2017年5月31日水曜日

最終兵器のミサ 璽

 日本書紀には何人かの天皇に璽の移動が有ったと書かれているけれど、皇位継承は必ず璽の継承がなければそれこそ天皇の「しるし」ではなくなってしまうのに、皇位継承時に必ず皇后の扱いや葬送記事や宮の記事が書かれているのに一番の重要な儀式を多くの天皇は無視しているのは異様で、実は璽の移動はこの時に王朝の移動が有ったと考える方が妥当な考えじゃないだろうか。
璽の移動は『先代旧事本紀』に天押穂耳尊から饒速日尊→宇摩志麻治→神武天皇に渡ったと書かれて、その後、日本書紀で允恭元年→清寧即位前紀→顕宗即位前紀→継体即位前紀→推古即位前紀→舒明元年→孝徳即位前→持統四年と璽が移動していると書いている。
これらの天皇で思い出すのが、履中天皇(古事記2代のズレで允恭)の「諸國置國史・四方志」→雄略天皇(古事記2代ずれて顕宗)の「日本舊記」→欽明天皇の「帝王本紀」→推古天皇の「天皇記及國記・臣連伴造國造百八十部并公民等本記」→皇極天皇の「悉燒天皇記・國記、燒國記而奉献中大兄」→斉明天皇の「日本世記」→天智天皇の「日本世記」→天武天皇の「帝妃・上古諸事」→元明天皇の「古事記・日本書紀」となにか関係がありそうで、以前の回ではこれらの史書を漢文の調子も違って新しい王朝が書いたと言ったけれど、この璽の移動が丁度王朝の移動を示している。
  『先代旧事本紀』
「正哉吾勝勝速日天押穂耳尊・・・天神御祖詔授天璽瑞寶十種謂贏都鏡一邊都鏡一八握劍・・・天祖以天璽瑞寶十種授饒速日尊・・・宇摩志麻治命日汝先考饒速日尊自天授來天璽瑞寶・・・天皇定功行賞詔宇摩志麻治命日汝勲功矣念惟大功也公之忠節焉思惟至忠矣是以先授神靈剱・・・」
   『日本書紀』
 允恭天皇元年十二月
「爰大中姫命仰歡 則謂群卿曰 皇子將聽羣臣之請 今當上天皇璽符 於是羣臣大喜 即日捧天皇之璽符」
清寧天皇即位前紀 「冬十月己巳朔壬申 大伴室屋大連 率臣連等 奉璽於皇太子」
 顕宗天皇即位前紀
「十二月 百官大會 皇太子億計 取天子之璽 置之天皇之坐 再拜從諸臣之位曰 此天子之位 有功者可以處之 著貴蒙迎 皆弟之謀也 以天下讓天皇」
継体天皇元年二月甲午 「二月甲午 大伴金村大連 乃跪上天子鏡劔璽符再拜・・・乃受璽符」 
推古天皇即位前紀 「皇后辭譲之 百寮上表勸進至于三 乃從之 因以奉天皇璽印」
 舒明天皇元年正月丙午 
「大臣及群卿共以天皇之璽印獻於田村皇子 則辭之曰 宗廟重事矣 寡人不賢 何敢當乎」
孝徳天皇即位前紀皇極天皇四年六月庚戌 「天豐財重日足姫天皇授璽綬禪位」
 持統四年正月戊寅朔 
「神祗伯中臣大嶋朝臣讀天神壽詞 畢忌部宿禰色夫知奉上神璽劔鏡於皇后 皇后即天皇位」

持統天皇の4年は平城京4年713年で古事記が712年に初代天皇のお祝いを書いているし、孝徳即位前期の文は蘇我氏滅亡の時の話で、舒明天皇元年の629年は崇峻天皇前年に物部守屋を滅亡させて、継体天皇の時日本の天皇や皇子が死んだと書かれ古事記の2代前まで書かれていたので武烈天皇で古事記の巨勢王朝が滅んだ。
ということは、ほかの推古天皇の前すなわち2代ズレて用明天皇の時に物部守屋が大伴氏を滅ぼし、清寧天皇の時志毘臣を、雄略天皇は都夫良意富美を、允恭天皇の時も大前小前宿祢大臣を、仁徳天皇の時も履中天皇の時に墨江中王を滅ぼしていて、政権が滅んだと考えるべきで、古事記を書いた仁賢天皇・日本書紀の武烈天皇の王朝も早くても仁徳天皇から奪った王朝ということで、古事記や日本書紀の神武天皇は璽を得ていないけれど、先代旧事本紀の神武天皇は璽を受け取っていて、先代旧事本紀は一番古い王朝を書いている。

2017年5月29日月曜日

最終兵器のミサ 女帝

 どうして、7・8世紀に女帝が多数現れたかというと、第一に皇位継承の不文律が有ったようで、有間皇子が謀反を起こした時19歳で成人でないとたしなめられているように、また皇太子は661年に天智天皇が16歳というように658年には13歳で皇太子になれたけれど、天皇には20歳以上でないとなれないようで、664年には天智天皇は19歳、孝徳天皇も658年にやっと20歳、古人皇子も658年に20歳と思われて、もしもっと高齢なら斉明天皇や皇極天皇が天皇を継続する意味がない。
  『日本書紀』
斉明天皇四年十一月庚寅 
「方今皇子年始十九 未及成人 可至成人而待其徳 他日有間皇子與一判事謀反之時」
舒明天皇十三年十月丙午
「殯於宮北 是謂百濟大殯 是時東宮開別皇子年十六而誄之」

そうすると、田村皇子がどうして推古天皇(吉備姫)と交代できなかったかと言えば、推古天皇は皇太子がいないと言っているように、田村皇子には皇太子となるべき兄弟が無く、古人皇子が皇太子の年齢に達していなかったからのようで、皇極天皇から斉明天皇への先祖がえりは古人皇子の皇太子になる人物が天智天皇で年齢が皇太子に達していないことが原因で孝徳天皇には有間皇子()がいたからだと思う。
   『日本書紀』 
舒明天皇即位前紀 「豊御食炊屋姫天皇廿九年 皇太子豊聰耳尊薨 而未立皇太子」

そして、茅渟王の皇位継承はというと、本来跡を継ぐべき皇太子がいたけれど、647年に皇太子の宮が焼けて人々が大驚恠したと書いていて、この時皇太子が亡くなって次の皇太子孝徳天皇は9歳のため茅渟王の後を妻の吉備姫が皇位を継承して、次の天皇候補を待って山代大兄皇子と田村皇子が争ったけれど糠手姫こと吉備嶋皇祖母の力で田村皇子が即位した。
   『日本書紀』 
大化三年十二月晦 「是日災皇太子宮時人大驚恠」

