□ 日夕畢功。慈氏□□□□□□ 佛説若人起窣堵(波其量下如) 阿摩洛菓、以佛駄都(如芥子許、) 安置其中、樹以表刹(量如大針、) 上安相輪如小棗葉或造佛(像) 下如穬麦、此福無量。粤以、奉為天皇陛下、敬造千佛多寳佛塔。
上厝舎利、仲擬全身、下儀並坐。 諸佛方位、菩薩圍繞、聲聞獨覺翼聖、金剛師子振威。伏惟、聖帝 超金輪同逸多。真俗雙流、化度 无央。廌冀永保聖蹟、欲令不朽。
天地等固、法界无窮、莫若崇據 霊峯、星漢洞照、恒秘瑞巗、金石相堅。敬銘其辞曰遙哉上覺、至矣大仙、理歸絶妙、事通感縁、釋天真像、降茲豊山、鷲峯寳塔、涌此心泉。負錫来遊、調琴練行。披林晏坐、寧枕熟定。
乗斯勝善、同歸實相、壹投賢劫、倶値千聖。歳次降婁漆菟上旬、道明率引捌拾許人、奉為飛鳥清御原大宮治天下天皇敬造。

資料8の那須国造碑では持統天皇永昌元年689年のことを建造時に記述しているが、どうして藤原宮を銘記しないのだろうか。
資料8
『那須国造碑』
永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月二壬子日辰節殄故意斯麻呂
 等立碑銘偲云尓仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貮照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以曽子之家
无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固

日本書紀通りの歴史なら、碑を建造した700年に、天武天皇か持統天皇かわからないような飛鳥浄御原大宮天皇を使用する必要がなく695年以降なら藤原宮天皇もしくは後飛鳥浄御原大宮天皇とすればよい。
天武天皇から賜ったのなら年号も中国年号を使う必要がない。
これは、郭務悰が695年まで九州の都督府に滞在してい、都督府発の公示であったための中国年号使用で、大友皇子が朝廷を飛鳥浄御原で切り盛りしていた天皇を付加しない飛鳥浄御原大宮を記述し、天皇は近江にいた

2018年1月12日金曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察2

.郭務悰はいつ帰ったか
 郭務悰は白村江の戦後処理の対日担当者で何度も来日しているが、最終的にいつ帰ったかというと、壬申の乱の新しい年表の695年である。
資料1の造仏記事は中国や朝鮮から送ったものでなく九州から送ったもので、資料2の天智天皇に対しては死後も九州から東を向いて再拝して、5月に帰国と記述されている。
おそらく、在日中は海軍力増強をしないかと監視し政治に口出しを行い、そして、口出しする郭務悰は中国との中継基地九州の都督府に駐留していたのではないか。
数千人は軍にしては少なく、使節団には多過ぎ、九州での駐留の人員としては適正な規模で、日本は軍隊として数万人を百済に送っている。
その後、天武天皇は郭務悰帰国後695年壬申の勝利の乱で郭務悰お気に入りの大友皇子の首を掲げた。
天武天皇元年郭務悰離日後、天武天皇治世中に唐からの来日はなく、天武天皇十三年に大唐學生が来日するまで空白であるが、天武天皇十三年は新しい年表の707年で、持統天皇四年の新しい年表の706年の大唐學問僧と同じ記事と思われ、すなわち、天武天皇に対して中国は交流を止めた。

