2017年11月29日水曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』Ⅰ

 今回は『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』から、蘇我氏が天皇だった証明と天豊財が665年に天皇だったことを論じた発表です。
1・従来説

 『法隆寺金堂薬師如来像』は福山敏男論文「法隆寺の金石文に関する二、三の問題」等の発表以来7世紀後半の仏像とされた。さらに、奈良文化財研究所は『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』の論文によって、鍍金が文字に及んでいないことから仏像作成後に刻字されたとした。銘文がいかにも造作されたと言わんばかりの発表を行い『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の内容を貶めている。仏像作成後の刻字は銘文内容に後代奉納と記述してあるので誤りではないが、像が7世紀後半との説がある中の発表は偽造説の決定的証拠としていると思わざるを得ない。仏像が7世紀後半としたのは薬師如来像が飛鳥佛ではなく白鳳佛ということ、日本の薬師信仰は天武朝以降ということ、天皇号は飛鳥池遺跡から「天皇」と記された木簡が発掘され天智朝以降の開始ということ、書風が隋唐風でその書風を使用した『金剛場陀羅尼経』(こんごうじょうだらにきょう)が朱鳥元年(686年)の年紀をもつこと、これらのことから7世紀後半天武朝以降刻字と考えられた。

2.薬師信仰

 薬師如来を説いた代表的な経典は、永徽(えいき)元年(650年)の玄奘(げんじょう)訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』(やくしるりこうにょらいほんがんくどくきょう)と、景竜(けいりゅう)元年(707年)の義浄訳『薬師瑠璃光七佛本願功徳経』(やくしるりこうしちぶつほんがんくどくきょう)だそうだが、玄奘訳がすぐに日本に流入したと考えられないこともないが政治情勢からもむつかしそうだ。そのほかに建武(けんぶ)~永昌(えいしょう)年間(317~322年)の帛尸梨密多羅(はくしりみたら)訳、大明(だいめい)元年(457年)の慧簡(えかん)訳、大業(たいぎょう)11年(615年)の達磨笈多(だるまぎった)訳が知られている。すなわち、『金剛場陀羅尼経』は達磨笈多訳以前帛尸梨密多羅訳以降の仏典をもとに書かれていることがわかり、4世紀前半から7世紀初頭に薬師信仰が入った可能性があり、『金剛場陀羅尼経』じたいも隋時代の書で、薬師如来像が白鳳時代との論を否定できるものではない
 薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主であり、瑠璃光で人々の病苦を救うとされ、医薬の仏として信仰された。しかし、欽明天皇14年553年に医学や薬草の知識を取り入れた時、医博士(くすしのはかせ)や採薬師(くすりかりはかせ)の名前が僧侶風の名前で、630年には日本人の薬師が唐に派遣されているが、惠日(ゑにち)は僧侶の名前に感じる。これらの人物が帛尸梨密多羅(はくしりみたら)や慧簡(えかん)が伝えた薬師如来を信仰していたということは十分考えられ、以降、人名に薬の文字を使っている。すなわち、薬師信仰の証明はできないが信仰されていなかったと否定にもならない。

『日本書紀』
欽明天皇十四年六月 「所請軍者 隨王所須 別勅醫博士・・・又卜書 暦本種種藥物可付送」
欽明天皇十五年二月 「醫博士奈率王有悛陀 採藥師施徳潘量豊」
舒明天皇二年八月丁酉 「以大仁犬上君三田耜 大仁藥師惠日遣於大唐」
白雉四年五月壬戌 「學生巨勢臣藥 藥豐足臣之子」

2017年11月27日月曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』 Ⅳ

銘文問題

  『江田船山鉄剣銘』は被葬者自身が文書の役人であり、中国語が堪能な可能性が高く、銘文自体も中国語読みしなければならないと考えられ、「獲」が訓の「わ」と(訓でもわと読めそうもない)は読みそうもないように思える。もちろん、無理やり上殖葉と読まなくてもよいのだが、1人の候補として上殖葉は有力に感じる。『稲荷山鉄剣』の銘文は日本書紀の語順と異なっていて日本人が普通に読んでいける漢文のようで、『江田船山鉄剣銘』文は漢時代から中国の冊封体制下の倭の官僚になれる能力を持った人物の銘文のようで、「獲・鹵・大・王」の文字が書かれているが文化圏の相違を感じる。「大王奉」も正確な漢文で書かれたと言われる雄略紀に大王に奉献したと「大王奉獻臣」と記述されて臣と女が七區を大王に奉献していて、現在の名詞の奉職の使い方と同じと考えられないだろうか。大王の世なら「大王之世」と、前に付けるなら「治世」が通常の使用方法で、「天皇之世奉日神祀」と「之」を付け「世位」と皇太子の位を継いで東宮にいる。世を王名にせず世の中としても論理に齟齬をきたすわけでもないが、同一時期の「世」を世の中とするなら、わざわざあいまいな「世」を使わず「時」を使えばよく、継体紀と無関係と決めてしまって良いものだろうか。そして、継体紀は『新唐書』の用明天皇=「タリシヒコ」から2代ずれて宣化天皇の頃の筑紫君葛子の長男の火中君の内容の可能性がある。
『日本書紀』
雄略天皇即位前紀 「方屬乎臣。伏願大王奉獻臣女韓媛與葛城宅七區。請以贖罪。天皇不許。」
継体天皇元年正月丙寅 「世云 勿論貴賎 但重其心 盖荒篭之謂乎 及至踐祚 厚加荒篭寵待」
欽明天皇十七年正月 「別遣筑紫火君 百濟本記云。筑紫君兒。火中君弟。」
用明天皇即位前紀 「自此天皇時逮乎炊屋姫天皇之世奉日神祀。」
用明天皇元年正月壬子朔 「是皇子初居上宮。後移斑移斑鳩。於豐御食炊屋姫天皇世位居東宮。」