そして、押坂彦人大兄皇子からの皇位継承も皇太子茅渟王が20歳に達していなかったため糠手姫が皇位を継承したとゆうことで、押坂彦人大兄皇子も皇太子茅渟王が10代で押坂彦人大兄皇子も30代程度と考えられ、敏達天皇は用明天皇の皇子が小さいことから20代前半その弟敏達天皇も10代後半くらいで用明天皇の在位が36年なのだから押坂彦人大兄皇子は40歳程度で茅渟王15歳頃に即位している。
天皇2人制を考えると成人していないもう一人の皇太子がいるとき、誰かが支えないと2人制にならないが、その支える人物が皇祖母と思え、皇祖母が現れるのは皇極天皇の吉備嶋皇祖母、孝徳天皇の斉明天皇、天智天皇の嶋皇祖母こと豊財で、蘇我氏が実質天皇で意にそぐわない人物を排除したため皇位継承が混乱した結果なのだろう。
そのため、天皇2人制をとることができない新参者の元明天皇も元正天皇も孝謙天皇も称徳天皇も皇位継承者が若かったための皇位継承で、孝謙天皇にも称徳天皇(高野姫)にも本来皇位継承者がいたのだろうがそれが果たせず皇位が現在の天皇家に戻ったのであって、皇位継承者がいなかったらもともと天皇になれなかったはずで、皇位継承者がことごとく排除され、もちろん犯人は後の繁栄から勝者藤原氏以外にない。
権力者が暗殺するときには犯人が解っていても犯人と言えず怨霊の仕業と現在に言い伝えていて、奈良・平安時代は恐らく藤原氏の絶大な力で多くの人物が怨霊によって殺害されたのだろう。

2017年5月25日木曜日

最終兵器のミサ 船王墓誌

 668年頃に彫られた『船王後墓誌』という遺物があるけれど、この人物は乎娑陀宮の天皇のとき生まれて等由羅宮からその次の阿須迦宮で仕えたけれど阿須迦天皇の末年とゆうことは阿須迦宮から変わった前年641年に船王が亡くなり668年に奥さんが亡くなったので追葬して墓誌を作ったと書いてあって、船王は日本書紀通りなら遅くとも585年には生まれていて、56年間以上生きてその奥さんがさらに27年生きていることから80近く生きたことになり、641年は舒明天皇の末年で飛鳥には違いないけれど岡本宮天皇のはずで、そしてその前は推古天皇で小墾田宮が抜けてしまう。
   『船王後墓誌』
「惟船氏故王後首者是船氏中祖王智仁首児那沛故首之子也 生於乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲勅賜官位大仁品為第
三殞亡於阿須迦天皇之末 歳次辛丑十二月三日庚寅 故戊辰年十二月殯葬於松岳 」

新しい説で考えると、641年に宮を変える天皇は舒明天皇の2代前崇峻天皇になってしまうけれど、 『上宮聖徳法王帝説』で推古35年と年号は違うけれど干支では641年薨と蘇我馬子の死亡を書いていて、馬子の宮が終わった可能性が大きく日本書紀にも642年に遷都しているけれどもここでは蘇我氏の天皇説は別に書く。
   『上宮聖徳法王帝説』
「曾我大臣 推古天皇卅四年秋八月 嶋大臣【曾我也】臥病 爲大臣之男女 并一千人・・・ 
 又本云 廿二年甲戌秋八月 大臣病臥之 卅五年夏六月辛丑薨之」
   『新唐書』
「崇峻死 欽明之孫女雄古立 次舒明 次皇極」
   『日本書紀』
皇極天皇元年十二月壬寅 「天皇遷移於小墾田宮 或本云 遷於東宮南庭之權宮」

崇峻天皇前期に書いてある、用明天皇末年628年に難波を侵略していて、用明天皇の宮が九州で崇峻天皇が同じく九州の乎娑陀宮、そして、大阪の難波に宮を630年に建設して632年に難波の豐浦宮に遷ろうとしたけれど、崇峻天皇こと押坂彦人大兄皇子が死亡したので遷れず、その時の天皇(蘇我氏)は唐の高表仁に大阪への豐浦宮遷都の式典に招待し、押坂彦人大兄皇子の後継者の遷居は延期になり茅渟王即位後に蘇我天皇は636年に阿須迦宮に宮を遷した。
   『日本書紀』
崇峻天皇即位前紀用明天皇二年七月 「物部守屋大連資人捕鳥部萬 將一百人守難波宅 而聞大連滅」
舒明天皇二年十月癸卯 「天皇遷於飛鳥岡傍」
舒明天皇四年十月甲寅 「唐國使人高表仁等到干難波津」
舒明天皇八年六月 「天皇遷居田中宮」

崇峻天皇四年に語田天皇の陵に敏達天皇と全く関係がない皇后を追葬していて、これは崇峻天皇が欽明天皇の子ではなく敏達天皇の子の麻呂子でその皇后は糠手姫になり、その母を敏達天皇の陵に追葬したということで、実際は崇峻天皇自体の葬送と考えられて、子の田村皇子を即位させるため糠手姫が天皇及び皇祖母となって舒明天皇こと吉備姫を退位させて田村皇子を即位させたけれど、すぐに死んでしまって皇極天皇が即位した。
   『日本書紀』
崇峻天皇四年四月甲子 「葬譯語田天皇於磯長陵是其妣皇后所葬之陵也」

船王墓誌のおかげで、宮の移り変わりがわかり、阿須迦宮のあとは不明の宮(たいてい池邊大宮)そして難波長柄豐碕宮に遷ったけれど、天氏大王は別の岡本宮に住んでいた。

2017年5月23日火曜日

最終兵器のミサ 元明天皇

 『粟原寺鑪盤銘』という遺物に文が彫ってあるのだけれど、715年に中臣大嶋の子の額田というお姫様が、元明天皇のご主人の寺を建立したと書いてあるんだけど、694年に作り始めて715年までかかって、どうして文武天皇や元明天皇がすぐに作れなかったのだろう、すくなくとも701年には子が天皇に即位している。
ところが、この銘板には藤原不比等でもなく中臣大嶋が建立して、本来なら文武天皇か元明天皇の指示と書くべきなのに一言もふれないで藤原氏より下の地位の人物が建立しているのは異様で、実際は大嶋が日並の親で額田が日並の妻元明天皇か娘の元正天皇で、日本書紀を書く前の文なので全く変更されていないと思え、これらの天皇は本来天皇の位の名前を持っていて、701年に生まれた聖武天皇が天璽国押開豊桜彦と天皇らしい名前をもつことになった。
  『粟原寺鑪盤銘』
「此粟原寺者 仲臣朝臣大嶋 惶惶誓願 奉為大倭国浄御原宮天下天皇時 日並御宇東宮 故造伽檻之 爾故比賣朝臣額田 以甲午年始 至和銅八年」