4.戦場の飛鳥浄御原宮
  天智天皇は667年から694年まで在位したと論じたが、新しい年表には4つの宮で在位したことになる。資料4のように、665年の小墾田宮は難波京の東宮有間皇子が入っていた場所に天智天皇が入り、668年近江に遷都、678年飛鳥川原宮に遷都した。
685年の遷都記事は無いが天智天皇は近江大津宮天皇と呼ばれているので、近江大津宮に戻ったのだろう。
そして、皇太子は、天智天皇が若くして天皇になったため、長男ではなく弟、おそらく孝徳天皇の弟が東宮大皇弟となり、671年には、資料4のとおり正月には大皇弟が五月には皇太子となっていて、大皇弟は皇嗣から外され、居場所のない皇太子の弟大友皇子はどこに宮を置いていたのだろうか。
大友皇子が宮を作る年齢になったときはおそらく飛鳥川原宮に遷都した時期ではないだろうか。資料2の天智天皇10年671年には大友皇子がおそらく13歳そこそこで太政大臣にして、逆に既に病弱になって2年以上たっての太政大臣も異様だ。
この671年に飛鳥遷都時に近江大津宮での政務を新しい皇太子に任せ、681年に皇太子を廃位して大友皇子を皇太子にして、再度685年近江に遷都するとき大友皇子は飛鳥川原宮に残し政務をまかせたのではないか。
この飛鳥川原宮はおそらく都督府と同じ場所にあり、郭務悰と調整しながら政務を行っていたのではないかと思われ、672年から690年まで饗応記事はほとんど筑紫になっている。
郭務悰は670年から695年まで九州に常駐していたので、造仏以外全く現れないのは、筑紫に朝廷があったからと思われる。
そして、郭務悰が帰国するまで、大友皇子が天智天皇の代理として郭務悰と共に飛鳥川原宮を朝廷として統治していた。
すなわち、飛鳥川原宮と近江大津宮は並行して続き、郭務悰に認められた大友皇子を後継にしようと681年に天武天皇を皇太子から引きずり下ろし、眞人という臣下にし、東宮大友皇子とし、694年に崩じた。
日本書紀での饗応を確認すると、筑紫の饗応が668年から690年までしかなく、21回筑紫で、その間、4回が飛鳥寺、難波が1回、解らないすなわち都で3回で、合計29回とほとんどが筑紫で饗応しているということは、郭務悰が滞在中は首都が実質筑紫にあったことが解かる。
ちなみに、上記以外では宣化天皇以降47回饗応があり、飛鳥寺2回、難波9回で圧倒的に都で行っている。
飛鳥寺、難波もどこに指定するかで議論が異なるだろうが、饗応は普通、首都で元首が行うもので、記述しているのは首都以外で元首が行った饗応、天智天皇の川原の宮遷都も川原の宮に常駐した饗応で、近江宮が名目上の首都だったと思う。
もちろん、飛鳥寺も神社仏閣の寺ではなく、鴻臚寺すなわち役所の寺で、657年から688年までしか現れておらず、九州の鴻臚館の前身か。
すなわち、筑紫で饗応したとき、首都機能は別にあったが、郭務悰がいる筑紫が結果的に首都となり、天皇もしくは最高実力者も筑紫に滞在していた。
天武天皇元年、新年表695年、大友皇子が皇位を受け継いだことを見届け郭務悰が帰国すると、天武天皇が中国傀儡政権打倒を合言葉にしたか蜂起し皇位を奪い、飛鳥川原宮と日本書紀に記述した飛鳥浄御原宮で、天武天皇元年、新年表695年7月26日壬申の日に勝利したが、中国に警戒感を与えた。
天智天皇に、ついて回る宮資料は4回変わって最後は近江大津宮であるが、大友皇子の宮飛鳥浄御原宮は天皇になっていないので、天皇の宮としては残らなかったが、朝廷の宮としては672年以降飛鳥浄御原の時代であった。その後、文武天皇が701年2月29日壬申の日に吉野から帰った天武天皇をクーデターで飛鳥浄御原宮から追い出し、その守りは基肄城・大野城などが役に立った。
すなわち、資料5のように671年大友太政大臣就任から704年まで日本の首都は飛鳥浄御原であった。

資料3
『日本書紀』
天智天皇三年五月甲子 百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務悰等進表函與獻物。
持統四年十月乙丑 天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞唐人所計。縁無衣粮。憂不能達。
天智天皇十年十一月癸卯 對馬國司遣使於筑紫大宰府言。月生二日。沙門道文。筑紫君薩野馬。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人從唐來曰。唐國使人郭務悰等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。合二千人。乘船册七隻倶泊於比智嶋。
『旧唐書 仁軌伝』
麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・四國酋長赴會 高宗甚悅
資料4
『日本書紀』
天智天皇即位前紀斉明天皇七年 ・・・皇太子遷居于長津宮。・・・
皇極天皇元年十二月壬寅 天皇遷移於小墾田宮。或本云。遷於東宮南庭之權宮
天智天皇六年三月己卯 遷都于近江
斉明天皇元年是冬。災飛鳥板盖宮。故遷居飛鳥川原宮
天智天皇一〇年正月 甲辰。東宮太皇弟奉宣
天智天皇一〇年五月丁酉朔辛丑。天皇御西小殿。皇太子。
資料5
『日本書紀』
持統八年十二月乙卯 遷居藤原宮。・・・710年
『続日本紀』
慶雲元年十一月壬寅 始定藤原宮地。 ・・・704年