『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』のまとめ

 大王の世の中と読むと誰から地位を得たのかわからない、「世」を王名としても中国語と齟齬しないことから大王世が被葬者に地位を与えた人物だとわかる。近畿天皇が滅亡した時の大王葛子が中国の冊封体制下の小国から日本国内で君という中心的勢力にのし上がり、糟屋郡は盗られたが筑紫・火・豊を奪われた様子がなく屯倉の物資の献上を免除されて、これら三国の領有を日本国(秦王国)から認められた王となったと考えるべきなのだろう。その証拠が磐井は中国に王と呼ばれたけれど日本国では筑紫国造であったのが葛子は筑紫君となっている。負けて出世しているのだから葛子と新しい天皇は同じ穴の狢で、共に国盗りしたと考えるべきで、日本の天皇・皇太子・皇子ともに死ぬの記事によって新しい王朝が始まったがそれは葛子の王朝ではなく、葛子は近畿とは別に九州中心の王国の大王となった。継体紀では、「世人謂」ではなく云(うん)と特定な人物や書が述べていることを表した「世云」の初代大王葛子の跡継ぎ「世」が践祚し大王となって 『江田船山古墳』の主を事典曹の役職に就任させたと考えるべきで、継体天皇は皇嗣ではないので践祚できない。日本国すなわち秦王国と同盟関係の王となって中国の冊封体制から抜け、この結果隋との対等外交となった思われる。
現代の古代史研究上では日本書紀が間違いというのは簡単なのだろうが日本書紀に書いてあることを間違いでないと論証をすることは不可能だ。一般の古代史研究は記紀は間違いという観点から出発して、持論に合えば正しいとしているが、私は記紀は正しいが矛盾があればその原因を調べるという立場だ。ただ、筑後を含めて肥後の地では磐井の乱以前は弥生末の免田式土器や近畿系の埴輪や吉備の土器が出土している。福岡平野では須玖式・西新式土器や須恵器の広がりは福岡平野に限定されていたようだが、磐井の乱以降に牛頸窯跡群のように須恵器が肥後にも広まっている。九州王朝が卑弥呼時代から全土を統一していたのなら出身地の九州の須恵器の広がりに矛盾を感じる。従って、いわゆる九州王朝は磐井以前まで福岡平野以北の王国だったと言わざるを得ないし、日本書紀は筑後川流域以南は大分の京都郡から出発した王の領域と記述している。そして、皇嗣ではない継体天皇がどうして血縁による正当な皇位継承である践祚ができるのだろうか。また、福岡平野にどうして三角縁神獣鏡があり、前方後円墳があり、矛と剣の文化圏の違いはどう説明できるのだろうか。九州が近畿の影響下であったり、支配されていることがあっても逆の九州王朝が7世紀半以前に日本全土を支配したということは有り得ない。もし、九州王朝と呼ぶとすれば大宰府に条里をもつ都市を作った7世紀後半に畿内と同じ文化圏になったとき日本全体の首都になったと言える。

2017年11月24日金曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』 Ⅲ

時代背景

 肥後の近辺で大王と呼べるのは継体天皇以前なら「古田史学」で論じられている「玉垂命」の支配する地域で磐井以前には畿内系土器が出土していることからも畿内天皇家の配下だ。「稲員」家系図には初代物部保連と物部氏でつらと呼ぶそうだが「連」という「氏姓」がつけられていて、天皇と呼ばれていたと古田史学は言っている。磐井が豊国や火国を侵略した磐井の乱では天皇が物部大連麁鹿火に九州を与えると言っているが、本来天皇は磐井を配下の国造と言い、少なくとも磐井が支配する筑紫(福岡平野)以外を既に支配している。支配地に侵略されてはいるが、もともと本州は天皇の支配下で、この言葉は近畿天皇家の天皇や太子を殺害して滅亡させた人物の言葉である。継体紀を書いた人物は自分が継体紀から天皇だったとして書いたのであり、物部麁鹿火が勝利して葛子に九州を与えたと考えるべきだろう。物部麁鹿火が九州と無関係なのに空手形で九州を与えると言っても信用されず、物部麁鹿火が自領を与えるから協力しろとしたと考えるべきで、以前天皇だった「玉垂宮」の支配者が物部麁鹿火だった可能性があり、再度天皇と呼ばれることになった。近畿天皇家が滅亡して磐井の墓が八女に造られるということは、「玉垂宮」の人物と協力して葛子が動いて糟屋郡は盗られてしまったが、筑後・肥後を得たと考えるべきだろう。結果から見れば、近畿王朝が滅亡して九州を得たのは葛子だったということは、物部麁鹿火が葛子に九州を、自分が本州を盗る条件で連合して近畿王朝を滅亡させたのであり、本州を盗ったのはおそらく物部麁鹿火だったということである。(物部麁鹿火大連薨536年を古事記の継体天皇在位43年目とすると元号継体元年517の前年は日本書紀継体23年で巨勢男人大臣薨と無関係とは思えない)ここでも、日本では力が有れば天皇になれるということでは無い様で、物部という家柄が日本をまとめるための必須の条件だったと思われる。
『日本書紀』
継体天皇廿一年夏六月壬辰朔甲午
「於是筑紫國造磐井陰謨叛逆 猶豫經年 恐事難成恒伺間隙 新羅知是 密行貨賂于磐井所 而勸防遏毛野臣軍 於是磐井掩據火豐二國」
継体天皇廿一秋八月辛卯朔  
「恭行天罸 天皇親操斧鉞 授大連曰 長門以東朕制之 筑紫以西汝制之」
継体天皇二二年十二月 「筑紫君葛子恐坐父誅 獻糟屋屯倉 求贖死罪」

