2017年9月27日水曜日

最終兵器の日本古代史 大倭王朝

 紀元前5年には「大倭大神」の記述があり、「神倭国」から「大倭国」への王朝交代が起こったようだが、紀元前26年の「狹穗彦王謀反」が一番可能性が高そうだ。「饒速日」の直系で長男の天国にいた「天香語山」の直系の「瀛津世襲」が初代の「大倭国」の王と思われて大国王の可能性が高く、新羅の王子が日本の王に会いに出雲に来日したのだから、日本の死亡した王は出雲に居たことが解る。そして、次の王は新羅の王子の宝を石上の神府に藏していて、出雲の王が「大倭国」の王となったことが解り、垂仁天皇紀は出雲関係の記事が多いのは出雲出身の王だからだろう。そして、新羅の王子「都怒我阿羅斯等」は「大倭国」を「日本國」と呼び帰化したいと言うように、倭国との戦闘関係と全く整合せず、日本列島には新羅と戦う「倭国」と友好関係の「大倭国」が存在した。さらに、西暦71年に改元したと記述していて、「都怒我阿羅斯等」の言葉の「聖皇」は元号かも知れない。さらに紀元前86年に御肇國天皇と呼び、さらに、開化天皇の時代には王の子供が王と呼ばれ、子供の王の父はただの王のはずが無く、別の王・大王もしくは天皇と呼ばれ、神功紀では新羅王が神国聖王を天皇と呼んでいる。
『日本書紀』
崇神天皇十二年(乙未前86)九月己丑 故稱謂御肇國天皇也。
開化天皇六年(己丑前152)正月甲寅 「姥津媛生彦坐王。」
垂仁天皇二年(壬辰前28)是歳 
「名都怒我阿羅斯等。亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇。以歸化之。・・・是時遇天皇崩。」
垂仁天皇四年九月戊申 「皇后母兄狹穗彦王謀反欲危社稷」
垂仁天皇七年(戊戌前23)七月乙亥 「一臣進言。臣聞。出雲國有勇士。曰野見宿禰。・・・自出雲至。」
垂仁天皇二五年三月丁亥 「則仰中臣連祖探湯主而卜之 誰人以令祭大倭大神」
垂仁天皇二六年(丁巳前4)八月庚辰《三》 「天皇勅物部十千根大連曰。屡遣使者於出雲國」
垂仁天皇八八年(己未59)七月戊午《十》
「新羅王子天日槍初來之時。將來寶物今有但馬・・・皆藏於神府。然後開寶府而視之」
景行天皇元年(辛未71)七月己卯 「太子即天皇位。因以改元。」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年十月辛丑 「新羅王・・・曰 吾聞。東有神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇」

そして、西暦74年頃瀬戸内と火国を領有し、豊前を掃討、肥後、筑後も支配下にしたが、西暦400年頃に次の王朝の葛城圓大臣が天皇に即位した。皇子が家臣の宅に逃げることがないと記述しながら君王が圓大臣の館に逃げ、葛城圓大臣が葛城宅七區を大王に献上したけれど大臣共全員殺されて、大王が天皇に即位している。履中天皇紀では圍太子と記述して圍大臣とも記述して日本書紀も混同し、圓大臣が即位した時も大王が天皇に即位し、 天皇璽符と璽を得て、「四方志」という史書を作ったと記述している。
景行天皇三年(癸酉73)二月庚寅朔
爰屋主忍男武雄心命詣之・・・仍住九年。則娶紀直遠祖菟道彦之女影媛。生武内宿禰。
景行天皇四年(庚戌74)二月甲子
「神櫛皇子。是讃岐國造之始祖也。弟稻背入彦皇子。是播磨別之始祖也。・・・武國凝別皇子。是伊豫國御村別之始祖也。・・・日向襲津彦皇子。是阿牟君之始祖也・・・國乳別皇子。是水沼別之始祖也。弟豐戸別皇子。是火國別之始祖也。」
景行天皇十二年(壬午82)九月戊辰
「到周芳娑麼。・・・唯有殘賊者。一曰鼻垂。・・・二曰耳垂。殘賊貧婪・・・三曰麻剥・・・四曰土折猪折・・・悉捕誅之。天皇遂幸筑紫。到豐前國長峽縣。興行宮而居。故號其處曰京也。」
景行天皇十二年(壬午82)十月 「到碩田國。・・・以討土蜘蛛。」
景行天皇十二年(壬午82)十二月丁酉《五》
 「爰從兵一人進殺熊襲梟帥。天皇則惡其不孝之甚而誅市乾鹿文。仍以弟市鹿文賜於火國造。」
景行天皇十三年(癸未83)五月 「悉平襲國。」
景行天皇十八年(戊子88)六月癸亥《三》 「自高來縣渡玉杵名邑。時殺其處之土蜘蛛津頬焉。」
履中天皇即位前紀 爰仲皇子畏有事、將殺太子。密興兵、圍太子宮。
履中天皇二年(辛丑401)十月 「平羣木莵宿禰。蘇賀滿智宿禰。物部伊莒弗大連。圓大使主共執國事。」
履中天皇四年(癸卯403)八月戊戌 「始之於諸國置國史。記言事達四方志」
允恭天皇即位前紀 「今大王留時逆衆、不正號位、臣等恐、百姓望絶也。願大王雖勞、猶即天皇位。」
允恭天皇元年十二月 「天皇璽符。於是羣臣大喜。即日捧天皇之璽符。再拜上焉。皇子曰・・・乃即帝位」
雄略天皇即位前紀 
「穴穗天皇爲眉輪王見殺・・・逃入圓大臣宅・・・未見君王隱匿臣舍。・・・伏願大王奉獻・・・葛城宅七區・・・」

