2017年6月30日金曜日

最終兵器のミサ 太子4

 成務天皇は何故か立太子を2回書いていて、景行天皇五一年と成務天皇即位前紀に景行天皇卌六年と5年前24歳で太子になって39歳で即位して98歳で死んだのを107歳と書いている。景行天皇五一年に即位して成務天皇六〇年107歳とすると13歳違うことになる。これは、13歳の人物が成務天皇の宮で即位したと考えられ、すると景行天皇の3年間の後に成務天皇として即位したことになる。さらに、仲哀天皇の死後2年間天皇が不在のはずが神功皇后は太子に会っているとゆうことは他に天皇がいることになり、天皇がいなかったら子の太子が天皇になればよいのだから当然だ。すると、成務天皇の宮で成務51年から13歳で即位したのは神功皇后とゆうことになり、垂仁天皇が36年間珠城宮で在位後は成務天皇が47年間さらに景行天皇が3年間合計50年間高穴穗宮で即位、さらに、神功皇后が橿日宮で11年間即位したことになり、その後、若櫻宮で応神天皇が3歳で即位した。しかし、おそらく神功皇后が会った仲哀天皇の太子だった長男が即位して、その後9年間神功皇后が摂政して応神天皇は12歳に皇太子となったと考えられる。この間も権力はないけれど仲哀天皇の長男の天皇が存在していると思われ、菟道稚郎子が応神16年に太子と言うことは応神天皇が太子の摂政をしたか、神功皇后が再度天皇に返り咲いた。応神39年に神功皇后若しくは仲哀天皇の長男が死に応神40年菟道稚郎子が長男で応神天皇と同じ宮の実質最高権力の天皇に即位したけれど応神天皇が死に菟道稚郎子も殺害された。応神天皇は若櫻宮に41年間即位したということだけど、応神天皇から即位の書き方が立太子イコール新しい宮ではなくなり、実際に宮が終わるままでの期間となったようだ。最高権力者皇太子から最高権力者天皇になったようで、日本書紀を書く王朝が変わったように感じる。
『日本書紀』
垂仁天皇三七年正月戊寅朔 「立大足彦尊爲皇太子」
垂仁天皇九九年七月戊午朔 「天皇崩於纒向宮 時年百四十歳」
景行天皇五一年八月壬子 「立稚足彦尊爲皇太子」
成務天皇即位前紀 「大足彦天皇卌六年 立爲太子 年廿四 六十年冬十一月 大足彦天皇崩」
成務天皇六〇年六月己卯 「天皇崩 時年一百七歳」
仲哀天皇八年正月己亥 「到儺縣 因以居橿日宮」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年二月 「造齋宮於小山田邑」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年三月戊子 「皇后欲撃熊鷲而自橿日宮遷于松峽宮」
神功皇后摂政元年二月 「到菟道而軍之 皇后南詣紀伊國 會太子於日高 以議及群臣」
神功皇后摂政三年正月戊子 「立譽田別皇子 爲皇太子 因以都於磐余 是謂若櫻宮」
応神天皇即位前紀 皇太后攝政之三年 「立爲皇太子 時年三」
応神天皇十六年二月 「王仁來之 則太子菟道稚郎子師之 習諸典籍於王仁 莫不通達」
応神天皇四十年正月甲子 「立菟道稚郎子爲嗣」

そして、仁徳天皇は難波の高津宮で即位したけれど、履中天皇は仁徳天皇31年目に15歳で立太子して稚櫻宮で71歳に即位して6年後70歳死亡と全く合わない。2代後の允恭天皇の即位前に仁徳天皇から璽を得ていて、仁徳天皇からの政権移動したことを意味する。仁徳天皇と履中天皇の皇位継承は意味不明で、仁徳天皇と履中天皇の時期に前王朝が崩壊して允恭天皇から新しい王朝が発足して、仁徳天皇と履中天皇の内容からあとの王朝が記述しだしたことを意味している。すなわち、政権奪取の立役者の允恭天皇の時期は璽すなわち王朝の移動、日本書紀作者の変化すなわちこれも王朝の移動で、風土記のような四方志を書いてこれも元明天皇が古事記を書かせたように新しい王朝になって行う事績でその混乱が日本書紀に現れている。本来、允恭天皇の事績は履中天皇に埋め込むべきだったのだろう。
『日本書紀』
仁徳天皇元年正月己卯 「都難波 是謂高津宮 即宮垣室屋弗堊色也」
仁徳天皇三一年正月丁卯 「立大兄去來穂別尊爲皇太子」
仁徳天皇八七年十月己丑 「葬于百舌鳥野陵」
履中天皇即位前紀 「大鷦鷯天皇卅一年春正月 立爲皇太子 時年十五」
履中天皇元年二月壬午朔 「皇太子即位於磐余稚櫻宮」
履中天皇四年八月戊戌 「始之於諸國置國史 記言事達四方志」
履中天皇六年三月丙申 「崩干稚櫻宮 時年七十」
允恭天皇即位前紀
「大鷦鷯天皇之子 雄朝津間稚子宿禰皇子 與大草香皇子 然雄朝津間稚子宿禰皇子 長之仁孝 即選吉日 跪上天皇之璽 雄朝津間稚子宿禰皇子」