2018年1月10日水曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察1

.飛鳥浄御原宮の前提 天智天皇
天智天皇は近江大津宮天皇と呼ばれ、671年までの在位と日本書紀に記述されているが、持統6年692年に郭務悰が天智天皇のために阿彌陀像を造仏している。
普通造仏は資料1のように目の前の人物のためにせいぜい死後すぐに作成していて、この用例を考えると692年には天智天皇はまだ生きて近江宮に在位していた。
 そして、天智天皇は662年より摂政をしていたが、摂政ということは、他に天皇として在位しているということで、摂政の対象は理論上 孝徳天皇になり、『野中寺弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座』の框に「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と666年に中宮天皇が存在する。
資料2の『藤氏家伝』に記述してある通りであり、なぜ摂政をしているかというと、百済を助ける戦いと白村江への天萬豐日出陣や訪中のためである。
藤氏家伝』では665年に「白鳳五年 秋八月・・・超拝紫冠 増封八千戸 俄而天萬豐日天皇 已厭萬機 登遐白雲」と鎌足に紫冠超拝後に天萬豐日天皇が崩じている。
『旧唐書』は664年の帰国記事と665年の渡中記事で、先遣隊に671年はすでに何度も郭務悰が来日しており不要で664年記事に最もふさわしい。
 
2.上送記事
 日本書紀に上送記事は資料3のとおり5例しかなく、689年・690年の上送は天智天皇に送らなくてはならないため、すなわち、最終的に天智天皇に送らなければならなかったからと思われる。後代上送なら、法隆寺金堂薬師仏のように、天智天皇の世に寺に奉納した像を送ると書くはずだ。
上送という言葉は、天皇以外に政権を支える人物が別にいて、支える人が自分で判断できないものを政権中枢の天皇に判断を仰ぐことのようで、もし、それ以外ならもっと頻繁(天皇以外に上送も)に上送記事があるはずである。

資料1 
『日本書紀』
持統六年閏五月乙酉 復上送大唐大使郭務悰爲御近江大津宮天皇所造阿彌陀像。
持統十一年六月辛卯 公卿百寮。始造爲天皇病所願佛像。
朱鳥元年七月是月 諸王臣等爲天皇造觀音像。則諡觀世音經於大官大寺。
白雉四年六月 天皇聞旻法師命終。多造佛菩薩像安置於川原寺。
白雉元年十月 爲入宮地所壌丘墓及被遷人者。始造丈六繍像侠侍八部等四十六像。
大化元年八月癸卯 小墾田宮御宇之世。馬子宿禰奉爲天皇造丈六繍像。
推古天皇十四年五月戊午 今朕爲造丈六佛以求好佛像
推古天皇十三年四月辛酉朔 以始造銅繍丈六佛像各一躯
用明天皇二年四月丙午 奉造丈六佛像及寺。
欽明天皇六年九月是月 百濟造丈六佛像。製願文曰。盖聞。造丈六佛功徳甚大。