火君

 葛子が肥後を得たことで、安閑天皇以降は肥後の支配者は葛子やその末裔の可能性が高く「火君」と呼ばれたと考えるべきで、欽明天皇紀には筑紫火君は筑紫君(葛子)の子で火中君の弟だと書いているように読める。欽明紀で活躍しているのだから宣化天皇時代の子で古事記に出現しない上殖葉皇子が火中君と想像される。上殖葉皇子は亦名で椀(まろ)子といかにも葛子と名前の付け方が類似している。しかも、欽明天皇の時に立太子してそれ以前は立太子しておらず、この立太子の時に、欽明天皇の長男以外が太子になった。日本書紀の時計では葛子とその長男火中君がそれまで大王だったのであり、筑紫火君を立太子して、葛子の長男の火中君は上殖葉皇子がその候補になり得る。(安閑天皇の1人は葛子、宣化・欽明天皇の1人が火中君?)
『日本書紀』 
継体天皇元年正月丙寅 「宣化天皇元年三月己酉 次曰上殖葉皇子 亦名椀子」
欽明天皇十七年正月  「別遣筑紫火君 百濟本記云 筑紫君兒 火中君弟」

江田船山』の被葬者の主人

 『江田船山』の被葬者は「玉垂宮」の官僚か「筑紫火君」の官僚かを考えると、「稲員」系図には「王・大連」と記述されていないので、自称大王とは言いにくく、しかも玉垂君でもないため銘文の大王とは整合性を持っていない。それに対して、「火中君」の場合には磐井の墓と言われる岩戸山古墳が近くにあって、葛子が磐井の墓を新しい領地に築造したことは大いに考えられ、この地域が火中、すなわち肥前と肥後の中間でピタリと符合する。従って、江田船山』の被葬者の主人が肥後北部に居た「火中君」自称火中大王の可能性が非常に高い。

2017年11月22日水曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』 Ⅱ

大王問題

 ここで問題なのが「大王」という地位だが、鉄剣に共に「大王」と記述されていて、「大王」が関東と肥後に存在する。物部氏や中臣氏の系図を見ると、中臣烏賊津使主が大臣、中臣勝海(かつみ)連が大連を名乗ったりするように、本来は朝廷の下では臣・連のはずが系図では大臣・大連と書かれている。このように、支配地では自分が一番偉いと自称していたようだ。従って、毛野君も筑紫君も支配地域では「大君」すなわち「大王」と自称していたと十分考えられ、とくに、国造り磐井が天皇に反抗しているところを見ると、更に上位な各地の君は独立した王権で同盟を結んでいる程度で、文化的にその影響下にあると考えた方が良いようだ。そして、大王が各地に存在するということはそれより上位の人物は既に天皇と呼ばれていたと考えるのは当然で、百濟本記には天皇が記述されたとしている。そして、同様に中央の大臣・大連も同様で、各地で大臣・大連が多数いたのなら、その上位の大臣・大連は天皇と呼ばれていたと考えるべきだ。

治天下問題

 「治天下」という文字は日本書紀内では「雄略天皇二三年八月」以降に出現して、この記事は「卷第十四」で、この巻から純粋な漢文で書かれ始めている。「白雉元年二月」までの「治天下」で純粋な漢文が終わり、持統紀の「治天下」は純粋な漢文から外れる。すなわち、雄略天皇から天智天皇の時代の文なら治天下」は純粋な漢文の可能性が高く、治天下」の後に王名や文を続ける場合は敏達天皇紀のように「○○大王所以治天下世」が正しい文言で、文書を扱う家系ならこのように書くべきだろう。従って『江田船山鉄剣』の読み方は天の下を治めになった大王世から奉った役職が事典曹でその人物の名は「ムリテ」とゆうことではないか。大王の世(よ)では誰から地位を得たかと言うことを書かず、片手落ちで、事典曹という地位を与えたのが大王とすればよく理解ができる。
『日本書紀』 
継体天皇元年正月丙寅 「世云 勿論貴賎 但重其心 盖荒篭之謂乎 及至踐祚 厚加荒篭寵待」
雄略天皇二三年八月丙子 「堪成朕志。以此共治天下。朕雖瞑目。」
顕宗天皇即位前紀 「於市邊宮治天下、天萬國萬押磐尊御裔、僕是也。」
敏達天皇十二年是歳 「日羅對言。天皇所以治天下政。要須護養黎民。」
大化元年七月戊寅 「當遵上古聖王之跡而治天下。復當有信可治天下。」
大化二年二月戊申 「朕前下詔曰。古之治天下。朝有進善之旌。」
白雉元年二月甲申 「陛下以清平之徳治天下之故・・・詔曰。聖王出世治天下時。天則應之。」
持統三年五月甲戌 「在昔難波宮治天下天皇崩時」
   『 船王後墓誌』
乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝」
 『法隆寺金堂薬師仏光背銘』
「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳 次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大 御身病太平欲故將造寺薬師像作仕奉詔然 當時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天皇及」
 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』 
「櫻井等由羅宮治天下等與彌氣賀斯岐夜比賣命生年一百歳次癸酉」