2017年6月28日水曜日

最終兵器のミサ 太子3

 安寧天皇が10年即位後、曲峽宮の懿徳天皇が21年間即位、池心宮の孝昭天皇が67年間、秋津嶋宮の孝安天皇が75年間、廬戸宮の孝霊天皇が35年間、境原宮の孝元天皇が21年間、率川宮の開化天皇が27年間、瑞籬宮の崇神天皇が36年間、珠城宮の垂仁天皇が36年間、日代宮の景行天皇が50年間即位したと続いてきたけれど、古事記では景行天皇が最後の3年間いた高穴穗宮と書いてあるけれど日本書紀で、成務天皇は宮を書かないで47年間即位したと書いているということは宮が変わらないで続いたことになり、原則が変わってしまった。
『日本書紀』
安寧天皇十一年正月壬戌朔 「立大日本彦耜友尊爲皇太子也」
懿徳天皇二年正月戊寅 「遷都於輕地 是謂曲峽宮」
懿徳天皇二二年二月戊午 「立觀松彦香殖稻尊爲皇太子 年十八」
孝昭天皇元年七月 「遷都於掖上 是謂池心宮」
孝昭天皇六八年正月庚子 「立日本足彦國押人尊皇太子 年廿」
孝安天皇二年十月 「遷都於室地 是謂秋津嶋宮」
孝安天皇七六年正月癸酉 「立大日本根子彦太瓊尊爲皇太子 年廿六」
孝霊天皇即位前紀 「都於黒田 是謂廬戸宮」
孝霊天皇三六年春正月己亥朔 「立彦國牽尊爲皇太子」
孝元天皇四年三月甲午 「遷都於輕地 是謂境原宮」
孝元天皇二二年正月壬午 「立稚日本根子彦太日日尊爲皇太子 年十六」
開化天皇元年十月戊申 「遷都于春日之地 是謂率川宮」
開化天皇二八年正月丁酉 「立御間城入彦尊爲皇太子 年十九」
崇神天皇三年九月 「遷都於磯城 是謂瑞籬宮」
崇神天皇四八年四月丙寅 「立活目尊爲皇太子」
垂仁天皇二年十月 「更都於纒向 是謂珠城宮也」
垂仁天皇三七年正月戊寅朔 「立大足彦尊爲皇太子」
景行天皇四年十一月庚辰朔 「則更都於纒向 是謂日代宮」
景行天皇五一年八月壬子 「立稚足彦尊爲皇太子」
景行天皇五八年二月辛亥 「幸近江國 居志賀三歳 是謂高穴穗宮」
成務天皇四八年三月庚辰朔 「立甥足仲彦尊爲皇太子」
『古事記』
「若帯日子天皇 坐近淡海之志賀高穴穂宮 治天下也」

成務天皇は日本書紀では子がいないため、立太子も即位してすぐに立太子をしなければならないのに48年も後で、しかも、成務天皇が設けた稲置の制度が前代の景行天皇に書かれていて、成務天皇と景行天皇が同時に天皇で、成務天皇が48年目に死んで、その後景行天皇が3年間継いだと考えると稲置の順も良く、ピタリと当てはまって、仲哀天皇がその後9年間継げば成務天皇も景行天皇も在位期間60年でつじつまが合う。
『日本書紀』
景行天皇二七年十月己酉 「故弟彦公便率石占横立 及尾張田子之稻置 乳近之稻置而來」
成務天皇五年九月 「令諸國 以國郡立造長 縣邑置稻置 並賜楯矛以爲表」

ということは、垂仁天皇37年に子供のいない成務天皇が高穴穗宮で即位したのと同時に立太子で景行天皇が日代宮で即位して47年目に成務天皇が死に景行天皇が高穴穗宮で即位しもう一人不明な日代宮の景行天皇の太子が即位して、高穴穗宮の景行天皇が50年目に死に笥飯宮の仲哀天皇が即位して9年で死んだたとゆうことになる。
『日本書紀』
仲哀天皇二年二月戊子 「幸角鹿 即興行宮而居之 是謂笥飯宮」
仲哀天皇九年二月丁未 「天皇忽有痛身 而明日崩 時年五十二」

2017年6月26日月曜日

最終兵器のミサ 太子2

 ところで、安寧天皇は綏靖天皇二五年に21歳で皇太子になって、綏靖天皇三三年29歳の時前王が死んで30歳で即位して38年目に67歳になったはずが57歳で死んだと書いてある。そら間違いと言われそうだけど、立太子の時即位と考えればすなわち安寧天皇は綏靖天皇二四年数えの20歳すなわち19歳に皇太子になることが決まって綏靖天皇二五年に数え21歳(20歳)で正式に皇太子という天皇になって38年目の誕生日前に死んだと考えればよりスマートな考えになる。
数えを考えたり考えなかったりと不満はあるけれど、10歳の誤差と2歳の誤差だけど、実際は安寧天皇は11年目に亡くなっているかも知れないと考えられる。元々死亡年齢の57歳は計算上の年齢と思われ、要は、天皇の即位期間は立太子から次の立太子前年までで、もう一人の天皇が立太子以降即位しているけれど実権は皇太子が持っているとゆうことだ。
すなわち、綏靖天皇二五年に安寧天皇が皇太子とゆう実質最高権力者の皇太子という天皇が即位して、綏靖天皇は力がないお飾りの天皇として8年間即位して死んだとゆうことだ。どうして権力が遷ったかとゆうと、綏靖天皇に子供がいなかったので、綏靖天皇の弟安寧天皇が皇太子になった、すなわち、違う宮に住んでいる弟に実権が遷った。子供がいれば同じ宮で継続できたけれど2つの宮で国を統治するのだから、実権がある新しい宮に権力が集中するとゆうことだ。
だから、立太子は応神天皇以外すべて13歳以上で応神天皇には神功皇后という摂政が後ろに控えていて、宮を起こした時に太子という天皇になることができた。ということは、13歳以上の長男がいない天皇は弟やその他の人物を太子にしなければならないということだ。履中天皇と反正天皇は皇子がいるにもかかわらず5・6年の在位で允恭天皇の継承は異常だけどそれでも一番下の弟であるにも関わらず42年も即位している。
これは、履中天皇は長男が死亡して子供が小さいため即位2年に反正天皇を皇太子にして、反正天皇は皇太子がいたけれど允恭天皇に皇位を奪われたとゆうことだ。
『日本書紀』
反正天皇即位前紀 「去來穗別天皇二年 立爲立爲皇太子」