資料2 
 『日本書紀』
天智天皇三年五月甲子 「百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務悰等進表函與獻物」
天智天皇三年十二月乙酉 「郭務悰等罷歸」
天智天皇四年九月壬辰 「唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等・・・上柱國郭務悰。凡二百五十四人」
天智天皇四年十二月是月 「劉徳高等罷歸」
天智天皇六年十一月乙丑 百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府・・・上柱國司馬法聰・・・石積等於筑紫都督府
天智天皇八年是歳 「佐平鬼室集斯等。男女七百餘人遷居近江國蒲生郡。又大唐遣郭務悰等二千餘人」
天智天皇一〇年正月癸卯 「以大友皇子拜太政大臣。以蘇我赤兄臣爲左大臣。以中臣金連爲右大臣」
持統六年閏五月乙酉 「復上送大唐大使郭務悰爲御近江大津宮天皇所造阿彌陀像」
天智天皇八年十月庚申 「天皇遣東宮大皇弟於藤原内大臣家。授大織冠與大臣位仍賜姓爲藤原氏」
天武天皇元年三月壬辰朔己酉。 「郭務悰等咸著喪服三遍擧哀。向東稽首。」
天武天皇元年五月庚申 「郭務悰等罷歸。」
持統四年九月丁酉 「大唐學問僧智宗。義徳。淨願。軍丁筑紫國上陽咩郡大伴部博麻。・・・還至筑紫」
天武天皇十三年十二月癸未 「大唐學生土師宿禰甥。白猪史寶然。及百濟役時沒大唐者猪使連子首。筑紫三宅連得許。傳新羅至。則新羅遣大奈末金儒。送甥等於筑紫。
『旧唐書』 仁軌伝
麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・四國酋長赴會 高宗甚悅
『藤氏家伝』
白鳳五年 秋八月 詔曰 尚道任賢 先王彜則 褒功報德 聖人格言 其大綿冠内臣中臣連 功侔建内宿禰 位未允民之望 超拝紫冠 増封八千戸 俄而天萬豐日天皇 已厭萬機 登遐白雲 
『続日本紀』
慶雲元年七月甲申朔。正四位下粟田朝臣眞人自唐國至。初至唐時。有人來問曰。何處使人。荅曰。日本國使。
慶雲元年十月辛酉。粟田朝臣眞人等拜朝。

資料3
 『日本書紀』
天智天皇二年二月是月 佐平福信上送唐俘續守言等。---663
持統三年正月壬戌 詔出雲國司。上送遭値風浪蕃人。 ---689
持統三年四月壬寅 新羅遣級さん金道那等奉弔瀛眞人天皇喪。并上送學問僧明聡。觀智等。別獻金銅阿彌陀像。金銅觀世音菩薩像。大勢至菩薩像。各一躯。 ---689
持統四年十月戊午 准上送學生土師宿禰甥等送使之例。其慰勞賜物一依詔書。 ---690
大化元年八月癸卯・・・於小墾田宮御宇之世。馬子宿禰奉爲天皇造丈六繍像。丈六銅像。顯揚佛教恭敬僧尼。


2018年1月8日月曜日

最終兵器の古代史 天皇は宮の名前の証明3

5.宮天皇
 694年12月に遷った宮は「藤原」ではなく「飛鳥浄御原」だということは、「近江大津天皇」が694年まで在位したことになる。『日本書紀』では持統紀となって2代ずれてしまうが、『新唐書』で「次用明亦曰目多利思比孤」と「推古天皇」にあてている「タリシヒコ」が『用明天皇』と2代ずれている。
そして、『日本書紀』に「女曰酢香手姫皇女。歴三代以奉日神」と「用明天皇」の皇女が37年間斎王となっているが、「用明天皇」の在位期間が2年でその後の崇峻・推古とまたがって斎王職を務めて本来の形ではないが「推古天皇」が「用明天皇」ならこれもピタリと合致する。
ということは、「天智天皇」は49歳まで生存して、『藤氏家伝』に「冬十一月 天皇喪至自朝倉宮 殯于飛鳥川原 十四年 皇太子攝政」と摂政になったのが17歳、その理由は『日本書紀』に「是時東宮開別皇子年十六而誄之」と「舒明天皇」13年に太子が16歳と書いてあり、『藤氏家伝』に天皇名を書いていない。
しかし、天皇の死亡を13年と書いているので斉明7年ではなく舒明13年が661年となり、「皇極・孝徳・斉明天皇」が662年から694年までに埋もれてしまうことになる。
ということは、「天智天皇」を含めて4人が1人の天皇だということになり、これらの天皇は小墾田天皇・後岡本天皇・飛鳥板盖宮天皇・近江大津宮天皇と呼ぶ事が出来る。
すなわち、「天智天皇」がこれらの宮に遷都したと考えられ、『日本書紀』は複数の天皇を1人に、1人の天皇を複数の天皇にしていることが解り、私はこれを宮天皇と呼んでいる。