2017年9月25日月曜日

最終兵器の日本古代史 神倭王朝

 「先代旧事本紀」で神武天皇は三輪大神の女を皇后としたということは、この神武天皇は「神倭国」の王者になったということで、宇摩志麻治が「先代旧事本紀」を記述している時代では大臣・大連と同等だと大夫を記述して、その大夫に宇摩志麻治が就任した。すなわち、東鯷国は周朝の慣例通り「大夫」を東鯷国の王、配下の王を「足尼」と呼んでいたので、「饒速日」と東鯷国の女王「炊屋姫」の子「宇摩志麻治」が王となって「神倭国」を建国したが、神域の三輪山はすでに大物主に奪われてしまっていたようで、それが日本書紀の神武東侵だ。『先代旧事本紀』は大物主と同じ時代に当て「饒速日」が神武天皇、「宇摩志麻治」を「手研耳」に当てはめ、もちろん「手研耳」も神武天皇にあたる。
『先代旧事本紀』
「天祖以天璽瑞寶十種授饒速日尊」
「饒速日尊以夢教於妻御炊屋姬云汝子如吾形見物即天璽瑞寶矣」
「中州豪雄長髄彦本推饒速日尊兒宇摩志麻治命爲君」
「饒速日尊以夢教於妻御炊屋姬云汝子如吾形見物即天璽瑞寶矣」
「宇摩志麻治命以天神御祖饒速日尊天璽瑞寶十種壹而奉獻於天孫大嘉特増寵異矣」
「宇摩志麻治命與大神君祖天日方奇日方命並拜為申食國政大夫也其天日方奇日方命者皇后之兄也」
「此命葛󠄀城髙丘宮御宇天皇御世元為足尼次寵為申食國政大夫奉齋大神」
「即皇位尊正妃媛鞴五十鈴媛命立為皇后則大三輪大神女也」

神倭国は紀元前94年に即位し、東鯷国の神域の三輪山を取り戻して、古事記では大物主と変更しているが、意富多ゝ泥古の故地河内は神武東征すなわち大物主の東征で敗れた地域、すなわち、東鯷国の領地で河内の神は大物主ではなく大三輪神だ。さらに、東鯷国の神をも祀って支配下の民を懐柔して政権をを安定させようとした。大彦によって紀元前88年に長髄彦の東鯷国が滅亡し、紀元前26年に「饒速日」の直系の「瀛津世襲」に王位を奪取され、「大倭国」と国名が変わり、物部氏は皇位を譲って大祢や大尼に降格されたが石上神宮を任され日本書紀上の物部氏による大連が始まり、石上神宮ができて87年目だったようだ。
『先代旧事本紀』
「大綜杵命此命輕境原宮御宇天皇御世為大祢春日率川宮御宇天皇御世爲大臣則皇后大臣齋大神髙屋阿波良姫爲妻生二兒弟大峯大尼 此命者春日宮御宇天皇御世爲大尼供奉其大尼之起始發此時矣」
「同天皇御世即經八十七年五十瓊敷倉皇子命謂妹大中姬命日我老也不能・・・遂大中姬命遂授物部十市大連而令冶石上神寶盖是其縁也」
「八世孫物部武諸遇大連公 此連公磯城瑞籬宮御宇天皇即位六十年詔群臣日武日照命從天将來神寶藏于出雲大神宮是欲見焉則遣矢田部造遠祖武諸遇命 使分明檢定獻奉復命之時乃爲大連奉齋神宮」
『日本書紀』
崇神天皇四年十月壬午 「今朕奉承大運 愛育黎元 何當聿遵皇祖之跡 永保無窮之祚」
崇神天皇九年四月己酉 「依夢之教 祭墨坂神 大坂神」
崇神天皇十年九月甲午 「以大彦命遣北陸。武渟川別遣東海。吉備津彦遣西道。丹波道主命遣丹波」
崇神天皇十年九月壬子 「是武埴安彦將謀反之表者也。」
垂仁天皇四年九月戊申 「皇后母兄狹穗彦王謀反欲危社稷」
垂仁天皇二五年三月丁亥 「則仰中臣連祖探湯主而卜之 誰人以令祭大倭大神」
垂仁天皇三九年十月 
「作劔一千口。因名其劒謂川上部・・・藏于石上神宮也。是後命五十瓊敷命。俾主石上神宮之神寶」
『古事記』
「天皇、大歓以詔之、天下平、人民栄、即以意富多ゝ泥古命、為神主而、於御諸山拝祭意富美和之大神前」

神倭国は紀元前88年には3道侵攻で丹波・北陸・東海を支配下にして、天氏に独占されていた海洋の流通を取り入れようと紀元前81年より船を作り、紀元前50年には毛野国を配下にし、河内の狭山で紀元前36年には自然の沼地に種を播く農法だったが、農地を整備し灌漑のため池を作った。
崇神天皇十七年十月 「始造船舶。」
崇神天皇四八年四月丙寅 「以豐城命令治東國。是上毛野君。下毛野君之始祖也。」
崇神天皇六二年七月丙辰 「今河内狹山埴田水少。是以。其國百姓怠於農於農事。其多開池溝。以寛民業」
崇神天皇六二年十一月 「作苅坂池 反折池 一云 天皇居桑間宮造是三池也」

2017年9月22日金曜日

最終兵器の日本古代史 物部氏の王朝

 日本の王の象徴は「璽」で璽を得ることで王位を受け継いだ象徴となる。その「璽」は先代旧事本紀に書いてあるところによれば「天神御祖」から「饒速日」が受け取るところから始まるが、これは、「饒速日」が一番最初にもらったと主張しているのであり、「長髓彥」の妹の「炊屋姬」に渡しているということは、元々「炊屋姬」の物だったと考えることができる。「先代旧事本紀」の原本が完成した守屋の時代には「饒速日」の家系の守屋が天皇だったのだから遠慮する必要がなく、元々は自分の一族が日本を支配していたのだと書いても全く問題なかった。亦の名で「瞻杵」と壱岐出身の「饒速日」が璽の所有者の「炊屋姬」を娶って「宇摩志麻治」が「東鯷国」を滅ぼして「神倭国」を建国した。
『先代旧事本紀』
「天神御祖詔授天璽瑞寶十種謂贏都鏡一邊都鏡一八握劍一生玉一死反玉一足玉一道反玉一蛇此禮一蜂此禮一品物此禮一是也」
「天祖以天璽瑞寶十種授饒速日尊」
「饒速日尊便娶長髓彥妹御炊屋姬爲妃誕生宇摩志麻治尊矣」
「饒速日尊以夢教於妻御炊屋姬云汝子如吾形見物即天璽瑞寶矣」
「饒速日尊亦名瞻杵磯丹杵穗命」