そうすると、神武天皇は31年に2代目神武天皇の手研耳が死亡して3代目手研耳が即位して長男が太子になるときに綏靖天皇が皇位を奪ったけれど、その時16歳の皇太子が一緒に即位して、神武天皇の宮はさらに45年間続いたけれど名ばかりの天皇だったことを意味している。綏靖天皇32歳、皇太子16歳で即位して24年目の2代目綏靖天皇が40歳で死んで、3代目綏靖天皇の子供が小さいため、弟の21歳の安寧天皇を皇太子にして3代目綏靖天皇は8年後に死に安寧天皇は33歳で死んだ。
ということは、橿原宮で神武天皇が即位して、32年後分家の高丘宮にいる綏靖天皇が政権を奪って即位して、その25年後に分家の浮孔宮にいる安寧天皇が即位したとゆうことだ。112年間と思われていた2代が5人55年間になって正常な皇位継承として説明がついたけれど、私は綏靖天皇の皇后の名前を「一書云」で合計3人書いていて3人の綏靖天皇を考えた。
『日本書紀』
神武天皇即位前紀 年十五立爲太子
神武天皇元年正月庚辰朔 「天皇即帝位於橿原宮」
神武天皇三二年正月甲寅 「立皇子神渟名川耳尊爲皇太子」
神武天皇七六年三月甲辰 「天皇崩于橿原宮 時年一百廿七歳」
綏靖天皇即位前紀 「至卌八歳 神日本磐余彦天皇崩」
綏靖天皇元年正月己卯 「神渟名川耳尊即天皇位 都葛城 是謂高丘宮」
綏靖天皇二年正月 
「立五十鈴依媛爲皇后 一書云磯城縣主女川派媛 一書云春日縣主大日諸女糸織媛也」
綏靖天皇二五年正月戊子 「立皇子磯城津彦玉手看尊爲皇太子」
綏靖天皇三三年五月 「癸酉崩 時年八十四」
安寧天皇即位前紀 「天皇以神渟名川耳天皇廿五年 立爲皇太子 年廿一」
安寧天皇二年 「遷都於片鹽 是謂浮孔宮」
安寧天皇十一年正月壬戌朔 「立大日本彦耜友尊爲皇太子也」
安寧天皇三八年十二月乙卯 「天皇崩 時年五十七」

2017年6月23日金曜日

最終兵器のミサ 太子1

 前にも書いたけれど、王様には必ず跡継ぎがいて、後継ぎがいないと王様が死んだとき後継者を選ぶのに戦いが起こって、その間に国が奪われてしまって一族郎党が食べていけなくなってしまう。だから、争いが起きないように王様になったらすぐに跡継ぎを決めておかないといけないのだけど、日本は珍しい国なのか、例えば神武天皇は筑紫のどういう名前の国かわからないけれどその国で兄がいるのに15歳の時皇太子になって、その国を放り出して何年か経って新しい土地で王様になった。けれど、そのまま31年間自分が長生きできることを信じ皇太子を決めないで32年目83歳の時に69歳の時の子供の16歳の綏靖天皇を皇太子にして76年目に死んだので翌年綏靖天皇が即位した。
   『日本書紀』
神武天皇即位前紀 年十五立爲太子
神武天皇三二年正月甲寅 立皇子神渟名川耳尊爲皇太子
神武天皇七六年三月甲辰 天皇崩于橿原宮 時年一百廿七歳

どうせなら70年間くらい子供たちを観察してから皇太子を立てればと思えてくるけれど、127歳で死んでいるので、83歳で年を取ったから皇太子を決めたんだろうけれど、大昔なら即位する51歳でもいつ死んでも不思議でない年齢だのはず。
そして、次の綏靖天皇も48歳で神武天皇が死んだので、16歳の時太子になって、49歳で即位。即位して25年後の74歳で53歳の時の子で21歳の安寧天皇を皇太子にして、33年目に84歳で死亡ということはこの時代は即位と死亡は現在の「数え」で書いてあるようだけど、それでも、高齢出産が過ぎて、みんなが嘘というのが解る。
   『日本書紀』
綏靖天皇即位前紀 至卌八歳 神日本磐余彦天皇崩
綏靖天皇三三年五月 癸酉崩 時年八十四

中には1年に2回年を取るという人がいるけれど、今度は太子の年齢が若すぎて何のために立太子を待ったかわからないし、半分でも4・50年の在位期間や7・80の死亡年齢は高年齢すぎて、現代じゃないかと思ってしまう。やはり、嘘と言われそうだけれど、後代の仲哀天皇の時は皇太子を決めていないのに神功皇后が応神天皇を皇太子にする前に皇太子と会っているし、応神天皇も立太子なしに菟道稚郎子を太子と言っていて、40年目に菟道稚郎子を皇太子にしている。
   『日本書紀』
神功皇后摂政元年二月 皇后南詣紀伊國 會太子於日高
神功皇后摂政三年正月戊子 立譽田別皇子 爲皇太子 因以都於磐余
応神天皇十五年八月丁卯 阿直岐亦能讀經典 即太子菟道稚郎子師焉
応神天皇二八年九月 時太子菟道稚郎子讀其表 怒之責高麗之使
応神天皇四十年正月甲子 立菟道稚郎子爲嗣 即日任大山守命令掌山川林野 以大鷦鷯尊太子輔之