6.『古事記』の天皇
 このことから、『古事記』も当然2代ずれなければならなず、『日本書紀』では「豊浦宮」にも拘らず『古事記』の「小治田宮」の「推古天皇」は『日本書紀』の「皇極天皇」の宮「小墾田天皇」から始まる「天智天皇」となって宮の一致は偶然とは思えない。
『船王後墓誌』には「生於乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇」というように「譯語田・豊浦・飛鳥」と記述され「小墾田宮」は記述されないことも2代のズレを物語っている。
『古事記』は「元明天皇」の前々代の「元明天皇」の夫またはその父までの歴史を記述していて、天智天皇と違う系図を持った元明天皇が存在している。
しかし、『日本書紀』は「元明天皇」の家系でなく、『古事記』も以前の政権の『帝皇日継』と『先代旧辞』を写したと言っているのだからさらにもう一つ天皇だった家系が有ることを示している。
神話から「天御中主」を主神とする淡島出身の王から王位を奪った淡路島出身の「大物主」を祀る地域を奪って建国した家系と「國常立尊」を主神とする淡路洲の王から王位を奪った大日本豐秋津洲出身の「事代主」を祀る地域を奪って建国した家系の王朝が有ったということが解る。

7.結語
 以上のとおり、実は『日本書紀』と『古事記』が同一の天皇を記述したと考えられていたが、実際は古事記は2代少ない天皇しか書かれていないことがわかった。
どこかに2代分まとめた天皇があるか、『日本書紀』の天皇が2代分分割されているか、さらに、もっと多くの天皇が複数の宮を持ち、複数の天皇が複数の天皇をまとめて書いていることになる。
紀伝体の資料しか持っていない「元明天皇」は編年体に当てはめる作業によって矛盾のある『日本書紀』を創って、紀伝体の資料の部分が移動してしまった。
「平群眞鳥大臣」の子「鮪」の事件が『日本書紀』では「武烈天皇」前紀すなわち「仁賢天皇」の時代に書かれていて、『古事記』では2代前の「清寧天皇」の時代に書かれていて『古事記』と『日本書紀』の間に2代のズレがある。
なお、以前報告した通り、700年建造した『那須国造碑』以前には「藤原宮」が出現せず、707年作成 『大村骨臓器銘文』、710年作成『伊福吉部臣徳足比売墓誌』には「藤原」が出現して704年「藤原」遷都を否定していない。
しかし、『日本書紀』に「都城宮室非一處。必造兩參。故先欲都難波」と683年に宮を2・3造ると宣言してまず「難波」を造って、692年に「藤原宮」を建造するため地鎮祭を行っているので、695年に「藤原京」が完成していたのは間違いはない。
藤原宮の名も694年の天智天皇崩なら鎌足薨は692年で「賜姓爲藤原氏」と無関係と思えず、藤原賜姓後藤原京と臣下の姓を都の名前にすることは奇妙だが、都の名前を姓に与えることは臣下にとって最高の栄誉となる。
『日本書紀』は「宮天皇」という時計の箱を作り、そこに複数の王を当てはめた、または、分割した史書だということが解る。