元明天皇が中臣氏だということが解ったけれど、元明天皇の家系の活躍が欽明天皇からのようで在位年が書かれている古事記から解り、欽明天皇の時すなわち2代ずれて用明天皇のときに蘇我氏と姻戚になって、欽明天皇13年、2代ずれて用明天皇の13年に仏教を拒否、推古天皇もズレて天智天皇の時代の、おそらく大嶋の妻が額田部と呼ばれたかもしれず、天武天皇時代は日並と父大嶋の時代と考えられ、日並の妻が額田姫、娘が十市で鑪盤銘の額田と無関係とは思えない。
  『日本書紀』
欽明天皇十三年十月
「物部大連尾輿 中臣連鎌子同奏曰 我國家之王天下者 恒以天地社稷百八十神」
推古天皇即位前紀
「橘豊日天皇同母妹也 幼曰額田部皇女 姿色端麗 進止軌制」
天武天皇二年二月癸未
「天皇初娶鏡王女額田姫王 生十市皇女」
  『古事記』
「娶宗賀之稲目宿祢大臣之女 岐多斯比売、生御子 橘之豊日命」

とにかく、天皇名やその妃名・皇子名、特に日本書紀と古事記が共通する名は元明天皇の系図の可能性が高いことを頭に入れて考えないといけない。

2017年5月21日日曜日

最終兵器のミサ 乙巳の変と郭務悰

 乙巳の変が664年と証明してきたけれど、蘇我入鹿はなぜか天皇よりも遅く帯刀して現れているけれど、これはどう見ても入鹿の方が偉そうで、しかも、天皇が目の前にいるにもかかわらず刀を置くためとはいえ刀に手をかけさせていて、武器を持った人々は隠れていてその場にはいないのにも関わらず、このような無礼が許されるはずがない。
そして、天皇はわけもわからず天智天皇にどういうことか問いかけているということは、本来入鹿が一番偉くて、入鹿を殺害してクーデタをおこしたのだけれど、孝徳天皇は詳細を知らされていなくて驚いたということで、前回書いた664年5月の劉仁願・郭務と打ち合わせた秘密裡の計画で入鹿が自分は悪くなくて天子の責任と言っているように対中国戦の責任の話と思え、天智天皇たちは戦争の責任を蘇我氏に追わせようとしたのが乙巳の変の原因だ。
さらに、天智天皇が皇位を取り上げようとしていたと返事していてクーデタを実行しなければ孝徳天皇が殺害させられるかも知れないということでクーデタがおこり、更に結果として孝徳天皇の急死があって、中国と実際に戦った責任者等が許され無かったとしか思えない。
   『日本書紀』 皇極天皇四年六月戊申
「天皇御大極殿古人大兄侍焉・・・時中大兄即自執長槍隱於殿側・・・當居嗣位天之子也 臣不知罪 乞垂審察 天皇大驚詔中大兄曰 不知所作 有何事耶 中大兄伏地奏曰 鞍作盡滅天宗 將傾日位」

さらに、郭務は671年ではなく665年に来日して672年に帰っているけれど、672年の記事は695年のことで、665年から695年の31年間に及ぶ駐留だったようで、その駐留場所が筑紫都督府で、都督府は700年まで機能していて『那須国造碑』文の中国年号を伴った評督の役職だった。
   『日本書紀』
 天智天皇八年是歳 「大唐遣郭務等二千餘人」
 天武天皇元年五月庚申 「郭務等罷歸」

郭務に廃位させられた天武天皇は郭務のお気に入りの大友皇子から郭務の帰国を待って政権を奪取したため唐の支持を得られず、逆に唐の支持を得た文武天皇が政権奪取してしまったとしか考えられず、粟田真人が701年に大昇進した理由が文武天皇支援を都督府から取り付けたためだと思われる。
郭務の664年5月の会談の後の蘇我氏抹殺、10月の饗応と孝徳天皇の死そして12月の帰国も天智天皇たちが中国の支持を取り付けて蘇我氏から政権を奪っていて、701年に文武天皇も中国の支持を取り付けなければならなかったとゆうことで白村江の敗戦は40年間も日本の歴史を翻弄して、現代の情景を思い浮かべてしまいそうだけれどごっちゃにすべきではなく、証明できない人物を使ったり、証明できない同一人物を想定してしまったら、歴史ではなく空想の世界になってしまう。
『日本書紀』
天智天皇三年五月甲子 「百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務等進表函與獻物」
天智天皇三年十月戊寅 「饗賜郭務等」
天智天皇三年十二月乙酉 「郭務等罷歸」

歴史はロマンなどではなく、ロマンを持つのは良いが論証できる科学でなければいけなくて、間違っても、郭務鎌足説だの筑紫君薩野馬天武天皇説などを主張しても古文献にそんなことを書いたものが1つもなくて証明する方法がない。

2017年5月18日木曜日

最終兵器のミサ 摂政

 天智天皇は『藤氏家伝』に書かれている通り斉明天皇死後662年から摂政に就任しているけれど、摂政というのは天皇が政務を行えないから置かれる位で天智天皇がすでに即位している天皇がいるから天皇に就けない。以前書いたように孝徳天皇が658年に即位して664年死亡しているので天智天皇は皇太子で662年から孝徳天皇がいるのに天皇の役割が果たせない状況だったようで、さらに、孝徳天皇死後も前に書いたように中宮天皇が即位して668年に天智天皇に皇位を譲っている。
  『藤氏家伝』
「十四年 皇太子攝政 契闊早年 情好惟篤 義雖君臣・・・攝政六年 春三月 遷都于近江國」 