その後は仁賢天皇まで後年の立太子が続いているのだけど、立太子前に太子がいるということは立太子が無くてもやっぱり太子が有ることを示している。立太子なしでも普通に太子がいると言うのはその太子は長男が普通で、綏靖天皇には手研耳という義理の兄がいて「久歴朝機」と長い間即位していたと書いている。綏靖天皇の前に神武天皇を手伝い王だったと書いているように、立太子を書くまではやはり長男が太子どころか王だったとゆうことだ。
   『日本書紀』 綏靖天皇即位前紀
其庶兄手研耳命 行年已長 久歴朝機 故亦委事而親之 然其王立操厝懷 本乖仁義 遂以諒闇之際 威福自由 苞藏禍心 圖害二弟

手研耳が王だったということは、神武天皇も王なので王2人で1つの国を治めていたということで、天皇2人制ということだ。すると、51歳の建国は建国しないで兄がいるにもかかわらず皇太子と言うのは異様で実際は神武天皇36歳で建国したので手研耳15歳で皇太子という意味のように思える。

2017年6月21日水曜日

最終兵器のミサ 2王朝接続の残った課題

 新生天氏の日本とそれに対抗する中臣氏の元明天皇のなし崩しに日本の接続したけれど、はたくさんの問題が出てきて、日本書紀でクーデタをなかったこと、譲ってもらったことにして、血縁関係があるとかいた。けれど、このころは多くの人が文字を読み書きできるようになって、日本書紀ができて以降から、書くときは日本書紀を片手に書かなければならなかった。しかい、どうしても見落としてしまうのは当たり前で、日本書紀の中でも矛盾があるのだから。
『藤氏家伝』も矛盾だらけ聖徳太子に関する文も極端に多いけれど、やはり矛盾があって、例えば『上宮聖徳法王帝説』では乙巳の変の時天智天皇は19歳で21歳ではなく、志歸嶋天皇が治めたのは41年ではなく32年間だ。推古13年は辛丑ではなく乙丑で辛丑は641年で舒明天皇と現在言われているけれど、そうすると己酉649年の大臣は本来死亡していてこの右大臣の蘇我倉山田の死亡で文にまったく関係がなくなってしまい、内容から考えると推古天皇13年は641年で649年に違う蘇我大臣が害に遭遇したことになる。乙巳の変の時の太子は古事記と同じ背景のため蘇我氏の太子入鹿のように感じる。
  『上宮聖徳法王帝説』
天皇御世乙巳年六月十一日 近江天皇【生廿一年】殺於林太郎■■ 以明日 其父豊浦大臣子孫等皆滅之 
志歸嶋天皇治天下卌一年【辛卯年四月崩 陵檜前坂合岡也】
有本云 請願造寺 恭敬三寶 十三年辛丑 春三月十五日 始浄土寺云云
注云 辛丑年始平地 癸卯年立金堂之 戊申始僧住 己酉年三月廿五日大臣遇害

『七代記』には推古天皇13年に突然舒明天皇が出てくるけれど、まだ子供のはずなのに自分より偉い太子に対して土地を与えているし、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では癸寅年642年は日本書紀に合わないための矛盾で、さらに、推古天皇生誕100年が673年の癸酉なら推古天皇は577年4歳で敏達天皇の皇后になったことになり、まったく理にかなわない文だけれど、613年に中臣氏が蘇我氏に仕え始めて713年100年になった話なら十分理解できる。
  『七代記』
秋七月 天皇請皇太子 令講勝鬘經 三日説了 又講法花經於岡本宮天皇大悦 以播磨國揖保郡佐勢田地五百代 施于皇太子 因以奉納於斑鳩寺
  『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』
然大ゝ王天皇命等由良宮治天下時癸寅年 聰耳皇子召告
大ゝ王天皇令治天下時 天皇耳皇子白 今我等無朝生年之數算 建於百位竝道俗之法世建興建通
池邊列槻宮治天下橘豐日命皇子 馬屋門豐聰耳皇子 櫻井等由良治天下豐彌氣賀斯岐夜比賣命生年一百 歳次癸酉正月元日

日本書紀を横に置いて古事記と同じ背景の文を翻訳するとき、自分の王朝が中央政界に進出した時から天皇と置き換え皇太子と書くとゆう日本書紀をを書きつないだ方法と同じ方法で書いて、人の名前も古事記の名前で登場するので混乱は全くないけれど、内容を読むと矛盾だらけだ。

2017年6月19日月曜日

最終兵器のミサ 日本

 前回、日本で最初に出現したいくつかの国をまとめた王朝東鯷国が出現してその国は銅鐸を象徴とする弥生時代の王朝と書いたけれど、その東鯷国を破った王は天菩比の子の建比良鳥で、破られた対象の人物は大国主・事代主・建御名方しかいない。大国主から奪った国は紀元前28年から200年まで神国日本と朝鮮で呼ばれ天皇名には、神倭伊波礼毘古や神沼河耳と神が付いて神国と呼べる。古事記では神話に鏡が多く書かれて、神武天皇以降は応神天皇の時に現れるだけでしかも朝鮮からの献上の品で日本書紀と比べ物にならないくらい扱いが低い。とゆうことは、古事記を書いた王朝は鏡とは縁のない王朝で、神話の神国が多くの鏡を墓に埋納していて、有名な三角縁神獣鏡は神国の支配の象徴と言える。
『日本書紀』
垂仁天皇二年是歳 「名曰于斯岐阿利叱智于岐 傳聞日本國有聖皇」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年十月辛丑
「新羅王遥望以爲 非常之兵 將滅己國 讋焉失志 乃今醒之曰 吾聞 東有神國 謂日本 亦有聖王 謂天皇」