2018年1月5日金曜日

最終兵器の古代史 天皇は宮の名前の証明2

3.『日本書紀』と『古事記』

 『日本書紀』は正史であるのだが、「元正天皇」やまだ生存中の「元明天皇」が認めているにも関わらず偽書説や官僚が勝手に書いた物語やら継体天皇以降は信じられるなどと恣意的に正しい部分を決めたりしている。
しかし、これも『古事記』と同じで、在位年数や寿命が長いと言って、他国の史書と合わないと言って間違いとしているが、これらの人々は中国史書が間違いなどと言っている人物がほとんどで、自説が正しく古文書が間違いという、論理とは言えない妄想を唱えている。
しかし、『古事記』と同じ理由でこれらの人物は論証しなおすべきで、古書の矛盾は矛盾とならない読み方をまず考えるべきであり、そして、まさに『日本書紀』には矛盾が存在しているために偽書扱いしているのだが、矛盾を矛盾でない読み方を私は考えている。
矛盾の一つが「元明天皇」の夫の名前で、『日本書紀』では「草壁皇子」、『続日本紀』では「日並知」なのだが、巷間では諱だと言って意に介していない。
しかし、『日本書紀』の皇太子を見ると2つ名を持つ太子はいるが、無い太子もあり、有る皇子は臆病者で、ない皇子は勇敢とでもいうのだろうか。
さらに、「元明天皇」の姉妹で義母でもある「持統天皇」の母親の名前が解らないのではなく、誰だったかわからないというのは異常で、「元明天皇」と「持統天皇」の血縁関係を疑わざるを得ず、「元明天皇」と「日並知」は「持統天皇」と血縁がない無関係の可能性が高い。
さらに、『古事記』の序文では「元明天皇」を「可謂名高文命、徳冠天乙矣」と中国の著名な初代皇帝より優れていると、初代皇帝になぞらえ、従来「天武天皇」と考えられてきた序文の「飛鳥浄御原天皇」だが、その天皇を「道軼軒后、徳跨周王」と中国の殷末の著名な臣下と対比して臣下の様に記述した。
しかも、まだ即位していないのに「飛鳥浄御原天皇」の時代に潜伏していて突如帝位を奪ったと記述している。
この後から帝位を奪った人物が「元明天皇」の先代の人物の「文武天皇」以外考えられない記述をしていて、すなわち、これは「天武天皇」から「文武天皇」に政権が遷ったことを示している。
したがって、『日本書紀』の持統紀は「文武天皇」と併存していたことになり、『日本書紀』を1代後にずらさなければならない。
本来の皇位は天智→天武→文武→元明とつながって「持統天皇」が正当な天皇で、「元明天皇」は707年から「安万侶」が『古事記』を記述しだした和銅四年711年までに正式な皇位を得ることになったと読まなければ辻褄が合わない。

4.飛鳥浄御原京と藤原京
 したがって、持統11年が707年から711年と想定されるということは持統元年は696年から700年の間となる。
そして、『古事記』序文に「飛鳥浄御原天皇」が天皇の時政権を奪ったと書かれているのだから、696年まで「天武天皇」が即位していたことになる。
しかし、この時期は「飛鳥浄御原京」ではなく「藤原京」になってしまうということは、『日本書紀』の「藤原京」も一代ズレて「飛鳥浄御原京」だといえる。
実際、『続日本紀』の704年に「始定藤原宮地」と都を藤原に始めて定めたと記述してあり、すると、694年12月に遷った宮は「藤原」ではなく「飛鳥浄御原」だということになり、「天武天皇」は「飛鳥浄御原」に即位してから入っている。
したがって、「天武天皇」は695年の即位ということになり、天武15年は709年にあたり『続日本紀』では翌年「平城京」に遷り、『続日本紀』では704年から「藤原京」が首都だ。
しかし、『日本書紀』では「藤原京」が消えてしまって「飛鳥浄御原京」ということになり、「飛鳥浄御原京」の「天武天皇」は実際には「天武天皇」・「文武天皇」・「元明天皇」の「平城京」に遷都するまでのことになる。
そして、これらの天皇と並行して「持統天皇」がいて「藤原京」に途中で移っており、すなわち、『続日本紀』に翻訳すると持統9年が710年と考えられる。
すなわち、701年から712年まで続いた正式な天皇が存在して712年に正式に「元明天皇」に皇位を譲った天皇ということになり、臣下の「文武天皇」、初代天皇「元明天皇」と『古事記』序文とピタリと当てはまる。