中宮天皇は665年に唐の天子と面会していて、666年は病気だったと「野中寺金銅弥勒菩薩台座框」に書いてあって中宮天皇は政務を遂行できない状態だったことが解り、そして、孝徳天皇に何が有ったのか考えると、この時は白村江で戦争を行い、日本は倭の5王の武が言っているように王自らが先頭に立って戦争を行っているように、孝徳天皇も朝鮮に赴いていたのではないか。
そして、大敗戦だったため孝徳天皇も拘束されて664年に郭務とともに水先案内人の役割を以て戦闘がおこらないようにするためのセレモニー的な帰国で、それが、 筑紫君薩野馬の記事で持統紀4年の天智天皇3年と天智天皇10年は天智天皇即位3年で同じ記事と考えられ、そうでなかったら博麻を売った金で薩夜麻達は豪遊でもしていたのだろうか。
  『日本書紀』
 天智天皇三年五月甲子
「百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務等進表函與獻物」
 天智天皇一〇年十一月癸卯
「對馬國司遣使於筑紫大宰府言 月生二日 沙門道文 筑紫君薩野馬 韓嶋勝娑婆 布師首磐 四人從唐來曰 唐國使人郭務等六百人 送使沙宅孫登等一千四百人 合二千人 乘船册七隻倶泊於比智嶋 相謂之曰 今吾輩人船數衆 忽然到彼恐彼防人驚駭射戰 乃遣道文等豫稍披陳來朝之意」
 持統四年十月乙丑
「天命開別天皇三年 土師連富杼 氷連老 筑紫君薩夜麻 弓削連元寶兒四人 思欲奏聞唐人所計 縁無衣粮 憂不能達 於是 博麻謂土師富杼等曰 我欲共汝還向本朝 縁無衣粮 倶不能去 願賣我身以充衣食」 

そのため、664年5月の郭務の日本到着記事が無く12月の帰国記事があり、帰国時に中宮天皇を連れて訪中して中国の天子に面会して665年9月に帰国し、天智4年に郭務悰が来日して天武元年まで帰国が無く日本往来とも合致し、ている。
  『日本書紀』
 天智天皇三年五月甲子
「百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務等進表函與獻物」
 天智天皇三年十二月乙酉
「郭務等罷歸」
 天智天皇四年九月壬辰
「唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等」
 天武天皇元年五月庚申
「郭務等罷歸」
  『旧唐書 仁軌伝』
「麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅」

すなわち、女帝も政務が行える立場にあれば摂政を置くことが無く、推古天皇に摂政が必要なわけでもなかったし、神功皇后が摂政に就いたのは応神天皇が3歳の幼児だったからなのだけれど、斉明天皇と孝徳天皇と皇太子の3人の統治の理由は太子が13歳と若かったため後見人が必要だったのが皇祖母なのか。
  『日本書紀』
 舒明天皇十三年十月丙午
「殯於宮北 是謂百濟大殯 是時東宮開別皇子年十六而誄之」

2017年5月16日火曜日

最終兵器のミサ 皇太子とは

 皇太子が天皇と同格すなわち天皇2人制と書いてきたけれど、その証拠が多利思北孤で夜が明けたら弟に政務を任せると太子利歌彌多弗利に、弟に任せると書いていて(男弟王の名前が解らないはずがなく、弟は太子利歌彌多弗利)弟と昼夜を交代する大王が存在して、端正という年号が推古天皇の端正と崇峻天皇の端正があり、天皇が変わって年号が変わらないとゆうことは無いし、後代文献のため天皇や干支を変更していると思われるけれど2代天皇がずれた用明天皇と敏達天皇の端正があって端正1年2年は本来敏達天皇だけど、文献自体が日本書紀に影響されていると思われて、2人の天皇の隋書と符合する。
  『隋書』
「俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言 俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子為利歌彌多弗利」
  『万福寺 子持御前縁起』
(中略)「推古天皇御宇端正元年癸丑十一月十三日午の刻」
  『黒沼大明神縁起』
「崇峻天皇御時端正二庚戌年六月十五日黒沼大明神ト申」

また、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』に法興の元号を使用しているけれど、31年の間には他の多くの年号があって並列しているけれど、1つの王朝に2つの年号は有り得ず、多利思北孤が煬帝のように自分も天子だと言っているのだから法興帝とよんだとしても間違いとは思えないし、もう一人の上宮法皇が聖徳帝と呼ばれていたかもしれない。
   『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』
「法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩。明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾」

そして、弟に委ねるということから皇太弟ということで日本書紀の立太子記事が必要なのだけれどその記事が書いてあって、しかも日本書紀でも「上宮」太子で「上宮」法皇と名前が同じで無関係とは言えないし、とゆうことは、立太子のない時期は長男の皇太子が存在して、上宮太子死後は用明天皇の長男の彦人皇子が皇太子になって用明天皇末年に宮を遷した。
その証拠が623年の日付の『隅田八幡神社人物画像鏡』には(押坂の宮の彦)日十()大王の男弟王に百済の武寧王から鏡を送られていて、上宮太子死後2年目の金石文でタリシヒコ大王33年にヒコヒト大王がいる。
   『日本書紀』
 推古天皇元年四月己卯
「立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子・・・父天皇愛之令居宮南上殿 故稱其名謂上宮廐戸豐聰耳太子」
 用明天皇二年四月丙午
「遂作太子彦人皇子像與竹田皇子像厭之 俄而知事難濟 歸附彦人皇子於水派宮」
   『隅田八幡神社人物画像鏡』
「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻」

その後、立太子は有間皇子が殺害されたあとに即位した孝徳天皇までなくその間の皇位継承は女帝も存在するので夫婦間や長男が皇位を継承してきたのであって、そのような決まり通りでなければ天皇の継承が朝鮮や日本の標準時計にはなれないし、中国が時計になれなかったのは長期に続く王朝が無かったからで、日本の天皇家は日本の王者ではなかったけれど一貫して王朝をつないできたために標準時計とされた。
   『日本書紀』
 皇極天皇四年六月庚戌
「譲位於輕皇子 立中大兄爲皇太子」