古田史学で天皇の名前を遺物に書かないとの指摘があったが、この大刀の大王は天皇ではなく実際は筑紫君などの「王」の尊称で位取りとしては日本国としては天皇の多くの皇子たちと同列の地位あたる臣下なので、問題はない。

2017年11月20日月曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』 Ⅰ

従来説と江田船山の出土物の問題点

 『江田船山』の銀象嵌の刀は『稲荷山鉄剣』が発見されて以降、大王名を「ワカタケル」と読んだために、 『江田船山』の大王名も「ワカタケル」と読んで雄略天皇の「大長谷若建 」に当てた。しかし、古田氏は稲荷山鉄剣』の主は稲荷山近辺の志木を支配する王の墳墓で雄略天皇の宮は長谷朝倉宮と斯鬼宮ではないことや、左治天下は天皇の近親者が王のそばで補佐するものだとした。金象嵌という位取りからしても、大王の近親者に合致し、この鉄剣の主は墳墓の主ではなく他に真の主が葬られているようだ。まさに合葬してもらえる人物が墓の主を佐治し、鉄剣の内容が生き生きしてくる。従来、『稲荷山鉄剣』が発見される前までは江田船山』鉄剣も確立した説が無かったのだから古田氏の証明でよく解らない人物の配下の剣もしくは、『稲荷山古墳』の配下の人物となる。 しかし、No2の配下が斯鬼宮に常駐しながら、祐筆のような官僚が遠く離れた九州と言うのは理にかなわず、祐筆は王の直近にいてこそ活躍できる。すなわち、江田船山』古墳の主は肥後北部に仕える王がいたと考えるのが妥当である。さらに、出土須恵器の年代基準が『稲荷山鉄剣』の辛亥(かのとい年471年を基準にしており、それに対して、531年の説もあり、さらに後ろの年代も日本書紀の崇峻天皇の飛鳥寺の記事を基準にしている。しかし、畑中英二氏によると豊浦寺の創建瓦作成の隼上(はやあがり)瓦窯跡が杯Gに注目すると640年頃開始とわかり飛鳥寺建造が後ろにずれた。狭山池築造時樋菅コウヤマキの年代616年が確定し、それ以降の狭山窯から基準土器が出土して、基準の高蔵寺窯跡には隋以降の硯が出土している。全体の編年はもともと古墳開始を卑弥呼に無理やり合わせるためだったので編年が後ろに移動する。さらに、江田船山』古墳建造時ころから円筒埴輪の型式が変わり、近辺の地域の土器の空白が突如出現して、さらに江田船山』古墳の2系統(加耶系から百済系へ)の時期の副葬品の存在が、出土埴輪から近畿に影響されていた地域が新しい勢力の支配に変わったこと、さらに、系統の土器の空白は前の系統の編年も間違いであることが考えられる。そして、決定的な出土遺物が心葉形垂飾付耳飾で523年に死亡した百済武寧王の陵から出土した垂飾付耳飾と同時期の物が出土して、大王の配下という位取りから武寧王より前は考えられず、古墳建造年の530年代は十分考えられる。
『稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣』 
辛亥年七月・・・今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作」
『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』 
 「治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸」

須恵器の変遷

TG232 231)型 式(上町谷)→ON231型式(=TK73型式古段階)→TK73→TK216→(ON46)→TK208→
TK23(江田船山、稲荷)→TK47(稲荷)→MT15(榛名山噴火)→TK10→MT85→TK43(高蔵寺・太満池・狭山池)
TK209(飛鳥寺・太満池・狭山池)→TK217(飛鳥Ⅰ期640-70)→TK46→TK48→MT21
TK23が従来は5世紀末としたが6世紀初め530年頃、TK43が従来は6世紀末が7世紀初めの620年頃となる。

2017年11月13日月曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 俀国

 倭国は筑後川北岸・福岡平野より西が領域で、倭国建国時に甕棺墓から木棺や石棺に出土物が変わり、5世紀までは横穴石室や須恵器は福岡平野に限定されていたのに対し、銅鐸・三角縁神獣鏡・前方後円墳、肥後の彩色古墳を受け入れていた。6世紀になると横穴石室や須恵器が肥後方面に広がったけれど、丁度そのころ筑紫国造の磐井が火・豊国を侵略している。そして、磐井は殺害されて子の葛子が糟屋の屯倉を献上して許されたけれど、負けたはずの葛子は出世して筑紫君になった。そして、その継体天皇の記事に九州と本州の分割、すなわち分割して物部麁鹿火が九州を取れと相談しているのに葛子が盗ってしまった。これは天皇の言葉ではなく物部麁鹿火が本州を取り葛子が九州を取れという相談としか結果を見ると考えられない。物部麁鹿火が継体天皇と考えると、応神天皇5世の孫、すなわち扶桑国の天皇が応神天皇と書いていることから、神倭国最後の天皇も同世代の応神天皇(最後の大臣・最初の大連の大新河)で5世の孫と記述しているように大倭国の子孫と書いている。そして、その、麁鹿火から継承した九州の王朝・倭国王朝は大倭の名前を受け継いで「俀国」と呼び、麁鹿火は先祖の宇摩志麻治が建国した神倭国の神を使って「秦王国」としたと思われる。
『日本書紀』
継体天皇二一年六月甲午 「於是筑紫國造磐井陰謨叛逆・・・於是磐井掩據火豐二國」
継体天皇二一年八月辛卯朔 「天皇親操斧鉞 授大連曰 長門以東朕制之 筑紫以西汝制之」
継体天皇二二年十二月 「筑紫君葛子恐坐父誅 獻糟屋屯倉 求贖死罪」
継体天皇即位前紀 「男大迹天皇 更名彦太尊 譽田天皇五世孫 彦王人王之子也」