そして、神国が日本を支配していた時、西のはずれでは倭国と狗奴国が争っていた。けれど、安芸から出発した古事記の王朝が狗奴国を倭国の南まで勢力範囲を縮小して扶桑国を建国して神国を履中天皇の時代に滅ぼした。これが、巨大前方後円墳を特徴とする国だけれど、531年に扶桑国が滅亡して、朝鮮ではこのときこの地域を日本と呼んで、日本の皇族の崩薨と書いている。さらに、雄略天皇の記事を書いている日本舊記があって、日本舊記は物部氏が書いた史書のようで雄略天皇の国を日本と本の題に書いた。その地を支配した物部氏は自国を秦王国と名前を付け神国の復活だ。倭国が扶桑国の領地の火国や豊国に侵略したために、それまで共存していた倭国を扶桑国は許せなかったため滅ぼそうとしたけれど、物部麁鹿火に裏切られて扶桑国が滅ぼされた。
   『日本書紀』
雄略天皇二一年三月 「日本舊記云 以久麻那利賜末多王 盖是誤也」
継体天皇二五年冬十二月庚子 「日本天皇及太子皇子倶崩薨」
継体天皇二一年九月甲午 「於是磐井掩據火豐二國」
   『隋書』
「又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也」

秦王国は628年蘇我氏に滅ぼされて、さらに664年その蘇我氏も滅び、天智天皇が日本世記を書いたように日本国と名前を変えたということは、蘇我氏は隋書の俀国の後に旧唐書が倭国と書いているように国名を倭国とよんだ。713年に完成した古事記には日本ではなく倭と呼んでいて、古事記は蘇我氏が完結させた日本の歴史で、元明天皇が古事記を受け取ったとき国名が倭国と書いて日本と書かれていなかった。ところが、叱って書き直させ無かったとゆうことは、古事記を受け取った後で、720年までに国名を正式に日本に変更した。
 このように、日本とゆう国名は日本書紀で読めもしない「やまと」と読ませ、古事記では日本を倭と書いてやはり読めもしない大和と読ませているとゆうことは、古事記は元々日本国と書かれていたのを蘇我氏が倭と書き換えた可能性が高い。すなわち、日本と言う国名は記紀に書いてある通り、遅くとも紀元前28年から西暦531年まで朝鮮で呼ばれ続け、秦王国、倭国を経て再度日本国とした。
   『日本書紀』
垂仁天皇二年是歳 「于斯岐阿利叱智于岐 傳聞日本國有聖皇」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年十月辛丑 「吾聞 東有神國謂日本 亦有聖王 謂天皇 必其國之神兵也」

2017年6月15日木曜日

最終兵器のミサ 日本の国盗り物語

 政権の移動の証拠がまだ有って、天照大神の子天菩比が国譲りのために最初に出雲に天下ったけれど、出雲に居付いたと言っているのに、子たちは出雲を含めた12ヶ国と6地域の支配者となったように天菩比は国譲りではなく12ヶ国の国を持つ王者から国を奪った。けれど、その地域は本州の関東から山口県までを含んでいて、そして、それに加えて神武天皇の奈良侵略の時に倭国と吉野国さらにその子には九州から関東まで支配して国と君の地域の合計22ヶ国となった。この22ヶ国は漢書に出てくる東鯷国の20余国とピタリと合致していてさらにこの地域からは銅鐸が発見された地域を多く含んでいてこれは弥生時代に入ってかなりたってからの出来事だ。
   『漢書』 卷二十八下 地理志第八下 呉地条
「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云」
   『古事記』 神代
「天菩比命之子建比良鳥命 此 出雲国造・无耶志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・津島県直・遠江国造等之祖也」
「天津日子根命者 凡川内国造・額田部湯坐連・茨木国造・倭田中直・山代国造・馬来田国造・道尻岐閉国造・周芳国造・倭淹知造・高市県主・蒲生稲寸・三枝部造等之祖也」
神武記
「即賜名号槁根津日子 此者倭国造等之祖・・・参向耳 此者吉野国巣之祖・・・神八井耳命者 意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹波臣・島田臣等之祖也」

しかし、ここで重要なことは安芸国造や筑紫君が書かれていないということは、2国は国産みで建国した地域で奪った地域でないということで、くっきりと色分けされて信頼できる内容になっている。国譲りが日本国のはじまりで出雲から凡川内に遷った樟葉の戦いの結果だ。日本を得た古事記の神代を書いた王朝があって、その王朝から政権を奪取したのは、安芸から出発して奈良を奪取して古事記を書いた王朝が九州から関東までを支配したと書いた。
奈良は後から大三輪を祀っていて、天皇名に神倭すなわちミワの地域を含めていて東鯷国の時代は三輪神の支配だったはずなのに神武天皇が大物主の子孫を妃にしたことから、大物主が三輪神から奈良を奪ったことが解る。もちろん、ここで言う神武天皇は広島の安芸を豊国と呼んでいたのを大分県に豊国の名前を付けた豊御毛沼のことで、大分県で82年に建国した。その話が日本書紀の景行天皇紀に書いてあって、土地に名前を付けるときはそこを支配したことと同じことで、この土地には太祖神社があって初代の王を祀っている。応神天皇すなわち古事記にあわせて2代ずれて璽を得た履中天皇は吉備や三野を得ている。
   『日本書紀』
景行天皇十二年九月戊辰 「到豐前國長峽縣 興行宮而居 故號其處曰京也」
応神天皇二二年三月戊子
「天皇幸難波居於大隅宮・・・因以割吉備國封其子等也 則分川 嶋縣封長子稻速別 是下道臣之始祖也 次以上道縣封中子仲彦 是上道臣 香屋臣之始祖也 次以三野縣封弟彦 是三野臣之始祖也」