2017年5月14日日曜日

最終兵器のミサ 日本の時計

 前回史書を書いた王朝の区切りをみたけれど、これは何を意味するかというと、例えば日本世記は斉明天皇から書いているということは斉明天皇の時代あたりで天皇記・國記を書いたということ、すなわち、日本世記は日本書紀の持統天皇までを書いていて、持統天皇の王朝が天武天皇まで日本世記を書いて持統天皇が元明天皇の時代に活躍しているように、日本世記曰と嶋大臣を書いていないということは斉明天皇の時代に嶋大臣が活躍していたと考えられることを示しているし、すでにそれを証明した。
そして、欽明天皇から推古天皇の時代にその前の王朝が活躍し、その前の王朝は継体天皇から、さらにその前は古事記の世界の可能性があるため雄略天皇または允恭天皇、さらに履中天皇か応神天皇の王朝が始まったと考えられて、さらに、朝鮮の史書の三国史記すらも、173年の卑弥呼の訪新羅が2代ずれていて日本の時間を採用したと思われて、奈解尼師今20年の215年の可能性がある。
  『三國史記』 卷第二 新羅本紀第二  阿達羅尼師今
「二十年 夏五月 倭女王卑彌乎 遣使來聘」

そうすると、神功皇后の卑弥呼記事も正しくて皇后は卑弥呼のように独身でないので神功皇后の宮と並行して卑弥呼の宮があって、なぜかこの時期だけ九州の香椎に宮を遷しているけれど、この興味深い話はずっと後にしておきたい、なぜなら、現在の天皇家の先祖ではあるけれどまだ地方政権の倭国の話、日本国の一部の話で卑弥呼に関してそれほど興味があるわけではないし、古文書全てを信じれば邪馬台国も一目瞭然だとゆうこと。
だけど、日本書紀の時間と三国史記の時間が大きく狂っている部分があるけれど、これも、干支が一巡り違うからとその部分だけ動かすのは間違いで、古事記を書いた王朝の時計も、三国史記の2代のずれを考慮する必要があるとゆうこと。
日本書紀と古事記があるおかげで、真実の古代史がよくわかって、日本は本当に幸せな国なのに古代史家はそれをどぶに捨てているけれども、古事記の資料を残してくれた仁賢天皇の縮見高野宮の官僚に感謝しなければいけない。
    『日本書紀』
仁賢天皇元年戊辰正月乙酉 「皇太子於石上廣高宮即天皇位 或本云億計天皇之宮有二所焉一宮於川村二宮於縮見高野其殿柱至今未朽」

日本の時計は欠史8代で、古事記の仁賢天皇以降の様に天皇の即位時の年齢と名前・皇后名・妃名・皇子名・次代天皇の皇子名・立太子年・宮の継続年・宮の名前・陵の名前が日本の時計で、これらの項目と干支がわかれば史書を 紀伝体から編年体に作り替えることができて、それぞれの宮には宮を作って幾年目に何が起こったという記録があったけど、なぜか2代目から9代目まで記録が無くどこかから宮の記録をつなぎ合わせた、そんな長い記録をもつのは日本書紀では高千穂宮しかなくて、古事記の記録を書き始めた時に580年宮が続いていてその記録を使ったけれど、天降ったと思われる地域の糸島市では弥生時代の硯が発見され、文字を刻んだ土器も出て文字を記録する環境はできていて高祖神社がある。
   『古事記』 神代
「日子穂ゝ手見命者 坐高千穂宮 伍佰捌拾歳」

前回も書いたように「森博達」とゆう先生が日本書紀巻13の安康天皇までは日本人が書いて日本書紀巻21の崇峻天皇までは中国人が書いたと論じているけれど、何故か偉い先生たちは何でも中国人が日本人に与えてもらわなければ何もできなかったと言いたがるけれど、そうではなくて、史書を最初に書いた日本人は中国語の知識を百済から習った王朝が書いたのであって、その後は、周の時から中国人に習った日本のエリートの弟子たちがずっと受け継いだ知識で書いたとゆうことで、書いた王朝が違うのだ。
だから、巻第24・巻第25は乙巳の変・大化の改新の記事だけ日本人が書いてそれ以外の部分が中国人とゆう矛盾があって、本来の周の時から習った王朝が書いたものに2つの記事を後から押し込んだために起こったのだ。

2017年5月12日金曜日

最終兵器のミサ  古事記と日本書紀はいつ書き始められた

 古事記や日本書紀の神話は出雲や伊都で書き始められ、編年体の記事は漢が建元した時代から書き始められたと証明したけど、最初に史書としてまとめたのはいつなのかというと、書き方自体は古事記の方が古そうだけど内容を見てみると日本書紀の方が古いことが解り、神武天皇の東侵記事で出発点が日本書紀は速吸之門→菟狹→筑紫岡水門→安藝國埃宮→吉備國高嶋宮で古事記は日向高千穗宮→豐國宇沙足一騰宮→竺紫岡田宮→阿岐國多祁理宮→吉備高島宮→速吸門と速吸門の場所が違うけれども日向高千穗宮が加わっていて、神話も5柱の神が追加されていて、日本書紀の少なくとも神武天皇まで出来上がった状態で古事記が書き始められていることが解る。
そして、古事記の応神天皇の時に百済から千字文を取り寄せてすなわち字の練習のための書物を得て初めて文字を習っていることから、応神天皇の時代以降にしか書きようがないとゆうことで、応神天皇の時代までは日本書紀を最初に書いた王朝(諸國置國史。記言事達四方志)の資料を手に入れたことが解り、そして、紀伝体で書き大国主の記事を多く持つことから出雲の史書の影響のもとで書いて、神武天皇が大物主の家系の奥さんをもらっていることから、大物主を主神としていて、豊秋津すなわち豊国(現在の広島県で後代に大分県に変わった)の安芸が出身で亦の名から豊国の御毛沼が初代の天皇の王朝、その王朝が古事記を書き始めたと解る。
   『古事記』
 神代
「若御毛沼命 亦名豊御毛沼命 亦名神倭伊波礼毘古命」
 応神記
「即論語十巻・千字文一巻 并十一巻 付是人即貢進」