2017年12月29日金曜日

最終兵器の古代史 天皇は宮の名前の証明1

 これも古田史学で発表したものだが、日本書紀の天皇が複数の王の集合と述べてきたが、その基が天皇が住む宮を基に記述されたことを証明してみた。

 1.『古事記』と『日本書紀』
 『古事記』は序文で安万侶が『古事記』を献上する天皇を「可謂名高文命、徳冠天乙矣。」と中国の初代の皇帝と比較して、和銅四年711年九月十八日に「謹随詔旨、子細採摭・・・以注明、意況易解、更非注」と稗田阿礼が言うままに書き写して、4ヶ月で注釈して序文を付け、和銅五年712年正月二十八日に完成させている。
しかし、その内容は誦習った『帝皇日継』と『先代旧辞』でそれを現代風に訓で書き注を付けだけと書いて献上している。
記紀を比べると『古事記』の中身は最初に出てくる神が「天御中主」でこの神は『日本書紀』本文には出てこない神、一書で3番目に出てくる神で、最初に産んだ島は「淡」島、次に「淡道之穗之狹別」島を産んで「淡」島は子に入れない。
国譲りの時は「大国主」に剣先を突き付けて脅して国譲りさせ、「神武天皇」の妃は「大物主」の子で、さらに、「仁賢天皇」からは系図と宮のみの記述になっていて、紀伝体で書かれている。
それに対して、『日本書紀』の中身は最初に出てくる神が「國常立尊」で『古事記』には6番目に出てきて、最初に産んだ島は「淡路」洲で『古事記』と同じで数に入れない。「大日本豐秋津」洲を産み、国譲りの時において「大国主」は自分で決められずに「事代主」に聞けと逃げているように記述している。
「神武天皇」の妃は「事代主」の子で、事績は「推古天皇」どころかそれに加えて「持統天皇」まで書き、さらに「文武天皇」への皇位継承を書き、続日本紀につながって編年体を取り入れている。
『日本書紀』は正史であるが『古事記』は「元明天皇」が受け取りはしたが正史にせず、正式には残さなかったけれど偶然見つかった。

2.古事記の正当性
 この『古事記』を一時期、後代偽作と言われたが、『古事記』上呈時に正五位上だったと『古事記』に書き、正四位下の「安万侶」の墓誌が発見された。『続日本紀』では711年正五位下だったが715年正月に正五位上さらに716年に正四位下に順調に昇進し、『古事記』序文や墓誌は『続日本紀』とつじつまが合っている。
これで言えることは「安万侶」を知っている人物が偽作したか、「安万呂」が上呈しなかったか、実際に上呈したの3通りが考えられる。しかし、後代偽作なら『日本書紀』を知っているのだからもう少し詳しくかけたはずであり、上呈しなかったなら命じた「元明天皇」が確認して偽史を焼却したと考えられる。
しかし、それでも上呈しなかったことを否定はできないが、上呈しなかったのならより真実に近い内容のため気に入られないから止めたと考えられる。
しかし、あれだけおべんちゃらを書いた人物が天皇じきじきの命令を無視して上呈しないと考えることはあまり理に適う考えとは思えないし、現に墓誌があり『続日本紀』に載って出世している人物が書いた文書を否定出来ない。
やはり、偽作ならもう少し話を「仁賢天皇」以降も盛って書いてもよさそうなので、真実に近い文書であり、『日本書紀』が作成される前の史書としての価値は下がることはない。
しかも、上呈日が713年と記述された史書がある限りそれを否定するにはこの文書が偽書だという同時代の古書を見つけない限り論としては成り立たない。
さらに、『古事記』を「元明天皇」が受け取ったのだから、『古事記』は「元明天皇」に不利益がないことが証明されたといってよい。
事績が有るにもかかわらず削除して嘘があれば「安万侶」は昇進して墓誌を残すどころか「大嘘万侶」と2つ名で処罰されたはずである。
「元明天皇」の王朝の歴史ではないかもしれないけれど、「元明天皇」より前の実際の歴史または「元明天皇」に都合の良い歴史には違いないことが解る。
そして、「舒明天皇」以降を宮名や天皇名を付け加えさせず、「藤原宮」に遷った話や寺を建立した話も書かない。
「天武天皇」などを記述した『日本世紀』が有ったにもかかわらず、『帝皇日継』と『先代旧辞』のままであった可能性が高い。
「元明・元正天皇」が認めた「舒明天皇」から「持統天皇」を『古事記』に書かなかった理由を考えると、『帝皇日継』と『先代旧辞』に載っておらず、『日本世紀』などの資料が無かった。
それで「安万侶」に能力が無く書かなかったか、もしくは「元明天皇」の王朝は「推古天皇」に直接つながって「元明天皇」の親または本人が「舒明天皇」で自王朝でない事績を付け加えず真実を書いたなどが考えられる。
しかし、「安万侶」の序文を見ると、「舒明天皇」以降の事績を書けないわけではなかったと考えられるが、ここでは併記して次の論証にうつる。

2017年12月27日水曜日

最終兵器の古代史 日本神話の再検討4

 さらに、古事記でも日本書紀でも海に流した蛭子神は、共通の敵の日本人と言えば古くから高度な文化を持ついわゆる縄文人と呼ばれる東国の蝦夷のことで、のちに饒速日が天降った地域で、それが銅鐸国である東鯷国で蝦夷は国とは呼んでいない。
『古事記』
「・・・興而生子、水蛭子 此子者入葦船而流去 次生淡島 是亦不入子之例・・・」
『日本書紀』
「・・・次生蛭兒 雖已三歳脚猶不立 故載之於天磐 樟船而順風放棄・・・」