古事記を書いた王朝は499年に沙門慧深が訪中したと梁書が書いていて、その国は扶桑国と呼んで527年までは続いていたとかいる。丁度継体天皇の時代までは扶桑国が日本にあったということは、丁度古事記を書いた王朝が滅亡する前とゆうことになる。滅亡後の531年から532年にかけて多くの屯倉を得たということは屯倉が有る地域の国を新しい王朝は得ていて、そこには難波も含まれその地には物部守屋が用明天皇の時代にいた。
   『梁書 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭』
「扶桑國者 齊永元元年 其國有沙門慧深來至荊州 説云 扶桑在大漢國東二萬餘里 地在中國之東」
   『日本書紀』安閑天皇元年(甲寅531)四月癸丑朔
「伊甚屯倉・小墾田屯倉・櫻井屯倉・茅渟山屯倉・難波屯倉・三嶋竹村屯倉・安藝國過戸廬城部世倉・筑紫國膽狭山部・横渟・橘花・多氷・倉樔・筑紫穗波屯倉・鎌屯倉・豐國滕碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉取音讀・大拔屯倉・我鹿屯倉・火國春日部屯倉・播磨國越部屯倉・牛鹿屯倉・備後國後城屯倉・多禰屯倉・來履屯倉・葉稚屯倉・河音屯倉・婀娜國膽殖屯倉・膽年部屯倉・阿波國春日部屯倉・紀國經湍屯倉經湍・河邊屯倉・丹波國蘇斯岐屯倉皆取音・近江國葦浦屯倉・尾張國間敷屯倉・入鹿屯倉・上毛野國緑野屯倉・駿河國稚贄屯倉

2017年6月12日月曜日

最終兵器のミサ 政権奪取3

 前回は扶桑国内の政権の移動をまとめたけれど、引き続いて璽の移動すなわち政権の移動の話だけれど、継体天皇の記事は前回書いたとおり仁賢天皇の話と次の王朝の話が集まり、そして日本書紀の2代のズレ宣化天皇の内容も書かれている可能性がある。
継体紀では筑紫君磐井すなわち倭王を攻めようと物部麁鹿火と天皇は筑紫より西を物部氏ということは物部麁鹿火はもともと火国・豊国の支配者に感じられ、東を天皇がもらうと言っている。けれど、天皇は倭国以外すべて天皇のもので日本書紀の継体紀を書いた天皇は大伴大連とおもわれて、許勢天皇は磐井に勝って葛子を殺さないで糟屋を手に入れたけれど、531年に滅ぼされた。日本書紀を書いた人は百濟本記にあわせて変更していて、本来は続けて534年まで書いていたということは、物部麁鹿火が葛子すなわち倭国と大伴氏と一緒に許勢氏を滅ぼして物部麁鹿火が璽を手に入れたけれども、536年5月には元気だった物部麁鹿火が7月に何の説明もなく死亡しており、物部麁鹿火から璽が大伴氏に移った。けれども日本書紀(日本旧事)を書いた大伴氏は継体天皇と同じ記事にまとめてしまって、この政権奪取が大倭国の復活で秦王国だ。
『日本書紀』
継体天皇二十年辛卯朔
「天皇親操斧鉞 授大連曰 長門以東朕制之 筑紫以西汝制之」
継体天皇二二年十二月
「筑紫君葛子恐坐父誅 獻糟屋屯倉 求贖死罪」
継体天皇二五年冬十二月庚子
「廿五年歳次辛亥崩者 取百濟本記爲文 其文云・・・日本天皇及太子皇子倶崩薨」
宣化天皇元年七月
「秋七月 物部麁鹿火大連薨」

同じように、 日本書紀を書いた蘇我氏は秦王国内の政権移動すなわち朝鮮政策の失敗で物部尾輿が大伴金村を追い落としたことを書いた。2人の天皇を大連として自らを天皇としたけれど、次の天智天皇の王朝は蘇我天皇を大臣と書き換えたようで、秦王国の首都はやはり大伴金村も住吉に住んでいて、日本の中心は摂津だ。
『日本書紀』 
欽明天皇即位前紀
「尊皇后曰皇太后 大伴金村大連 物部尾輿大連爲大連 及蘇我稻目宿禰大臣爲大臣 並如故」
欽明天皇元年九月己卯
「於是大伴大連金村居住吉宅 稱疾不朝 天皇遣青海夫勾子 慰問慇懃 大連怖謝曰 臣所疾者非餘事也 今諸臣等謂臣滅任那・・・遂不爲罪」

そして、用明天皇の末年の628年に四天王寺を建てた場所に物部守屋がいて守屋を攻め滅ぼして都のあった四天王寺近辺を寺に半分分け与えて、蘇我氏が璽を得て舒明天皇の時代まで日本書紀を書き綴った。
崇峻天皇即位前紀用明天皇二年六月辛亥
「誅宅部皇子 宅部皇子 桧隈天皇之子 上女王之父也 未詳 善穴穗部皇子 故誅」
崇峻天皇即位前紀用明天皇二年七月
「倶率軍旅進討大連・・・大連之軍忽然自敗・・・於攝津國造四天王寺 分大連奴半與宅」