そして、方向が目的地より逆に向かっていることから、奈良に向かうのに正しいルートが始まる安芸が東侵の始まりで奈良で神武天皇が大物主の家系の奥さんをもらうということはご主人が三輪神から土地を奪っている大物主で侵攻したのは大物主だということが解り、出発点から古事記を書いた王朝の建国場所は日向か宇佐、日本書紀を書いた国の建国した場所は菟狹か筑紫と考えられるけれど、話の内容は近畿の話ばかりということは、やはり、古事記も日本書紀も日本の歴史で倭国の歴史ではない。
日本書紀が菟狹か筑紫の建国ということは日本の時間軸も菟狹か筑紫の王朝の時間軸を使ったということで、すなわち、日本書紀の時間軸は菟狹か筑紫の王朝の宮の移動が中国の元号とも比較できる日本共通の暦だということで、矛盾に満ちた天皇の系図で有るはずがない。
そして、古事記は顕宗天皇で細かい記述がなくなるので、古事記をかいた王朝が終焉を迎えたようで、その後に元明天皇の系図をくっつけたのが現在に残っている古事記で、日本書紀も舒明天皇まで書いた王朝(天皇記及國記)と皇極天皇から書いた王朝(日本世記)が違うと考えるべきで、古事記の顕宗天皇は日本書紀では2代ずれて武烈天皇で継体天皇の記事を書いた王朝(日本舊記・帝妃)が編年体の資料を持っていて書き始めたと考えないといけない。
  『日本書紀』
履中天皇四年癸卯八月戊戌 「始之於諸國置國史 記言事達四方志」
雄略天皇二一年丁巳三月 「盖鹵王母弟也 日本舊記云 以久麻那利賜末多王 盖是誤也」
宣化天皇四年己未十一月丙寅 「皇后崩年傳記無載 孺子者盖未成人而葬歟」
欽明天皇二年三月 「其五曰泊瀬部皇子 帝王本紀多有古字 撰集之人 屡經遷易 後人習讀」
推古天皇二八年是歳 「皇太子 嶋大臣共議之録天皇記及國記 臣連伴造國造百八十部并公民等本記」
皇極天皇四年六月己酉 「悉燒天皇記。國記。珍寶。船史惠尺即疾取所燒國記而奉献中大兄」
斉明天皇六年七月乙卯 「高麗沙門道顯日本世記曰 七月云云」
天智天皇八年十月辛酉 
「日本世記曰 内大臣春秋五十薨于私第 廼殯於山南 天何不淑 不憖遣耆 鳴呼哀哉」
天武天皇十年三月丙戌 「大山下平群臣子首令記定帝妃及上古諸事」

森博達は雄略天皇から崇峻天皇までと皇極天皇から天智天皇は中国人が書いたと他の朝鮮の影響を受けた部分と分けているけれど、書いた人物ではなくて書いた王朝が違うのであって、同時に手分けして書いたのならそれこそ統一された史書などできなくて間違いだらけになる。

2017年5月10日水曜日

最終兵器のミサ 古事記と日本書紀の読み方



 日本書紀の2代のズレと古事記の系図に付け加えた「天」の姓をもつ人物を調べてきて、矛盾なくすらすらと説明できたけれど、どうして古事記は推古天皇で書くのをやめたか説明すると、元明天皇の系図も正しくて、古事記では継体天皇から欽明天皇まで統治年数を書いていない、すなわち、元明天皇の実質活躍している系図は敏達天皇から推古天皇までで舒明天皇は元明天皇にとって現代だということと考えられる。
すなわち、日本書紀が2代ずれているとゆうことは、古事記も2代ずれていて、推古天皇で終わりということは2代ズレて皇極天皇にあたって古事記の推古天皇は皇極天皇と一緒に始まって、宮も小治田と同じで在位37年と長く日本書紀の皇極天皇は665年と解ったので古事記の推古天皇元年も665年で37年は701年で702年に太上天皇が死んでいる。
  『古事記』
「豊御食炊屋比売命 坐小治田宮 治天下三十七歳」
  『続日本紀』
大宝二年十二月乙巳 「太上天皇不豫 大赦天下 度一百人出家 令四畿内講金光明經」

そして、聖徳太子に関する古文書が多く残っていて、日本書紀に影響されているけれども、摂政を行っている太子というのは天智天皇のことで、推古天皇の宮と書いているのは元明天皇家が住んでいたところの宮を書いていると考えれば辻褄が合い、元明天皇家の舒明天皇は飛鳥浄御原天皇こと文武天皇のことと考えることができる。
すなわち、古事記は日本書紀よりさらに2代近くズレてしまったわけで、古事記の世界で記述している古い文献は、隋書や法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘には推古天皇の時代にあてているけれど大王で、法隆寺金堂薬師如来像光背銘や聖徳太子関係の文献や先代旧事本紀は良くて「大王天皇」でほとんど「天皇」と時代が違うか対象が違う。
とゆうことは、日本書紀を書いた王朝と古事記を書いた王朝は違う王朝で日本書紀に古事記の系図を押し込んだため矛盾ができてしまって、古事記も天皇名を見ると垂仁天皇までが元明天皇の家系のように感じる。
そのため、舒明天皇から「天」姓につなぐ時と天武天皇及び持統天皇から文武天皇につなぐ時に苦労していて、舒明天皇の接続に白雉年号から大宝年号の前の大化年号を入れ込み、天武天皇から文武天皇につなぐために朱鳥年号を使って舒明天皇に戻して持統天皇に文武天皇へ天皇位を禅譲させた。
元明天皇は史書を書く能力はなかったけれど、江戸時代の国学者たちによって間違いだらけの史書と言いながら受け入れられてしまって、矛盾の場所だけ間違いと都合の良いとらえ方をしたけれど、その原因は次の史書『続日本紀』も元明天皇の都合を受け入れてしまったためで、天姓の桓武天皇が天姓の天皇を引きずりおろした藤原氏の巨大勢力を恐れて受け入れざるを得なかったのではないのか。
日本の史書は史書を書いた時代の権力者を無視できない見方で記述するために、前代の史書を継承してきたと考えれば、日本書紀の内容がよくわかると思う。
ここまでで書いてきたのは、日本書紀は天皇の在位時代が2代ずれていて、しかも天皇名は天皇個人の名前ではなく統治した宮の名前で、1人の天皇には複数人の天皇がいたり、複数の天皇が1人の天皇の可能性があるということ、さらに持統天皇と飛鳥浄御原天皇が並行して有ったように、前後の天皇の中には同じ時に天皇だったことも頭に入れなければならない。
そして、古事記はさらに日本書紀と2代ずれている、実際の統治年代は4代ずれているので、日本書紀には2代ずれた内容が書かれている可能性があって、記事がずれているわけではないけれど天皇名もさらに2代ズレてることを考えながら読まなければならないけれど、日本書紀の天皇は新唐書も使っているように、日本の古代の標準時計であることには変わりがない。

2017年5月8日月曜日

最終兵器のミサ 飛鳥浄御原京

 天武天皇が即位した宮飛鳥浄御原宮は672年に遷ったと日本書紀に書いてあるけれど、この時は2代のズレで孝徳天皇の時代で、孝徳天皇は丁度、大化年号が5年、白雉年号が5年と別れていて、672年は大化5年と宮が変わるにはバッチリの切り替え時になり、前年には大友皇子が太政大臣になっている。
  『日本書紀』
天智天皇一〇年正月癸卯 「大錦上中臣金連命宣神事 是日 以大友皇子拜太政大臣」
天武天皇元年十一月丁酉  「是歳、營宮室於岡本宮南 即冬遷以居焉 是謂飛鳥淨御原宮」
 