そして、紀元前88年に瀛津世襲が「神倭国」を倒して「大倭国」を建国し、「宇摩志麻治」が天皇に璽を献上したと記述された。それが天皇家の時計では池心朝御世(孝昭天皇)の時代で、大連が王朝の王の地位だった。古事記を書いた王朝がその前の物部王朝の天皇を大連とし、自王朝の政権奪取前の地位を大臣として、大臣が天皇を意味するようになったため、守屋達もそれを踏襲したのだろう。
『先代旧事本紀』
「宇摩志麻治命以天神御祖饒速日尊天璽瑞寶十種壹而奉獻於天孫大嘉特増寵異矣」
「四世孫羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖 天忍男命子此命池心朝御世為大連供奉次建額赤」
「七世孫建諸隅命此命腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣供奉葛󠄀木直祖大諸見足尼女子諸見巳姫生一男 妹大海姫命 亦名葛󠄀木髙名姫命礒城瑞籬宮御宇天皇立爲皇妃誕生一男二女召八坂入彦命」

物部氏は政治を司る尾張氏と神事を司る物部氏という役割分担ができ、垂仁天皇のころの大新河命から配下として政治参加し、大倭国が仁徳天皇時代に意乎巳連で滅ぼされたが「物部伊莒弗」が次の王朝の扶桑国に仕えた。
『先代旧事本紀』
「弟大新河命此命 纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連奉齋神宮其大連之號始」
「十四世孫尾治弟彦連 次尾治針名根連 次意乎巳連 此連大萑朝御世爲大臣供奉
孫物部伊莒弗連公 五十琴宿祢之子 此連公稚櫻柴垣二宮御宇天皇御世為大連奉齋神宮倭國造祖比香賀君女王彦媛為妻生二兒」
『日本書紀』
履中天皇二年十月 「都於磐余 當是時 平羣木莵宿禰 蘇賀滿智宿禰 物部伊莒弗大連」

大倭国は東鯷国の勢力範囲に加えて、4道侵攻時に丹波国・但馬国・高屋大分国 、倭武の侵攻で筑紫豊国・甲斐国を勢力下に加えたが、高屋大分国 ・筑紫豊国を狗奴国が支配下にしたようだ。さらに、西暦82年の豊国の九州遠征などで瀬戸内・九州を支配したが、允恭天皇の時に大倭国は政権を終えたようで、「扶桑国」が允恭天皇のとき天皇の「璽」を受け取っている。
『先代旧事本紀』
六世孫建田背命 神服連海部直丹波國造祖馬國造等祖・・・阿久良命 髙屋大分國造等祖・・・次大原足屋 筑紫豊國國造等祖・・・次大八椅命 甲斐國造等祖」
『先代旧事本紀』 景行天皇
「武國彥凝別命 築子水間君祖 神櫛別命 讃岐國造祖・・・國背別命 水間君祖・・・武國皇別命 伊与御城君 添御杖君()・・・豐門別命 三島水門君 奄智首壮 子首栗首 筑紫火別君祖・・・櫛見皇子 讃岐國造祖・・・草木皇子 日向君祖・・・弟引()命 牟宜都君祖・・・」
成務天皇 「次 息長田別命 阿波君等祖 次 五十日彥王 讃岐君等祖」
応神天皇 「次 稚沼笥二俣皇子尊 三國君等祖」
允恭天皇 「群卿日皇子將聽群臣之請今當上天皇璽符於是群臣共爲天下請寡人寡人何聽遂辞乃即帝位矣」

2017年9月20日水曜日

最終兵器の日本古代史 考古遺物2

 そして、アカホヤ後に大量に南九州の人々、すなわち、日本書紀の神話を作った人々は対馬海流近辺の島々を拠点に中国からコメ・沖縄からゴウホラ・佐渡を拠点にコールタールやヒスイを流通させた。垂仁天皇の時代の済州島(常世国)から高麗橘を島根県に持ってきたように、10年かけて栽培方法を習得していることから、稲の栽培も同じように長年かけて習得して日本に持ち帰ったのだろう。もちろん、7千年前頃からは中国でも船が出土していて、稲を持ち込んだ可能性を否定できないが、周時代に倭人が訪中しており、考古物の中国の直接的影響の少なさを考えるとどうかと思う。また、朝鮮経由は生化学的論証で否定されてしまい、しかも朝鮮南部は縄文土器の時代から同じ文化圏であり、朝鮮半島経由を主張する理由がよくわからないし、朝鮮の古代史学を再検討する必要があるかもしれない。縄文人は弥生人の「大八島」の対岸の遠賀川式土器を使用する八国の支配者であり、銅矛の事代主や銅剣の大物主の地域を支配した狗奴国や20国を束ねる銅鐸の東鯷国、他合わせて120国程度を支配していたと思われる。弥生人の男性が縄文人の支配者の女性を娶ってその子に統治させるという手法で急速に弥生人化させたのだろう。速素戔嗚はおそらく隼人の「速」で隠岐の沖ノ島()から島後の天照大神を娶ってその子たちが国を形作っていくのと同じ手法で、女系社会だった縄文人の弱点によって弥生人が日本社会で大勢となった。そして、瓊瓊杵が天降ったときも、神武が建国した時もすでにその国は豊国の瑞穗を見渡せる国で、事代主が支配した地域はすでに水田を営んでいた。その稲作地の人々は、支石墓を残した人々で縄文人であり、菜畑遺跡と同じ模様の土器が出土する江辻遺跡は環濠集落があり、環濠集落がある江辻遺跡近くの板付遺跡の水田遺構というように瓊瓊杵が天降ったときに水田があったことを示している。なお、稲の朝鮮からの流入を論証するため松菊里型住居を使っているが、松菊里型住居より以前に稲は日本に流入し、松菊里遺跡には水田の遺構はないし、江辻遺跡のほうが土器を見る限り松菊里遺跡より早い。
『日本書紀』
神武天皇即位前紀 「昔我天神高皇産靈尊、大日孁尊,舉此豐葦原瑞穗國,而授我天祖彦火瓊瓊杵尊」

支配者が変われば遺物が変わるのは当然で、東鯷国が滅びた時銅鐸が消え、大倭国が滅びた後は鏡の埋納から巨大前方後円墳と埴輪そして横穴石室が登場する。倭国が登場すると甕棺が消え石室に変わり、倭国が筑後方面に拡大すると横穴石室も拡大し、さらに全国規模となった。私は今、前方後円墳の後、寺を宗廟としたように、九州の倭政権は神社を宗廟とした政権ではないかと妄想している。神社は王家の屋敷としては狭すぎる気がして、那珂八幡や宮地嶽の神社に古墳が、岩戸山古墳には吉田大神宮が有る様に鎮守の杜が王家の陵墓なのでは。香椎宮や箱崎宮が卑弥呼や台与の陵墓では、志賀海神社が金印を貰った王の陵墓、太祖神社が筑紫倭国の創始者の陵墓ではないか、宗廟なら墓は破壊されても宮は残る可能性があると考えたかと。