「俀国」王は筑紫君葛子・火中君・筑紫火君と秦王国では呼ばれたが、「俀国」王は自ら「大王」と呼び、新しい王朝の隋に対しては同等の立場と自ら皇帝と呼んだ。そして、天皇の名前があるのにもう一人の天皇の名前が解らないのは片手落ちで、すなわち、タリシヒコ・法興帝とその弟で皇太子のリカミタフツリ・聖徳法王で倭国の伝統の皇太子イコール天皇と同等だ。王と皇太子は一心同体・ワンセットの天皇で、長男でない場合立太子を行い、欽明天皇の立太子は筑紫火君で欽明天皇29年は聖徳太子の死後の推古29年のことで、長男の彦人は長男でありながら水派宮に出ているので立太子し、推古元年の立太子は聖徳太子・上宮法皇のことだ。
『日本書紀』
欽明天皇十五年正月甲午 「立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」
欽明天皇十七年正月 「別遣筑紫火君 百濟本記云 筑紫君兒 火中君弟」
敏達天皇即位前紀 「廿九年立爲皇太子」
用明天皇二年四月丙午 「遂作太子彦人皇子像與・・・歸附彦人皇子於水派宮」
推古天皇元年四月己卯 「立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子」
『隋書俀国伝』
「俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌・・・俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟・・・名太子為利歌彌多弗利」
『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』
「法興元丗一年歳次辛巳十二月・・・上宮法皇枕病弗悆・・・翌日法皇登遐」

俀国は606年に隋と決裂して中国との冊封体制から外れ、火君・火中君に対する、おそらく豊君すなわち蘇我氏が倭国として中国の冊封体制に組み入れられ、大業4・6年、 貞觀22年と647年まで訪中し、670年国名を日本に変更している。
『隋書』
俀国伝 「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢・・・復令使者随淸來貢方物 此後遂絶」
帝紀第三 煬帝上 
「大業四年 三月・・・壬戌,百濟、倭、赤土、迦羅舍國並遣使貢方物。六年春正月 己丑,倭國遣使貢方物。」
『舊唐書』 「貞觀・・・二十二年 又附新羅奉表 以通起居」

そして、俀王は物部氏(秦王国)を滅ぼしたにもかかわらず彦人が蘇我氏に殺害されたりして天皇になることができず、俀王はナンバー2の地位に甘んじていた。倭王の蘇我氏が百済にテコ入れしたため白村江の大敗戦となり、乙巳の変で俀王は皇位を取得し、壬申の乱で名実ともに日本の天皇となり大倭国と秦王国が使用していた日本国を国名としたが、唐の進駐で筑紫都督府が実権を握っていたため、改元できなかった。
次周からは秦王国と俀国と倭国の関係を考古遺物から考えるため古田史学で発表した論文と発表を拒絶(発表者が多い・発表するなら来年度から会員になれ・会員は古田史学から逸脱するな)されたので、発表のため準備した論文の抜粋を発表する。

2017年11月10日金曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 倭国

 若御毛沼は紀元前178年に天神の天照大神を祀って猪野に倭国を建国し、事代主を祀った神を並べて祀ることで国を安定させ、国を安定させたことで紀元前88年に奴国・不彌国に進出した。しかし、緩やかな同盟関係だったため、魏志倭人伝で官位が統一できていなかったと考えられる。
『日本書紀』
神武天皇四年二月甲申 
「我皇祖之靈也自天降鑒光助朕躬・・・可以郊祀天神用申大孝者也・・・用祭皇祖天神焉」
崇神天皇四年十月壬午 「今朕奉承大運 愛育黎元 何當聿遵皇祖之跡 永保無窮之祚」
崇神天皇六年 「天照大神 倭大國魂二神 並祭於天皇大殿之内」
崇神天皇十年(癸巳前88)九月甲午 吉備津彦遣西道。
『三国志』
「對海國其大官曰卑狗副曰卑奴毋離・・・一大國官亦曰卑狗副曰卑奴毋離・・・伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚・・・奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴毋離・・・不彌國百里官曰多模副曰卑奴毋離」