この、太政大臣というのは後に草壁皇子が皇太子の時に高市皇子が太政大臣で天皇・皇太子に次ぐNo3がなる地位のようで、671年には皇太子(ただしこの記事が694年の可能性もあるけれどもともと長男は12歳ぐらいになれば皇太子だ)がいて大友皇子はNo3以下だ。
  『日本書紀』 
天智天皇一〇年五月辛丑 「天皇御西小殿 皇太子 群臣侍宴」

そして、668年から690年までなぜか外交使節の饗応を3分の1近く筑紫で行っていて667年以前には筑紫の饗応は2回となっていて、饗応は王様がいる場所で行うのが普通で、この時期には天皇が九州にいたことが解るし、九州に首都に準じる副都があると、場所は書かないけれど、書いてあるということは首都が大津にあったけれど首都機能が筑紫に有ったと思わなければ辻褄が合わないし、大宰府にはこの時期藤原京と同程度の都が出土している。
すなわち、少なくとも671年から694年までは飛鳥浄御原が首都と書いているけれど途中まで筑紫に首都が無く690以降は筑紫と書かないとゆうことは、飛鳥浄御原が筑紫に有って首都機能を持っていてそしてそこには唐の出先機関都督府が有ったということで、実際、出土した遺物の文を見ても704年までは飛鳥浄御原しか出てこなくて、しかも、前後が付いているけど持統と読まなくては筋が通らない文はないことから、前後は695年か701年が分岐点かと思っていて、さらに、都督府が有ったと書いたけど、『那須国造碑』文に評督と書いて都督の下部組織のような名前と中国年号を伴って700年に書かれていてこれらを裏付けている。
  『那須国造碑』
「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月」

681年長男の皇太子は引きずり降ろされて天渟中原瀛眞人と臣下にされておそらく草壁皇子ではなく大友皇子が皇太子になって、681年から5年間の宮が変わるまで摂政を置いたとされるけれど、おそらく天智天皇が首都以外に常駐して不在のための摂政でもしかしたら天皇が天武天皇とともに郭務悰に幽閉されていたかもしれず、以前郭務が天智天皇に仏像を送ったと書いたとおり695年まで郭務が日本に駐留していて郭務お気に入りの大友皇子を皇太子にしたと思われ、天武天皇が大友皇子から政権を奪ったために天武天皇は防衛のため城を築いたりして、吉野へ何度も行き、文武天皇クーデタの時に粟田真人に唐と調整した恩賞で特進できたようだ。
  『日本書紀』
天武天皇十年二月甲子 「是日 立草壁皇子尊爲皇太子 因以令攝萬機」

2017年5月6日土曜日

最終兵器のミサ 天豐財天皇

 天豐財天皇が664年天萬豐日天皇の急死によって天皇位に就いた事を示したけれど、この天皇はいろんなところに足跡を残していて、野中寺金銅弥勒菩薩台座框に666年にこの像を中宮天皇の病気治癒を祈願し造ったと書いてあり、730年に書かれたものだから日本書紀にあわせて維清原宮馭宇天皇と書かれているけれど、680年に天智天皇の前の天皇・大上天皇の中宮のために薬師寺を建立したと書かれていて、 法隆寺金堂薬師如来像光背銘も通説は607年に奉納したとあてられているけれど、586年に用明天皇は即位したばかりで温情で皇位を譲られたとは思えず、また、推古天皇の時代は大王と呼ばれて天皇でないため646年の天皇の病気治癒祈願で像を奉納したのは667年に自分の病気治癒の感謝を含めて中宮天皇と天智天皇が奉納したのだと思う。
   『野中寺金銅弥勒菩薩台座框』
丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十
   『薬師寺 東塔擦管銘』
維清原宮馭宇 天皇即位八年庚辰之歳建子之月以 中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕 騰仙大上天皇奉遵前緒遂
   『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』
池邊大宮治天下天皇 大御身 勞賜時歳次丙午年・・・小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉
   『日本書紀』大化元年八月癸卯 
小墾田宮御宇之世。馬子宿禰奉爲天皇造丈六繍像。

そして、天萬豐日天皇の母すなわち天豊財の母吉備姫が652年に天豊財恐らく田村皇子そしてすぐに死亡したため皇后天豊財に天皇を譲ったので皇祖母になっていたけれど655年再度天皇に復帰して658年天萬豐日に皇位を譲ったけれど、正式に皇位に就く前に皇太子となるべき有間皇子を失脚させて、田村皇子の長男で太子だった古人大兄も辞退させて吉野で隠遁生活をさせ、天智天皇を皇太子にしたけれど、おそらく鎌足の陰謀だったのだろう。
    『日本書紀』
  大化元年九月戊辰
「或本云 古人大兄 或本云 古人太子 此皇子入吉野山 故或云吉野太子 垂 此云之娜屡」
  斉明天皇元年正月甲戌
「皇祖母尊即天皇位於飛鳥板盖宮」
  斉明天皇四年十一月庚寅
「他日有間皇子與一判事謀反之時 皇子案机之脚无故自斷 其謨不止 遂被誅戮也」
  天智天皇即位前紀
「天萬豐日天皇後五年十月崩 明年皇祖母尊即天皇位」
  天智天皇三年六月
「嶋皇祖母命薨」
  斉明天皇即位前紀
「改元四年六月 讓位於天萬豐日天皇 稱天豐財重日足姫天皇 曰皇祖母尊 天萬豐日天皇後五年十月崩」

吉備姫は661年死亡して、天萬豐日天皇も664年に死亡、嶋皇祖母こと天豊財が中宮天皇として即位したことが解り、天智天皇3年の嶋皇祖母の死亡は687のことと思われて、古事記の系図に新たに追加した「天」の姓をもつ天皇の概略を明らかにした。