2017年9月18日月曜日

最終兵器の日本古代史 考古遺物1

 神話を裏付けるものが石器や土器などの遺跡で、日本では1万数千年前、1万4千年前に氷河期が終わって歩いて大陸との交流が出来なくなってから世界で一番古い丸ノミ石斧が鹿児島県で発掘(栫ノ原遺跡)されている。この磨製石器は船を作るのに必需品で、8000年前からできた対馬海流や黒潮などを横断するには船がなくては横切れず、筏では舵が利かずに命を落とすしかない。西暦300年頃ですら精鋭の軍艦の日本侵攻が無謀と諦めている。『三國史記』のように、集団で日本に侵略することは不可能で、不慣れな人物が1艘日本に流れ着くことは幸運なことだった。従って騎馬民族説など有り得ない話で、もちろん弥生人の大量移入なども中国では周の時代から倭人を認識していてあり得ない。丸木船だから海を渡れないとの議論があるけれど、1万年前頃に既に同じ縄文土器を共有して隠岐の島との交流が見て取れる。
『三國史記』 卷第二 新羅本紀第二  儒禮尼師今
十二年 春 王謂臣下曰 倭人屢犯我城邑 ・・・吾人不習水戰 冒險遠征 恐有不測之危

日本語はもっとも古い言語で、日本列島に大陸と陸続きだったころに流入した人間が大陸から切り離されて海流という防衛線のおかげで他民族の流入を阻止し、流入の簡単な北海道と沖縄では他民族の影響が起こったと考えるべきだと思う。三国志では日本に侏儒国があったと複数の民族の存在を示していて、複数の民族の淘汰が起こって最終的に蝦夷と弥生人から混血弥生人へと統合された。そうでなければ、近縁言語が南方の島や北方の偏狭にしか無い理由が見つからない。言語はコミュニケーションのツールなのだから、より多くの人々と共有する物であって、後から流入した民族なら近縁の言語が流路に幾つかあったはずである。
『三国志』 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里

そして、中国の船の出土は7千年前に有ったようだが、それより以前の海を使った交流状況からみると、よくわかっていないが、日本国内では先に記述したように実績がある。従って、日本の漆が見つかっている河姆渡遺跡との交流は日本からの一方通行と考えるべきで、河姆渡遺跡から少し遅れて日本各地でコメのもみ殻の圧痕(熊本大矢遺跡・5千年前)やプラントオパール(岡山県彦崎貝塚・6千年前)が見つかっている。一方通行で無かったのなら、多くの地域に広まったアンダーソン土器(5千年前)が日本に入らないはずがない。その背景が鹿児島近辺の造船で、鹿児島近辺のアカホヤ(7.3千年前)も原因したのか土器(轟B・曽畑式)が九州西岸→朝鮮・島根→瀬戸内海と広まり、朝鮮南部は同一文化圏となり、船も出土している。さらに、大八島と呼ばれる島々にも縄文土器が出土している。さらに、轟B土器より古いアカホヤ以前の条痕文土器(7500年前)や爪形文土器(約11000前)が隠岐の島宮尾(みやび)遺跡や島根県の佐太講武貝塚で南九州と似た土器が出土し、南九州の人物が8000年前の対馬海流の分岐をきっかけに隠岐の島に移り住み、イザナミは島根の人物と考えられクジラの神の国産み神話を連想させる。ちなみに、平戸には7千年前のクジラ漁に必要な石器が大量に出土したつぐめのはな遺跡があり、アカホヤ以前にクジラを神と考えている可能性がある。

2017年9月15日金曜日

最終兵器の日本古代史 東鯷国

 素戔嗚は出雲に侵略する時すでに出雲には高志の支配下で主や耳を官名に持つ稲田宮主須賀之八耳がいて、その支配者は「八岐大蛇」で「壱岐・隠岐」と同じ「八岐」すなわち八国・東鯷国の支配下の人物だ。そして、天忍穂耳が後に耳が付くことで分かるように、東鯷国の支配下の隠岐の島に残る分家大己貴から出雲を奪って天穂日が後を継いで、天津彦根が山代・川内に侵略した。この説話はおそらく大物主からみた神話で、実際は先代旧事本紀の天香語山と饒速日・宇摩志麻治が東鯷国を滅亡させ神倭国を建国したと考えられる。
『古事記』
「天菩比命之子、建比良鳥命、此、出雲国造・无耶志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・津島県直・遠江国造等之祖也」
「天津日子根命者、凡川内国造・額田部湯坐連・茨木国造・倭田中直・山代国造・馬来田国造・道尻岐閉国造・周芳国造・倭淹知造・高市県主・蒲生稲寸・三枝部造等之祖也」
「自本在八稚女、是、高志之八俣遠呂知・・・負名号稲田宮主須賀之八耳神」
『日本書紀』
「往時吾兒有八箇少女。毎年爲八岐大蛇所呑。・・・曰稻田宮主神」
「天穂日命 是出雲臣 土師連等祖也 次天津彦根命 是凡川内直 山代直等祖也」
『先代旧事本紀』
饒速日尊襄天神御祖詔乗天磐舩而天降坐於河內國河上哮峯則遷大倭國鳥見白山」

すなわち、淤能碁呂島と呼ばれた隠岐の島の島後の「八尋殿」に八国を打ち立てた伊弉神の末裔の八上比売の八国を大穴牟遅は得て、「八十神」から出雲・伯岐国・木国・根堅州国、古志さらに「六合」の支配者大日孁貴から宗像をも奪い、事代主・大物主達の領域も得て東鯷国とした。この歴史が大穴牟遅・素戔嗚・大国主から大田田根子までのことで、『先代旧事本紀』と日本書紀では崇神(11世)より2世代前(9世)と違っていて、孝元天皇の時代だ。神武天皇の名は「神倭伊波礼毘古」・綏靖天皇の名が「神沼河耳」、と神国の配下の名を持ち新羅王おそらく「婆娑尼師今」が西暦80年に「神国が東にある」と言っていて、おそらく、以前神国と言い現在日本と言っている国があるということだ。
『日本書紀』
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年十月辛丑 
「讋焉失志 乃今醒之曰 吾聞 東有神國 謂日本 亦有聖王 謂天皇 必其國之神兵也」