そして、664年のいわゆる乙巳の変で孝徳天皇に璽が移って、天智天皇が日本書紀の皇極天皇からの歴史を書いた。そして、712年に元明天皇に璽が移って中臣氏の初代天皇となって、720年に天武天皇と持統天皇の日本書紀を書いて系図を修正した。
蘇我氏が宮殿で帯刀して天皇より偉いと前に書いたように入鹿が国政を執ったり外交使節を自宅で対面したり褒章したり、父が大臣であるのに大臣を授けるということは父が天皇で自分が太子とゆう天皇で太子が国政を預かっていたからで、だから、自分の宮殿を御門と呼んでいた。
『日本書紀』
皇極天皇元年正月辛未 「以蘇我臣蝦夷爲大臣如故 大臣兒入鹿 自執國政 威勝於父」
皇極天皇元年四月乙未 「蘇我大臣於畝傍家喚百濟翹岐等」
皇極天皇元年十二月是歳 「蘇我臣專擅國政」
皇極天皇二年十月壬子 「私授紫冠於子入鹿。・・・復呼其弟曰物部大臣」
皇極天皇三年十一月 「蘇我大臣蝦夷 兒入鹿臣雙起家於甘梼岡 稱大臣家曰宮門 入鹿家曰谷宮門」

2017年6月9日金曜日

最終兵器のミサ 政権奪取2

 前回は、宇摩志麻治が東鯷国(神倭国)から璽を奪い、大倭国の瀛津世襲が神倭国を破ってさらに東鯷国の中心部を陥落させたことを璽の移動で説明し、大倭国の最後の天皇が仲皇子だったことでいったん閉じた。仲皇子から政権を奪ったのは葛城氏で応神天皇の時代に文字を覚えた新しい王朝は早速日本書紀の最初の資料を書き始めたようで、そのもととなったのが『四方志』のようだ。
   『日本書紀』
履中天皇四年八月戊戌 「始之於諸國置國史 記言事達四方志」

 葛城氏は天皇なので大臣は書かず、前代の武内宿禰を大臣と書いた。同様に王朝が変わるたびに前の天皇を大臣と書く慣例が出来上がり、平郡氏は前天皇を葛城圓大臣、許勢氏は平群眞鳥大臣と日本書紀の原本資料に追記した。圓大臣を天皇の臣下と書いているけれど日本書紀の中でも臣下の家にふつう隠れないと言っているので、臣下ではない葛城圓大臣を殺していて葛城大臣から璽が平群臣眞鳥に移動した。
   『古事記』 安康天皇記
「所遊其殿下目弱王、聞取此言、便窃伺天皇之御寝、取其傍大刀乃、打斯其天皇之頚、逃入都夫良意富美之家也」
   『日本書紀』 雄略天皇即位前紀
「穴穗天皇爲眉輪王見殺・・・竊語眉輪王 遂共得間而出 逃入圓大臣宅・・・伏願大王奉獻臣女韓媛與葛城宅七區 請以贖罪 天皇不許 縱火燔宅 於是 大臣與黒彦皇子 眉輪王 倶被燔死・・・天皇命有司設壇於泊瀬朝倉即天皇位 遂定宮焉 以平群臣眞鳥爲大臣」

葛城氏から璽を奪取した平群真鳥大臣が日本の王になろうとしてなれるはずがないので、王だった平群大臣こと武烈天皇で古事記にあわせるて2代ずらして顕宗天皇の即位前に平群氏から璽が許勢氏に移動したことになり、大伴金村も大連として即位しているけれど、この金村は次王朝が追加した天皇だ。
   『日本書紀』
武烈天皇即位前紀
「大臣平群眞鳥臣專擅 國政欲王日本・・・眞鳥大臣恨事不濟 知身難兔 計窮望絶 廣指臨詛 遂被殺戮」
継体天皇元年 「是日 即天皇位 以大伴金村大連爲大連 許勢男人大臣爲大臣」

古事記は許勢氏の天皇の2代目が書いた史書、日本書紀では継体天皇のことで、日本書紀は次の王朝が書いている。古事記には同じ記事が顕宗天皇即位前の清寧天皇末のこととして書いている。ということは、志毘臣の事件は平群から許勢へと璽が移動した事件ということになる。
  『古事記』 
清寧天皇記 「故 非今者難可謀 即興軍囲志毘臣家 乃殺也」

2017年6月7日水曜日

最終兵器のミサ 政権奪取

 璽の移動を伴う政権奪取の戦いを調べると、最初は正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が持っていたと書いているけど、これはたいてい後の政権がもともと自分たちのものを取り返したことにしたかったのではと思う。だけれど、とにかく最初に璽を授かった饒速日の子(子孫)で物部氏の祖の宇摩志麻治が舅長髓彥から璽を奪って神武天皇に献上したことになっているけれど、おそらく、宇摩志麻治が王になったのであって、孝昭天皇の時代に瀛津世襲(おきつよそ)が大連すなわち天皇になった戦いが大彦の紀元前88年樟葉の戦いや狹穗彦・狹穗姫の戦いの紀元前25年の戦いと思われる。宇摩志麻治が璽を渡した神武天皇は瀛津世襲で、紀元前4年に物部十千根大連が書かれているのでこの時すでに次の日本書紀を最初にまとめた王朝が物部氏の配下として頭角を現した。
  『先代旧事本紀』
「天祖以天璽瑞寶十種授饒速日尊」
「詔宇摩志麻治命日汝先考饒速日尊自天授來天璽瑞寶」
「磐余彦尊欲馭天下與帥東征・・・宇摩志麻治命以天神御祖饒速日尊天 璽瑞寶十種壹而奉獻於天孫大嘉特増寵異矣」
「四世孫羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖 天忍男命子此命池心朝御世為大連供奉次建額赤」
   『日本書紀』
崇神天皇十年九月壬子
「射埴安彦 中胸而殺焉 其軍衆脅退則追破於河北 而斬首過半 屍骨多溢 故號其處曰羽振苑 亦其卒怖走」
垂仁天皇二六年八月庚辰
「天皇勅物部十千根大連曰 屡遣使者於出雲國 雖検校其國之神寶」