2017年5月4日木曜日

最終兵器のミサ 壬申の乱

 天萬豐日天皇が亡くなったとき近くには皇太子・高祖母・皇后・皇弟が取り巻いていて、高祖母が天皇位に就いて、引き続き天智天皇が皇太子になって、天智天皇の即位が668年にもかかわらず、664・667年に大皇弟が書かれているということは、この大皇弟は天智天皇の弟ではなく天萬豐日や天豐財の弟と考えるべきで、もし天智天皇の弟なら唯の皇太弟のはずで皇太子なら立太子しなければならず、天智天皇が即位したときに皇太弟と呼ばなければならないから、大海皇子は天智天皇の叔父にあたっていて、667年天智天皇が即位前667年の当時の天皇を皇太后天皇と呼んで以前皇后であったと書いていて以前天皇に就いて、この天智天皇が皇太子という天皇と同格で称制・摂政も務め天豐財はピッタリだ。
 『日本書紀』
   白雉五年十月癸卯朔
「皇太子聞天皇病疾。乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟公卿等。赴難波宮。」
   天智天皇即位前紀
「譲位於天萬豐日天皇 立天皇爲皇太子 天萬豐日天皇後五年十月崩 明年皇祖母尊即天皇位」
   天智天皇三年二月丁亥
「天皇命大皇弟 宣増換冠倍位階名及氏上民部 家部等事 其冠有廿六階」
   天智天皇五年(666)三月
「三月。皇太子親徃於佐伯子麻呂連家。」
   天智天皇六年(667)二月戊午《廿七》
「皇太子謂羣臣曰。我奉皇太后天皇之所勅。憂恤萬民之故。不起石槨之役。所冀永代以爲鏡誡焉。」
   天智天皇七年(668)正月戊子《三》
「皇太子即天皇位。」

そして、天武天皇は新唐書に天智天皇の子と書いていて、天武天皇の皇子たちの盟約で兄弟でないはずの芝基皇子が兄弟と言っていることから、この時の天皇は天智天皇の発言で、この時代は郭務が日本に来ていて親子関係を間違えるはずがないことから、壬申の乱の勝者は天智天皇で敗者は大海人皇子であって、大友皇子が敗者の天武天皇との戦いは695年に起こったことが解る。
 『新唐書』
「天智死 子天武立 死 子總持立」
 『日本書紀』
   天武天皇八年五月乙酉
「天皇詔皇后及草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子曰・・・吾兄弟長幼、幷十餘王、各出于異腹。然不別同異」
   朱鳥元年八月癸未
「芝基皇子。磯城皇子。各加二百戸。」

芝基皇子が671年にはまだ幼く679年に盟約できる年齢に達して686年に加増される年齢だったということは光仁天皇が芝基皇子の40歳頃の子、天智天皇の20代に芝基皇子が誕生したことになって、日本書紀通りであれば天智天皇も芝基皇子が50歳近い時の子となってしまって現代を思わせるような高齢出産時代となって、藤原不比等も鎌足が23歳の子で当代一の出世頭の内臣の子として姻戚になろうと引く手あまたで文武天皇の姻戚になっても全く不思議ではない。

2017年5月2日火曜日

最終兵器のミサ 中臣鎌足

 日本書紀どおりに読み進めると中臣鎌足の扱いが不思議でならないのだけど、というのも、鎌足は614年に生まれて、乙巳の変が645年31歳で、乙巳の変の恩賞が9年もあとの654年40歳でいかにも間が抜けていて、ただし、645年に大錦冠を授けたと書いているけれど大錦冠は647年に制定されていて、しかも、654年には大綿冠がなくて664年に大錦冠が復活し、冠を授けることが孝徳天皇の前紀に書いてあるから移動する可能性があるけれど、『藤氏家伝』には孝徳天皇が亡くなった白鳳5年に高祖母が即位して皇太子に政務を委ねて紫冠から大紫冠に遷し、爵を進め功として、五千戸を増封されたと書いているけれど年号が日本書紀の白雉と違って白鳳で、647年以前の紫冠は臣下には与えられなかったため日本書紀は大綿冠としたのだろうか
   『日本書紀』
 孝徳天皇即位前紀皇極天皇四年六月庚戌
  「以大錦冠授中臣鎌子連爲内臣。増封若于戸云云。」
 白雉五年正月壬子
  「以紫冠授中臣鎌足連。増封若干戸。」
   『藤氏家伝』
  「白鳳五年 秋八月 其大綿冠内臣中臣連 功侔建内宿禰 位未允民之望 超拝紫冠 
  増封八千戸  俄而天萬豐日天皇 已厭萬機 登遐白雲 皇祖母尊 俯從物願 再應寶暦 
  悉以庶務 委皇太子 皇太子・・・ 故遷大紫冠 進爵爲公 増封五千戸 前後并凡一萬五千
  戸 ・・・
  十二年 冬十月 天皇幸于難波宮 即隨福信所乞之意 思幸筑紫 將遣救軍 初備軍器 
  十三年 春正月 御船西征 始就海路 ・・・・
  十四年 皇太子攝政 契闊早年・・・」

白雉と白鳳の違いの原因は斉明天皇の宮12・13・14年の資料があったためと考えるべきで、日本書紀の斉明天皇には7年までしかなく白雉も12年がなく白鳳ならあるため、白鳳4年を日本書紀にあわせて白雉5年として舒明天皇の宮12・13・14年の唐に対する対応をその後ろに配したと思われて、舒明天皇の宮なら13年まであり、2代ずれているので斉明天皇が舒明天皇・岡本宮天皇と言って孝徳天皇は大化・白雉と実質には宮を持ってなくて岡本宮が13年以上続いていて岡本宮14年662年もありえると思う。
冠位・年号がすべて664年に集まってきて天萬豐日天皇が亡くなったのも664年で、664年に蘇我大臣大連の死亡記事があって、先代旧事本紀に宗我入鹿連と入鹿を書いていて蘇我連大臣が664年5月にわざわざ是月と念を押して5月に書いたにもかかわらず 或本の注釈をつけて5月と念を押していて明らかに本来別の場所に書くべきことを5月に書いたようになっていて、664年6月のことかもしれない。
  『先代旧事本紀』5巻天孫本紀15世孫
 「宗我嶋大臣爲妻生豊浦大臣名日入鹿連公」
  『日本書紀』天智天皇三年五月
 「是月 大紫蘇我連大臣薨 或本 大臣薨注五月」 

すなわち、乙巳の変は645年ではなく664年5月か6月に起こってその直後に鎌足に紫冠の褒章をし、天萬豐日天皇が亡くなって高祖母が天皇に返り咲き天智天皇を摂政として、摂政天智天皇が鎌足の冠を大紫冠に格上げし、前に書いた665年に訪唐した天皇が天豊財だということになる。