おそらく、紀元前90年に天香語山の子孫の神倭国の瀛津世襲がまず大坂を破り、東鯷国を滅亡させたのが天菩比や天津日子根の子孫・大物主の子孫の大彦達の4道侵攻と樟葉の戦いで完全に東鯷国は滅んで大倭国となった。
『古事記』
「引上時 自其矛末垂落塩之累積成島 是淤能碁呂島・・・其島天降坐而、見立天之御柱、見立八尋殿」
「八上比売、答八十神言、吾者不聞汝等之言、将嫁大穴牟遅神。」
『日本書紀』
「號大日孁貴・・・此子光華明彩 照徹於六合之内」

また、事代主が支配していた筑紫では3世紀頃まで伊都国が一大率を置いて壱岐を支配していたということは少なくとも3世紀までは高千穂宮に一大率を置いた王家があって「伍佰捌拾」年近く経っていた。とゆうことは、紀元前3世紀以降(紀元前200年頃)に伊都国へ天孫が天降ったことを意味していて、東鯷国の事代主から天氏は伊都国を奪って紀元前183に「若御毛沼」が太祖神社がある篠栗町に「委」国(猪野国)を建国した。
『古事記』
日子穂ゝ手見命者、坐高千穂宮、伍佰捌拾歳。
『三国志』
「自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史」

2017年9月13日水曜日

最終兵器の日本古代史 神話

 日本は「イザナ」が船で隠岐の島の島後のコロ島こと淡島に定住したことから始まり「ヤ」神が黒曜石によって日本を支配したけ。また、各地の有力者の大物主・事代主・道主・建御名方などが分割統治するようになりその中の事代主の分家の大己貴が淡島さらに出雲を支配した。すなわち、素戔嗚の話ではなく、大己貴が事代主や大物主を支配した話で3000年以上前で周とも交流した。
大己貴の子孫の大国主という官位を持つ時代には八岐の大蛇(八国の大地域のオロチ)の本拠の越から宗像までを統治した。オロチは十握の剣を簡単に折る銅剣を持ち、この銅鐸の国は「東鯷国」と呼ばれて20余国(出雲国・无耶志国・上菟上国・下菟上国・伊自牟国・津島県・遠江国・凡川内国・茨木国・山代国・馬来田国・道尻岐閉国・高市県・ 筑紫三家宗像国・ 伊余国・科野国・道奥石城国・常道仲国・長狭国)を支配した。火国・大分国・阿蘇国・筑紫は事代主が周芳国・安芸は大物主が諏訪は建御名方が支配したと考えられる。
『漢書』 卷二十八下 地理志第八下 呉地条
會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云
『古事記』 神代
乞度所纏右御美豆良之珠而、佐賀美迩迦美而、於吹棄気吹之狭霧所成神御名、天之菩卑能命。
乞度所纏御縵之珠而、佐賀美迩迦美而、於吹棄気吹之狭霧所成神御名、天津日子根命。
天菩比命之子建比良鳥命、此、出雲国造・无耶志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・津島県直・遠江国造等之祖也。
天津日子根命者、凡川内国造・額田部湯坐連・茨木国造・倭田中直・山代国造・馬来田国造・道尻岐閉国造・周芳国造・倭淹知造・高市県主・蒲生稲寸・三枝部造等之祖也。
神八井耳命者、意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹波臣・島田臣等之祖也。

アカホヤ噴火でやってきた天照大神が隠岐の沖島の素戔嗚と対馬の月読とでまだ支配が決まっていない小島を拠点に河姆渡遺跡のある地域とも米などを交易して力をつけた。同じ天の付く壱岐の高皇産霊と同盟して大国主から天穂日が大国を更に東鯷国を奪い、また、事代主から紀元前270頃に天津彦彦火瓊瓊杵が伊蘇国を奪った。このころ、饒速日が奈良県北部の鳥見の白庭山に侵入して奈良県北部や三重県北部・大津近辺を勢力範囲にし、宇摩志麻治が神倭国を建国した。奈良南部は大物主が東鯷国から領域を奪いその配下に中臣氏の先祖の神倭伊波礼毘古がいて神倭国の配下になって東鯷国と対峙した。

『古事記』
八千矛神、将婚高志国之沼河比売・・・自出雲将上坐倭国而・・・、此大国主神、娶坐胸形奥津宮神、多紀理毘売命、生子、阿遅二字以音。鋤高日子根神・・・大国主神、亦、娶神屋楯比売命、生子、事代主神。
『先代旧事本紀』
天祖以天璽瑞寶十種授饒速日尊稟天神御祖詔乘天磐舩而天降坐於河內國河上哮峯則遷坐於大倭國鳥見白庭山天降之・・・宇摩志麻治命以天神御祖饒速日尊天璽瑞寶十種壹而奉獻於天孫大嘉特増寵異矣

大物主は最初に産んだ洲にもかかわらず淡路を数に入れていないとゆうことは、大物主の建国は3000年以上前に淡路島だった。だけれど、東鯷国に追い出されたために安芸に逃れて建国して中国と呼び、紀元前181頃に饒速日の侵略を知って奈良南部の三輪山近辺に侵入した。
 『日本書紀』
「以淡路洲爲胞 意所不快 故名之曰淡路洲 廼生大日本豐秋津洲」

これが、神話がかたる日本の超古代史と思われる。

2017年9月11日月曜日

最終兵器の日本古代史 神話から読み解く王朝交代

 日本の神話の作成順は『日本書紀」→『古事記』→『旧事本紀』の順で、『日本書紀』の神様に『古事記』は天之常立神・宇摩志阿斯訶備比古遲神・神産巣日神・高御産巣日神・天之御中主神の神を付け加えた。『旧事本紀』は高御産巣日神・神産巣日神を削除して天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊を付け加えていて、夫々の王朝の母体がよくわかる。『日本書紀』の王朝は天之御中主神を母体とする『古事記』の王朝を滅ぼした王朝で『旧事本紀』の王朝は高御産巣日神・神産巣日神と敵対した狭霧尊を母体にした王朝とゆうことが解る。
『日本書紀』
「于時天地之中生一物。状如葦牙。便化爲神。號國常立尊」
『古事記』
「天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神。次、高御産巣日神。次、神産巣日神。・・・如葦牙因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遅神。次、天之常立神。上件五柱神者、別天神 次、成神名、国之常立神」
『先代旧事本紀』
「高天原化生一神號日天譲日天狭霧國禅月國狭霧尊・・・天御中主尊 可美葦牙彦舅尊・・・國常立尊」 