西暦88年に大倭国が周芳から八女・浮羽まで熊襲を討伐し熊襲を筑後川北岸に押し込め、この熊襲が拘奴国と筑紫の東の国が筑紫の南の国に縮小した。従って倭国は熊襲に対抗するため、西暦125年に猪野・山田から室見川流域に都を遷し最前線で熊襲と対抗し、西暦200年には、伊都国・末盧など九州の日本海岸西部に進出し、大宰府・朝倉まで支配した。しかし、筑後には対応しきれずに、「漢委奴國王」印を授かって冊封体制に組み入れられていて、安帝にも朝貢していたので、漢の後継の魏に泣きついたのが卑弥呼で、それが成功して「張政」が派遣され、安定させた。三国史記の新羅の資料は日本書紀と同じように当てはめ間違いがあって確定できないが、阿達羅尼師今20年の卑弥呼記事は奈解尼師今の頃の話で奈解尼師今十三年記事が神功皇后の新羅遠征と考えられる。戦闘状態の時に女王が対戦相手の国を訪問するなど有り得ない。卑弥呼は209年に24歳で即位し255年崩じ、3年間弟の長男が王位を継承したけれど治まらず、卑弥呼に王位を譲った本家の媛の壱与が259年に13歳で即位し、卑弥呼の都は志賀島の対岸の汽水域にあり、壱与の都は香椎宮だ。
『三國史記』 卷第二 
阿達羅尼師今 「二十年 夏五月 倭女王卑彌乎遣使來聘」
奈解尼師今 「十三年 春二月 西巡郡邑 浹旬而返 夏四月 倭人犯境 遣伊伐飡利音 將兵拒之」
『日本書紀』
景行天皇十二年 「到周芳娑麼・・・故號其處曰京也」
景行天皇十八年 「故八女國之名由此而起也 昔筑紫俗號盞日浮羽」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年 
「皇后欲撃熊鷲而自橿日宮遷于松峽宮・・故時人號其處曰御笠也・・至層増岐野即擧兵撃羽白熊鷲而滅之」
『室見川銘板』 「高暘左王作永宮斎鬲延光四年五」
『後漢書』 
「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」
「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」
『三国志』
「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」
「倭女王卑彌呼與狗邪國男王卑彌弓呼素不和・・・遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之」
「十二年 春 王謂臣下曰 倭人屢犯我城邑 百姓不得安居 吾欲與百濟謀 一時浮海 入撃其國」

倭国は壱与の頃から百済とは友好関係のようだが中国の冊封体制に入らない大倭国と友好関係の新羅・高句麗を侵略し、大倭国が崩壊後は中国の官位を得るため一層侵略に力を入れ、409年から賛・438年から珍・443年から斉・451年から興・477年から武が王となって猟官活動をして扶桑国より優位に立とうとしたのだろう。珍以降は計算と朝貢の年があっていて賛の即位時、腆支王5年409年と同時の訪中考えられる。
『三國史記』
百済本紀第三 腆支王 「五年 倭國遣使 送夜明珠 王優禮待之」
『宋書』
元嘉十五年 是歳 武都王・河南國・高麗國・倭國・扶南國・林邑國並遣使獻方物
元嘉二十年  是歳 河西國・高麗國・百濟國・倭國並遣使獻方物
元嘉二十八年 秋七月甲辰 安東將軍倭王倭濟進號安東大將軍
昇明元年 冬十一月己酉 倭國遣使獻方物

2017年11月8日水曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 天氏の始まり

 天氏の歴史は古事記や先代旧事本紀に書かれていない、亦は共通な日本書紀の内容が天氏の神話と考えればよい。従って、常立尊を祀った地域が天氏の出自で、それ以降、伊弉諾より前の神はそれらの神話を上書きしたことを意味している。伊弉諾以前の神々は支配・被支配をまとめた神々で、伊弉諾すなわちイザナ岐の神話から日本の建国神話が始まったとゆうことだ。イザナ岐が神の子ヒルメを産んだ話に多くの氏族の神々を付け加えた神話が日本書紀の神話だ。そして、国産みも磤馭慮嶋を産んだのが始まりだけど、この島の語幹は「コロ」島で、大八島の隠伎之三子島を別名を天之忍許呂別と呼んでいる。いかにも「コロ」から分かれた島でそれが「隠伎之三子島」と言っているけれど隠岐の一番大きい島後を入れていない。その書いていない島後が「隠伎之親島」でまたの名が「天之忍許呂」と理解でき、この語幹も「コロ」となって「磤馭慮嶋」は隠岐の島の島後とゆうことになる。
『日本書紀』
開闢之初。洲壞浮漂。譬猶游魚之浮水上也。于時天地之中生一物。状如葦牙。便化爲神。號國常立尊。
天之瓊矛、指下而探之。是獲滄溟。其矛鋒滴瀝之潮。凝成一嶋。名之曰磤馭慮嶋。

隠岐の島の女王の支配下の宗像の姫と速素戔嗚の子の正哉吾勝勝速日天忍穗耳が天氏の始まりとなり、薩摩と火国と天国の支配者を意味し、官位も耳と大国の官位だ。これは、神武天皇が事代主の娘を娶ったと書いたように、事代主の支配領域が薩摩・火・天国だったと考えられる。そして、天国は古事記や先代旧事本紀で出現する「天」の別名を持つ島々「六合」だ。
『古事記』
次生隱伎之三子嶋、亦名天之忍許呂別・・・次生伊伎嶋、亦名謂天比登都柱・・・次生津嶋、亦名謂天之狹手依比賣。
『先代旧事本紀』
次姫島謂天一根 次血鹿島謂天之忍男 次両児島謂天両屋
『日本書紀』
閉磐戸而幽居焉。故六合之内常闇而不知晝夜之相代。