そして、201年には物部王朝の皇子忍熊王が住吉にいて、履中天皇即位前紀すなわち2代のズレで允恭天皇即位前に「住吉仲皇子」は住吉の名を冠している。古事記で最初に出てくる氏族安曇連を仲皇子は配下に持ち、さらに太子は石上にいて、石上は物部氏が管理する宝物庫がある場所で、古事記で反正天皇が曽婆訶理に大臣すなわち天皇の地位をもらえと言われている。とゆうことは仲皇子から天皇の位を奪えとゆうことを意味していて、さらに日本書紀では大臣すなわち天皇になる平群氏も活躍している。
   『日本書紀』
神功皇后摂政元年二月 「忍熊王謂倉見別曰 是事大怪也 於此不可待敵 則引軍更返屯於住吉」
履中天皇即位前紀
「・・・時平群木菟宿禰・・・阿曇連濱子 ・・太子便居於石上振神宮・・・捉阿曇連濱子」
   『古事記 履中天皇記』
「爾 其弟墨江中王 欲取天皇以火著大殿・・・爾 阿知直白 墨江中王 火著大殿・・・於是 曽婆訶理 窃伺己王入厠 以矛刺而殺也・・・是以 語曽婆訶理 今日留此間而 先給大臣位 明日上幸」

2017年6月5日月曜日

最終兵器のミサ 臣と連

 日本書紀で蘇我氏は自分が権力者であるのに自分を臣下の様に書いていて、蘇我氏より前の王朝も同じような書き方をしているけれど、古事記では蘇我氏の地位の大臣は武内宿祢と大前小前宿祢のみで大臣と同位の大連も継体天皇時に出現するだけで、どうやら最後に日本書紀を書いた人物が蘇我氏の書いた舒明天皇までの日本書紀に手を加えて蘇我天皇を大臣と書き換えたとしか思えず、そのあとで元明天皇が系図を書き換えさせたとゆうことだろう。
そして、蘇我氏が書いた日本書紀には、前天皇で舒明天皇元年629年の前年628年に物部守屋大連を倒して璽を移動させていることから、物部天皇を大連と書き換えたことがうかがえて、ということは、大臣大連は天皇だったといえる。
だから、前回書いた璽の移動にあわせると、持統(中臣←天)・孝徳(天←蘇我)・舒明(蘇我←物部)・推古(物部守屋←物部麁鹿火・大伴金村)・継体( 物部麁鹿火・大伴金村←許勢)・顕宗( 許勢←平群)・清寧( 平群←葛城)・允恭( 葛城←物部)と権力の移動を考えることができる。
そして、蘇我・ 許勢・平群・葛城はすべて武内宿禰爲大臣の家系で、また、 物部守屋と物部麁鹿火の系図は同じ十四世の孫でありながら時代が異なっていて別系統のようで麁鹿火が許勢大臣を裏切って日本の支配者となって隋書で言う秦王国と呼ばれることになった。
そして、古事記に出てくる大前小前宿祢大臣と建内宿祢大臣は古事記を書いた王朝の時に天皇ではなかったことが解り、 また、大連を書いていないので、大連は古事記を書いた王朝が奪った側の天皇だということが見えてくる。
日本書紀で最初に出てくる臣は大伴氏の日臣だけれど、それを授けたのは大物主で部下に臣を名付けることによって大物主は大臣となり、違う系列の王が連で土師氏だったのが多くの配下の王を連と呼んだときに自らは大連となった。この構図は三国志などで30国ではヒコなど多くの称号が有って王と呼ぶのは邪馬台国だけだったけれど隋書では大王となったことと同じで、古事記では開化天皇の時に多くの人物に王を授けているので、古事記なのだからこれらの王は臣で大臣の就任があって、丁度、京都郡など九州東部・南部の倭国以外を支配した時期にあたる。
   『日本書紀』
神話
「天穂日命 是出雲臣 土師連等祖也 次天津彦根命 是凡川内直 山代直等祖也」
神武天皇即位前紀戊午年六月丁巳 「大伴氏之遠祖日臣命帥大來目督將元戎」
垂仁天皇二六年八月庚辰 「天皇勅物部十千根大連曰 屡遣使者於出雲國 雖検校其國之神寶」
成務天皇三年正月己卯 「以武内宿禰爲大臣也」

ということは、最初に出雲に天降った天穂日が臣・連の官位を制定した初代の日本の王で、土師氏が東鯷国の国王で、紀元前4年には天皇だった人物を大連と書き換えているのだから物部十千根大連が天皇になっていて113年に物部氏に対抗する勢力に武内宿禰がなって、武内の同族の葛城氏が物部氏から政権を奪って、 葛城氏の同族許勢氏から物部・大伴連合が政権奪取、さらに629年に物部氏から蘇我氏が政権奪取した。