すなわち、日本の史書を作成した王朝の流れは伊弉諾尊・伊弉冊尊が隠岐の島の島後に国を建国したことが始まりだ。アカホヤ噴火によって大苫邊尊・大戸之邊・大戸摩彦尊・大戸摩姫尊・大富道尊・大富邊尊を祀る六合の国が建国されその国を大日孁貴が支配して連合国を造った。その領域は恐らく隠岐の島3島と壱岐・対岐(対馬)など、天が頭に付く6島なのだろう。
『日本書紀』
・・・次國狹槌尊 次豐斟渟尊 泥土煮尊 沙土煮尊〈亦曰 泥土根尊 沙土根尊〉 大戸之道尊 大苫邊尊〈一云大戸之邊 亦曰大戸摩彦尊 大戸摩姫尊 亦曰大富道尊 大富邊尊〉 面足尊 惶根尊〈亦曰吾屋惶根尊 亦曰忌橿城尊 亦曰青橿城根尊 亦曰吾屋橿城尊〉伊弉諾尊 伊弉冊尊 凡八神矣・・・
・・・號大日孁貴・・・此子光華明彩 照徹於六合之内

さらに、船を使った交易のため、大きな消費地のある傍の島々に中継国を作ってそれらの国をまとめ上げたが、 それらの国で祀られた神が泥土煮尊・沙土煮尊・大戸之道尊・大苫邊尊・面足尊・惶根尊・伊弉諾尊・伊弉冊尊で八神がいる島国である面足尊・惶根尊を祀る大八島国だ。大八島国に対抗するのが遠賀川土器を使用し、弥生時代銅鐸を祭祀に使う東鯷国となる国だったけれど、東鯷国にはまだ文字が無く神話を残すことができなかった。泥土煮尊・沙土煮尊を祀る国は泥土根尊・沙土根尊を支配下にしていて、女神の名が残るのは外来の男はその土地ではすぐに認められず、在来の姫と結婚して子ができた時、その子の男女が王として祀られることを表している。さらに面足尊・惶根尊も同じで吾屋惶根尊・忌橿城尊が青橿城根尊・吾屋橿城尊の国を奪った国(八国)を奪った。 泥土煮尊・沙土煮尊を祀る国が大八島国の支配者だった大戸之道尊・大苫邊尊を祀る神倭国から奪って大倭国を建国して、さらに豐斟渟尊を祀る扶桑国そして國狹槌尊を祀る秦王国、蘇我氏の失政で史書を残せず、さらに國常立尊を祀る倭国内の変遷が有って、中臣王朝は神話の変更を行わなかった。
 そして、扶桑国の史書である『古事記』は天之常立を祀る神倭国から国を奪った 宇摩志阿斯訶備比古遅を祀る大倭国から高御産巣日神・神産巣日神を祀る壱岐を出自とする天之御中主を祀る豊国(中国)が王朝を立てて扶桑国を標榜して、秦王国の末裔の史書の『先代旧事本紀』は天譲日天狭霧國禅月國狭霧尊を祀る国だった。『日本書紀』は穴穗(安康)天皇までを扶桑国が書き、泊瀬部(崇峻)天皇までを秦王国が、息長足日廣額(舒明)天皇までを蘇我王朝が書いた。乙巳の変と大化以外の天命開別(天智)天皇までを天氏(天武天皇)が書き、乙巳の変と大化と天武天皇以降を中臣氏の元明天皇が付け加えた。

2017年9月8日金曜日

最終兵器のミサ ミサの終わり

 これまで、今の古代史は大間違いでその原因は記紀をはじめ何でもかんでも偽書だの間違いだのと言ってしっかり究明しないで、自分に都合の良い理論のみをかき集めてきて自分の理論が正しいと論証しているのだ。けれど、都合の良い理論も同じ背景だから自分の理論で批判した理論を基に創られた理論をもとに新しい理論を築いてきていることを全く意識しない矛盾だらけの理論を発表している。もちろん、これはまだましで、理論も何もなしで、現代の事象をもとに、過去にもあったに違いない、地域の民間伝承を持ち出して、これは高名な人物のことだと我田引水の妄想を言う人物もいるけれど、個人が思うだけで議論がひろがらない。邪馬台国論争などはその代表で、間違いの三国志をもとに議論してもまとまるはずが無く、言い放つだけになってしまっているが、三国志が間違いでないとすれば、距離はすぐに決まるし、方向が違うということなら、自分の考えている場所を三国志に合わせて比定すればいい。そこで、どうしても矛盾が有れば、他の証拠と合わせて仮説を出せばよいのだ。私にとっては、日本書紀から既に邪馬台国の位置は推定出来ていて、三国志とも甕棺の出土状況とも矛盾が無かった。
どんな古代史の理論も記紀を使わなければ説明できないのだけれどすべての古代史学者は記紀は8世紀の官吏の造作であてにできないと言っておきながら、継体天皇からは正しいなどと言って自分に都合の良いところだけ正しいとする、そんな都合の良い論証がまかり通っているのが古代史学者だ。
都合の悪いところは日本書紀と違っていても官吏の作り物だから違っていてもよい、ここは日本書紀も間違いばかりではなくて資料が有ったのだろうと、資料が有るので8世紀の作り物じゃないと言っているのと同じじゃないかと言わなきゃならないのにそれには無言で、現に資料がないところは何も書いてないと私は主張している。
作り物なら遠慮しないで欠史8代など作らないで適当に中国に行った話を書けば良いのに書いていなのは全部資料を基に日本書紀を書いた証拠だ。日本書紀には何度も「史書を書いた」と書いてあることをミサで書いて、それに合わせて璽が動いて、論旨としては8世紀に書いたグループのつもりだろうが日本書紀の書いた人物も「違う人物が書いていた」と日本書紀を分析した森博達を紹介した。
私は、記紀を含めてすべて間違いではなくて、もともと日本の史書は古事記や先代旧事本紀のように紀伝体・列伝で書かれていたものを、天氏の宮の時計に当てはめて、列伝を同時代の人物と合わせて並べて後ろに天氏や中臣氏の天皇を付け加えて干支を振りなおしたものが日本書紀だと言ってきた。
そして、それに合わせるように考古学資料も私の説に合い、日本書紀も普通に読むと矛盾だらけだったのが私の説で読み替えると矛盾とされるところが合ってしまって、日本書紀も私の説を支持した。そして、残る矛盾も、時代の違う列伝を入れ込んだことによる矛盾だということが解った。
私は1つも突飛な説を考えて構築していなくて、古事記の序文の矛盾の飛鳥浄御原天皇から飛鳥浄御原天皇への政権交代があって続日本紀の704年の藤原定都で695年の遷都が無かったことが解ったことから始まった。
学校で習った古代史のいい加減さ、多くの本を読み漁ったときの虚しさ、古田氏の『邪馬台国は無かった』で読んだ感動とその後の『盗まれた神話』からの古田氏も古典を信じていなかったことの無念さ、古田氏への質問のはぐらかすだけの底の浅い返答にまた絶望感を持った。
そこから人を当てにしないで古典を原文で読んでみようと発起してインターネットの発達にも助けられて今までの現代語訳の大ウソを知って愕然としたと同時に日本書紀をはじめすべての古典や金石文が私に訴えかけてくるようになって、古代史が生き生きとよみがえってきた。
それらの訴えを「ミサ」にいままで書いてきたので、今度は古代史通史に挑戦してみようと思う。