東鯷国は漢書によると20以上の国を有していて、古事記に出現する島ではない列島内の国と君を合わせると22ヶ国でほとんどは銅鐸が見つかっている地域に重なる。東鯷国から建比良鳥・天津日子根・神話部分の神武天皇(大物主を祀る人)が国を支配下にしたのであり、建比良鳥が大国を建国し、天津日子根が東鯷国を滅ぼして国名を神国にし、神八井耳は更に領域を広げて国名を倭に対する大国系の一段上位の、臣に対する大臣、連に対する大連と同じく、倭に対する大倭として天皇を名乗ったと古事記は言っているようだ。
古事記
建比良鳥命、此、出雲国造・无耶志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・津島県直・遠江国造等之祖也。
天津日子根命者、凡川内国造・額田部湯坐連・茨木国造・倭田中直・山代国造・馬来田国造・道尻岐閉国造・周芳国造・倭淹知造・高市県主・蒲生稲寸・三枝部造等之祖也。
槁根津日子。此者倭国造等之祖。
参向耳此者吉野国巣之祖。
神八井耳命者、意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹波臣・島田臣等之祖也。
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年 
新羅王遥望以爲 非常之兵 將滅己國 讋焉失志 乃今醒之曰 吾聞東有神國謂日本亦有聖王謂天皇
漢書 卷二十八下 地理志第八下 呉地条
會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云
後漢書
會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國

銅鐸出土地域の例
道尻岐閉国 常道仲国(上野-新田郡新田町 東中溝Ⅱ遺跡 ・下野-小山市田間) ・武蔵(平塚市-内沢遺跡・海老名市-本郷遺跡 河原口坊中遺跡・東京都八王子市長房町-中郷遺跡 高田馬場三丁目遺跡)・上菟上国 下菟上国 伊自牟国 馬来田国 長狭国(袖ケ浦市-水神下遺跡 市原市-草刈遺跡 君津市大井戸八木 木更津市大久保中越)・遠江国(掛川市 浜松市 富士市船陣ヶ沢 静岡市富士見台1丁目有東遺跡  袋井市愛野向山)・津島(愛知郡鳴海海底 一宮市大和町 八王子遺跡 西春日井郡清洲町 朝日遺跡)・伊予(中央市上分町-上分西遺跡)・科野(長野-柳沢遺跡)など また近畿・山陰・九州に多数出土

 古田氏は日本書紀や古事記の神武東征は正しいと宣言したが、それは、九州王朝が日本を支配していなければ自分の論が成り立たないからであったからの論で、古事記・日本書紀を九州王朝から盗んだもので大ウソの本と宣言した。しかし、古事記も日本書紀もまさに日本の歴史の真実を記述したとしか思えない遺跡や多くの史書との整合性を持ち、多くの説話の集合体であることが解かり、古田氏は九州王朝が持論の多元史観で2つの倭人王朝を認めれば問題無かったのである。
古事記と日本書紀との差は嘘の上塗りの史書なのではなく、書いた支配者の違いが表れているだけでともに関東から西の日本の歴史を記述した史書であることが解る。南九州の縄文倭人が船で武器と文化を交易して、金属器の剣を得ることで日本を統一していったという歴史書で、三国志で記述されていない邪馬壱国の東の倭種70国の歴史、隋書の俀國の東秦王国の歴史が古事記・日本書紀だ。そして、最後に日本書紀や古事記を書きあげた人々は現在の天皇家の時間軸を採用して記述したのであり、この時間軸にそれぞれ日本を支配した王朝が宮ごとに記述した歴史を当てはめたため、多くの矛盾が生じたのである。朝鮮の資料では倭国がいつも攻めてきて、中国史書や日本書紀は朝鮮が日本を尊敬していると書く、すなわち、戦争する中国の冊封体制下の倭国と中国と敵対する新羅の友好国日本が日本列島に存在したのであり、友好を表明するときは倭国で敵対するときは倭人・倭など国が付加されない。