そして、忍穗耳の子の天津彦彦火瓊瓊杵尊すなわち対馬の長官で火の国の伊都に天降ったのが「瓊瓊杵」で、糸島には高祖山山麓に高祖神社・芥屋に太祖神社が現在もあり、糸島で建国だ。瓊瓊杵の子の彦火火出見尊は豊国の媛の豐玉姫を妃として氏の付かない自称天皇の立場すなわち、元天皇家の初代と言える。火火出見の子の彦波瀲武草葺不合尊と実質は草葺と不遇な立場だったが彦波瀲武草葺不合の子の若御毛沼が皇太子の手研耳とが糟屋郡の篠栗に紀元前188年に侵入し、紀元前181年に建国した。篠栗には太祖神社があり建国があったことが解るが、この地域は大国主に敗れた事代主の領域だったため、その子孫の媛の五十鈴媛の子たちが現在の天皇家の血筋になっている。皇太子の手研耳は領地の媛の子でなかったので、長官の地位は得られたが王家の血筋にはなれなかったようだ。この地域は、もとも甕棺墓が行われていたけれど、最初に甕棺墓が消失していく地域で、考古学的にも対応している。建国の年数は、日本書紀が天皇家の時計で記述してあり、それは、天皇家は宮の始まりが元年で、仲哀天皇以前は立太子が宮の始まりで天皇の元年となることを証明した。その結果が建国・紀元前181年だった。紀元前86年に大倭国が東鯷国を滅ぼし、孝昭天皇の頃、天皇家も大倭国を建国して天足彦と名乗り間に事代主の国の狗奴国があり大倭国と共存できた。しかし、西暦82年に狗奴国が筑後北部に追いやられ倭国が狗奴国とぶつかる事になった。建武中元二年西暦57年に、「漢委奴國王」の印綬を受けて中国の冊封体制に入った倭国は晋に泣きついた。委奴は猪野皇大神宮の猪野で倭国は猪国のことで、後漢書の「邪馬臺」国は山田猪国で山田や斎宮のある場所だ。
『日本書紀』
崇神天皇四年(丁亥前94)十月壬午
惟我皇祖。諸天皇等。光臨宸極者。豈爲一身乎。蓋所以司牧人神經綸天下。故能世闡玄功。時流至徳。今朕奉承大運。愛育黎元。何當聿遵皇祖之跡。永保無窮之祚。
景行天皇十二年(壬午82)九月戊辰  到豐前國長峽縣。興行宮而居。故號其處曰京也。
『後漢書』 卷八十五 東夷列傳第七十五
國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王
『三国志』
南至邪馬壹國女王之所都・・・其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王

2017年11月6日月曜日

最終兵器の日本古代史 現天皇家の王朝

 これまで、日本の古代史を俯瞰してきたけれど、天智天皇が日本を復活させて天皇になったが、璽の移動があった孝徳天皇のときから「大王」から皇位に就いたと書かなかった。すなわち、孝徳天皇の即位は天智天皇が書いたため、もともと皇位は自分たちのものだったと言っているとゆうことだ。仁徳天皇の時代から天皇の下に大王がいて、皇太子が即位しない場合は正直に大王が皇位に就いたと書いていることをずっと書いてきて、葛城圓・平群眞鳥・巨勢男人・物部麁鹿火・物部守屋・蘇我馬子まですべて大王が即位して天皇になった。それが、日本書紀を書いた人々は孝徳天皇からは最初から大王ではなかく、その皇位が持統天皇の時璽の移動はあったけれど元正天皇の時代まで引き継がれていると述べている。
『日本書紀』
仁徳天皇前紀
「時太子菟道稚郎子。讓位于大鷦鷯・・・仍諮大鷦鷯・・・大王者風姿岐嶷・・・我則爲臣之助耳。大鷦鷯尊對言」
仁徳天皇元年(癸酉313)正月己卯《三》 大鷦鷯尊即天皇位。

すなわち、日本書紀に書かれている天皇以外の王は王が複数出現した時から王の中の王である大王と呼ばれるようになったとゆうことだ。日本書紀の最初の狹狹城山君は天皇の配下の臣や国造とは違う独立した同盟関係の王のため君と書いたのであり、王も君も読みは「きみ」で全く変わらず、後で漢字を使い分けたに過ぎない。そして、天皇自身も王ではなく大王と呼び始めたのだろうけれど、倭王のように国造が王・君と呼ばれるようになったため、天皇自身を天皇と呼び元の王・君は大王と呼ぶようになったと思われる。
『日本書紀』
孝元天皇七年(癸巳前208)二月丁卯 兄大彦命。・・・狹狹城山君。筑紫國造。越國造・・・凡七族之始祖也。

その、直接支配を受けない大王のなかにいたのが現天皇家で、倭国王の筑紫國造の磐井の子の葛子が出世して筑紫君となって、扶桑国を滅ぼした新しい朝廷と同盟関係を結んだようだ。筑紫君は麁鹿火の地盤である筑後・肥後を筑紫君に与えて麁鹿火の旧国名の大倭を名乗らせて隋書では「俀国」と書いた。そして「俀国」と筑紫王の蘇我氏の「倭王」が「秦王国」を破ったけれど、「俀国」の皇位継承などの隙に、おそらく、「俀国」の代わりに中国と交流したのが「倭国」だ。筑紫・豊国の実力者の蘇我氏が俀国王の暗殺などで実権を握って「倭国」を名乗った王朝を「秦王国」に代わって樹立したと推理でき、そして、元天皇家が蘇我氏から政権を奪った。旧唐書は「倭国」と「日本国」を別国と記述していて、白村江の敗戦の酋長と665年に会っているけれどこの時も「倭国」と書いている。唐と戦ったのは倭と言っているのに孝徳天皇と同じ王朝に対して670年から友好国と寛容になれるのだろうか。通常、白村江で戦った相手には責任を取らせてから友好関係となれ、実際に対戦相手は倭国で、新しい日本国は倭国を併合したと記述している。
『隋書』
隋書俀国伝  「俀国・・・則魏志所謂邪馬臺者也・・・大業三年・・・復令使者随淸來貢方物 此後遂絶」
帝紀第三 煬帝上 「大業六年 己丑 倭國遣使貢方物」
『旧唐書』
東夷伝 倭國 日本 「日本國者倭國之別種也 以其國在日 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 
              改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」
劉仁軌傳 「麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅 擢拜大司憲」