2017年9月6日水曜日

最終兵器のミサ  『新唐書』

 前回は『宋史』を考えることで『新唐書』は『宋史』が修正していないところはそのまま中国の日本に対する理解で、宋になって発見された唐時代の資料を正しいと考えていることが解りました。粟田朝臣眞人・阿倍朝臣仲満・橘免勢・空海達が訪中して、特に 阿倍朝臣仲満は唐朝で官吏として働いていて唐側に十分説明しているはずです。高表仁や郭務悰等の報告を確認していると思われ、しかも、対戦相手で間違った情報は許されないので、かえって『宋史』の変更のほうが間違って日本の言い分を採用している可能性がある。
『新唐書』
「長安元年 其王文武立 改元曰太寶 遣朝臣眞人粟田貢方物・・・其副朝臣仲満慕華不肯去 易姓名曰朝衡・・・貞元末 其王曰桓武 遣使者朝 其學子橘免勢 浮屠空海願留肄業

橘免勢等が淡海三船が付けた天皇名を唐側に説明し親子関係や中国資料にある「多利思比孤」や「天豐財」・「總持」、眞人や仲満が伝えたと思われる内容と「阿用」・「孝明」・「高野姫」を付け合わせたと思われる。けれど、やはり旧唐書での印象と同じで里単位も疑っているけれど修正されていないとゆうことは日本の使者に影響されないで多くを唐の資料どうりに書いているようだ。
『新唐書』
不以情故疑焉 又妄夸其國都方數千里

唐の資料では淡海三船の名付けた天皇名はよくわからないけれど、神功は卑弥呼と理解して宮天皇としては開化天皇の「曽孫女」だ、欽明にあてられている天皇11年が承聖元年だったことを知っている。用明天皇にあたるときは「多利思比孤」が王だった、孝徳天皇と呼ばれている人物が天皇の時白雉と改元してすぐになく亡ってその子が即位して、その天皇の名前は良く知っている「天豐財」だった。
そして、「天豐財」の子の天智が天皇になって次は天智の子の天武さらに總持とつながったけれど、血縁関係がない文武が天皇になって代がつながって孝明まで継った。そして、血縁関係がない大炊が立ったけれど、死んだので聖武の娘の高野姫が天皇になったと書いている。
『新唐書』
仲哀死 以開化曽孫女神功爲王・・・欽明之十一年 直梁承聖元年 次海達 次用明亦曰目多利思比孤・・・
永徽初 其王孝德即位改元曰白雉・・・未幾孝德死 其子天豐財立 死 子天智立・・・天智死 子天武立 死 子總持立・・・長安元年 其王文武立 改元曰太寶・・・文武死 子阿用立 死 子聖武立・・・聖武死 女孝明立
・・・孝明死 大炊立 死 以聖武女高野姫爲王 死 白壁立

孝徳天皇が本当に「天萬豊日」か不明で、「最終兵器のミサ  『舊唐書』」で書いたように654年の知識か664年の知識かどちらかが考えられる。けれど、唐は654年の天皇を倭とも日本とも違う王朝と認識していて、皇極天皇との血縁を持たせていない。けれど「天豐財」を子として王朝が交代したか唐の範疇外の母親だったからとゆうことと思える。
以降は總持または持總天皇まで親子相続で、文武天皇が血縁無しで即位して孝明天皇まで親子相続として高野姫が1代空いて即位している。けれど孝明天皇と別人と書いていて、母親相続と重祚が唐では範疇外の相続だったのか唐の資料と合っていなかったようだ。
すなわち、唐は646年の遣使で推古天皇の続き柄を知って皇極天皇までは倭国と理解して孝徳天皇から後に日本と国名を付けた違う王朝が總持天皇まで続いてさらに日本は王朝が交代したと理解していることが解る。650年から670年、特に孝徳天皇ととらえている650年から664年の郭務悰来日までがあやふやになっている。
とゆうことは、孝徳天皇は倭国と別国だけど天智天皇と同じ系図上の人物と捉えていて、これは、岡本宮天皇(吉備姫・田村皇子・天豊財・天萬豊日)を後に淡海三船が命名した孝徳天皇と唐が理解した。この期間に白雉改元があったけれどこの改元は実際は蘇我氏が行った倭を引き継いだとゆう別王朝で、664年に 天萬豊日が政権を奪った。けれどすぐに亡くなって 天豊財が即位して中国に渡って668年に天智天皇が即位して倭国を捨てて日本国と国名を変えた。

2017年9月4日月曜日

最終兵器のミサ  『宋史』

 前回は『舊唐書』を検討したので、本来は『新唐書』を考えるべきだけど、先に次の王朝の『宋史』の『新唐書』から変えたところをを考えてみようと思う。おおむね2書は同じで日本人が多く訪中したためなのか変更していて、多くの続き柄が削除されて推古天皇の続き柄を記紀どおりにして抜けていた元正天皇らしい皈依天皇を追加している。
けれども、まだかなり違っていて、現代の普通の日本人は間違っていると叫ぶだろうけど、宋時代に『新唐書』を見た日本人は、「天國排開廣庭」や「天豐財重日足姬」は詳しく正確に変えて、多利思比孤を書かないで聖徳太子を新たに追加して書いてもらった、宋時代の日本人の知識が『宋史』に反映されていると考えられる。
『新唐書』→『宋史』
次天安→次孝天皇
次清寧→次清甯
次欽明→天國排開廣庭天皇,亦名欽明天皇
十一年 直梁承聖元年→即位十三年,壬申歲始傳佛法于百濟國,當此土梁承聖元年。
次海達→次敏達
次用明亦曰目多利思比孤 直隋開皇末始與中國通→
次用明天皇,有子曰聖德太子,年三歲,聞十人語,同時解之,七歲悟佛法於菩提寺,講《聖曼經》,天雨曼陀羅華。當此土隋開皇中,遣使泛海至中國,求《法華經》
欽明之孫女雄古立→次推古天皇,欽明天皇之女也
未幾孝德死 其子天豐財立→次天豐財重日足姬天皇
子天武立 死 子總持立→次天武天皇,次持總天皇
其王文武立 改元曰太寶→次文武天皇
文武死 子阿用立 死 子聖武立→次阿閉天皇,次皈依天皇。次聖武天皇,
聖武死 女孝明立→次孝明天皇,聖武天皇之女也
孝明死 大炊立 死 以聖武女高野姫爲王→
次孝明天皇,聖武天皇之女也,次天炊天皇。次高野姬天皇,聖武天皇之女也

ただし、だからと言って聖徳太子は推古天皇の太子ではなくて用明天皇の太子と読める書き方になっていて、中国の資料から大きく外していないので、おそらく『新唐書』から変えていないところはそのままの理解でよく、中国が昔から知っている日本の歴史と考えられる。
すなわち、宋時代は公式な官吏が訪中していないため、日本としては淡海三船の天皇が正式な天皇名で、官吏でない人物の知識を『宋史』は表しているかもしれない。しかし、中国史書の日本古代の理解の最終段階の宋史をみると、日本書紀・続日本紀を知った官吏が中国を訪問して伝えているはずなのにやはり変えていない部分が多いのは、日本の報告を信じていない、中国の持っている資料と異なるとき、中国の資料を信じていることが解る。おそらく、日本人が日本の史書と異なる中国の歴史の間違いを指摘しているにもかかわらず変えていない、中国から見た歴史を記述しているのだ。もちろん、中国に都合の良い歴史であるかもしれないが、それは日本書紀も同じことだけれど、無いことを書くことは無いと思うし、中国の見方は日本に対しては客観的な見方となる。

2017年9月1日金曜日

最終兵器のミサ  『舊唐書』

 『 舊唐書』は日本史関連史書の中で魅力ある史書の1つとして、唯一日本で政権交代したと書いてある史書で、665年まで倭国として扱って670年から別種の日本国だと書いている。けれど、日本書紀ではどちらも天智天皇の摂政時と即位後で、しかも、郭務悰が日本に数千人を引き連れて来て同じ国と解っているはずなのに別国としている。とゆうことは、国名を変更したけど皇帝に入ってきている情報と違うため疑っているのだろう。
そのため、倭国を紹介する 東夷伝では648年までしか倭国との交渉に入れていないとゆうことは654年以降はすでに古くから冊封体制に組み入れてきた倭国と違う、唐に敵対する倭種の国として認めているとゆうことだ。
日本書紀は647年に皇太子の死亡のような記事があって、648年には茅渟王が死亡して649年に即位可能な年齢に達した男王がいないため茅渟王の夫人の吉備姫が即位して、倭国は大混乱で外交どころでなかった。蘇我氏が631年と同様に654年に天氏に代わって外交したけれどやはりうまくいかないで白村江戦に突入して唐は蘇我氏の王朝を正式な国と認めず、倭国は670年から日本国と国名を改名した。日本は地方政権の倭国ではなく蘇我氏の日本国を継承した倭国と地方政権の天氏の倭国を統一した日本国と宣言して今までの倭国とちがう説明をしたため、中国の旧来の史書と違うし、旧来の日本国は冊封体制に入っていなかったので「多自矜大」な態度を取ったのだろう。
『舊唐書』東夷伝 倭國 日本
至二十二年 又附新羅奉表 以通起居
「日本國者倭國之別種也・・・其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉」
舊唐書  卷四 本紀第四 高宗上 永徽五年 (654年)
「十二月癸丑 倭國獻琥珀・碼瑙 琥珀大如斗 碼瑙大如五斗器」
『舊唐書』 劉仁軌傳 
「麟德二年(665年) 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅 擢拜大司憲」
『新唐書』 東夷 日本 
「咸亨元年(670年) 遣使賀平高麗 後稍習夏音惡倭名更號日本・・・使者不以情故疑焉」
『日本書紀』
大化三年十二月晦 「是日 災皇太子宮 時人大驚恠」

「多自矜大」な外交を行った責任者が大皇弟で669年を最後に出現しなくて、いわゆる壬申の乱で反乱を起こしたけれど、政権に復帰することはできず左大臣蘇賀赤兄・右大臣中臣金も責任を取らされ、天智天皇が引き続き694年まで即位した為白鳳年号も681年まで続き、天智天皇や大友皇子が死んでいたら年号は確実に変わった。
『日本書紀』
天智天皇八年(669)十月庚申《十五》 天皇遣東宮大皇弟於藤原内大臣家
天智天皇一〇年(671)四月辛卯《廿五》 
置漏尅於新臺。始打候時動鍾鼓。始用漏尅。此漏尅者天皇爲皇太子時始親所製造也。

いわゆる、九州年号は日本書紀に白雉から書かれていて、天氏の年号と考えているようだけれど、継体天皇の時代からあって、天氏の大王の生死に関係なく建元していて、継体年号を始めたのは物部氏と思われるけれど、実際はそれ以前の遅くとも垂仁天皇の時代には元号があって景行天皇が即位するとき改元している。
『日本書紀』
景行天皇元年七月己卯 「太子即天皇位 因以改元」