そして、壬申の乱によって蘇我氏は連子の家系を残して滅び、名実ともに蘇我氏の王朝は潰えたけれど、改元する力は新しい王朝に無かったことに変わりがない。さらに、持統天皇の長男草壁皇子が天智元年668年に生まれていて681年に皇太子になり年は13歳で適齢期だが壬申の乱や同盟の記事は草壁皇子の話とは思えない。このように多くの矛盾が有り、以降に現天皇家の歴史を考えていく。
『日本書紀』
天武天皇元年八月甲申 則重罪八人坐極刑・・・左大臣蘇我臣赤兄・・・及子孫・・・蘇我臣果安之子悉配流
天武天皇八年(679)五月乙酉
則草壁皇子尊、先進盟曰、天神地祇及天皇證也。吾兄弟長幼、幷十餘王、各出于異腹。然不別同異、
天武天皇十年(681)二月甲子《廿五》 是日。立草壁皇子尊爲皇太子。
持統天皇即位前紀 天命開別天皇元年。生草壁皇子尊於大津宮。

2017年11月1日水曜日

最終兵器の日本古代史 辰国


 辰国は朝鮮南部にあったとされ、漢の頃に滅亡し後を辰韓が継いだと言われるが、漢書に辰国が倭種と記述されていないため、また、外交的配慮から無視していた。しかし、かなり後代の史書で原本が見れないため、無視していた『契丹古伝』をフェィスブックの「友達」から進められてネット上にあった『契丹古伝』を読んでみたら、原本でないので正しい内容か解らないが辰国が記述されてしかも漢と敵対しておりいかにも日本列島の話の様相だった。辰国は「堯・舜」の頃の建国の契丹より建国が古く、朝鮮は殷の孫と書きながら辰国は「姻」と書いているが、その血縁がどこからか書けない、契丹建国より古くて解らないようなので、おそらく、文化程度が近い程度の表現と思われるが、殷と同種とは記述されていない。
「sazanami.sitemix.jp」の原文を写させてもらったが、読み下しや訳は私の自己流です。
『契丹古伝』
「寧識堯與舜者東族翅報也・・・蓋辰者古國。上代悠遠也。 傳曰。神祖之後。・・・與殷爲姻。・・・先是弁那有二汗落。・・・伊逗氏者殷密矩王孫・・・」

そして、漢のころには辰国は東西に分国し境界は海おそらく関門海峡で東の辰国は朝鮮半島の山と海を盾にして漢に勝ち、西の分国と漢の連合軍にも勝利したと記述されているように私は解釈できた。
『契丹古伝』
「辰以蓋馬大山爲固。以奄淥大水爲城。拒漢、碎破其眞敦之志。・・・漢寇方薄、・・・爲辰守郭・・・以掣漢。」

日本書紀には新羅の王子「日槍」が人質ともとれそうに思えたり、「神国聖王」と呼んだり、新羅の建国に倭人が関わったりと良く対応している。それに対して、中国史書には、朝鮮での倭人を無視し、倭国の東方を倭種と呼ぶだけ、倭国を支配したのなら書かないはずがないので、倭国を冊封体制に組み入れて共同で辰国と戦い勝てなかったと記述されていると解釈できた。ただ、不明なのはどうして辰韓の前が辰国と漢は記述したのだろうか。史記を記述した頃に辰国が朝鮮に有ったのなら、まだ4郡設置前なのだから辰国と戦う前であるにも拘らずだ。私は、辰韓の地域が辰国の影響下にあったことを示したのではないかと考え、新羅の伝説とまさに合致している。
『日本書紀』
神功皇后摂政前紀 「新羅王遥望以爲・・・吾聞。東有神國。謂日本。亦有聖王」
『三國遺事』
「第八阿達羅王即位四年丁酉 東海濱有延烏郎・細烏女 夫婦同居 一日延烏歸海採藻 忽有一巖 一云一魚  負歸日本國人見之曰 此非常人也 乃立爲王 按日本帝記 前後無新羅人爲王者 此乃邊邑小王而非真王也」
『三國史記 卷第一 新羅本紀第一  始祖赫居世』
「遣瓠公聘於馬韓 馬韓王讓瓠公曰・・・瓠公者 未詳其族姓 本倭人 初以瓠腰 渡海而來 故稱瓠公」

『三国史記』にも『三国遺事』にも『契丹古伝』の影響が無いが、一つ不明なのが『三国遺事』の「延烏郎」記事のみ「日本」と記述してそれ以外は「倭」と記述して、「倭」はいつも悪者で、「倭」と「日本」は別者ととらえている。すなわち、新羅の建国は西の「倭」ではなく東の「日本」と感じさせてしまうし、日本書紀での新羅との関係が「日本」との関係に思われる。そして、もし「辰国」が朝鮮王朝ならそれを『三国史記』や『三国遺事』が書かないはずがないし、朝鮮は殷王朝の流れをくむことを誇りとしているが、朝鮮王朝が「堯・舜」より古いのならそれを誇らないはずがない。
『三國遺事』
「第八阿達羅王即位四年丁酉。東海濱有延烏郎細烏女。夫婦同居。一日延烏歸海採藻。忽有一巖負歸日本」

『契丹古伝』は後代史書のため、それより前の史書の影響があり、即座にすべて真実とは言えないが、『契丹古伝』が記述された時期にはこの記事に有るような「辰国」の伝説があったことは確かである。