2017年12月29日金曜日

最終兵器の古代史 天皇は宮の名前の証明1

 これも古田史学で発表したものだが、日本書紀の天皇が複数の王の集合と述べてきたが、その基が天皇が住む宮を基に記述されたことを証明してみた。

 1.『古事記』と『日本書紀』
 『古事記』は序文で安万侶が『古事記』を献上する天皇を「可謂名高文命、徳冠天乙矣。」と中国の初代の皇帝と比較して、和銅四年711年九月十八日に「謹随詔旨、子細採摭・・・以注明、意況易解、更非注」と稗田阿礼が言うままに書き写して、4ヶ月で注釈して序文を付け、和銅五年712年正月二十八日に完成させている。
しかし、その内容は誦習った『帝皇日継』と『先代旧辞』でそれを現代風に訓で書き注を付けだけと書いて献上している。
記紀を比べると『古事記』の中身は最初に出てくる神が「天御中主」でこの神は『日本書紀』本文には出てこない神、一書で3番目に出てくる神で、最初に産んだ島は「淡」島、次に「淡道之穗之狹別」島を産んで「淡」島は子に入れない。
国譲りの時は「大国主」に剣先を突き付けて脅して国譲りさせ、「神武天皇」の妃は「大物主」の子で、さらに、「仁賢天皇」からは系図と宮のみの記述になっていて、紀伝体で書かれている。
それに対して、『日本書紀』の中身は最初に出てくる神が「國常立尊」で『古事記』には6番目に出てきて、最初に産んだ島は「淡路」洲で『古事記』と同じで数に入れない。「大日本豐秋津」洲を産み、国譲りの時において「大国主」は自分で決められずに「事代主」に聞けと逃げているように記述している。
「神武天皇」の妃は「事代主」の子で、事績は「推古天皇」どころかそれに加えて「持統天皇」まで書き、さらに「文武天皇」への皇位継承を書き、続日本紀につながって編年体を取り入れている。
『日本書紀』は正史であるが『古事記』は「元明天皇」が受け取りはしたが正史にせず、正式には残さなかったけれど偶然見つかった。

2.古事記の正当性
 この『古事記』を一時期、後代偽作と言われたが、『古事記』上呈時に正五位上だったと『古事記』に書き、正四位下の「安万侶」の墓誌が発見された。『続日本紀』では711年正五位下だったが715年正月に正五位上さらに716年に正四位下に順調に昇進し、『古事記』序文や墓誌は『続日本紀』とつじつまが合っている。
これで言えることは「安万侶」を知っている人物が偽作したか、「安万呂」が上呈しなかったか、実際に上呈したの3通りが考えられる。しかし、後代偽作なら『日本書紀』を知っているのだからもう少し詳しくかけたはずであり、上呈しなかったなら命じた「元明天皇」が確認して偽史を焼却したと考えられる。
しかし、それでも上呈しなかったことを否定はできないが、上呈しなかったのならより真実に近い内容のため気に入られないから止めたと考えられる。
しかし、あれだけおべんちゃらを書いた人物が天皇じきじきの命令を無視して上呈しないと考えることはあまり理に適う考えとは思えないし、現に墓誌があり『続日本紀』に載って出世している人物が書いた文書を否定出来ない。
やはり、偽作ならもう少し話を「仁賢天皇」以降も盛って書いてもよさそうなので、真実に近い文書であり、『日本書紀』が作成される前の史書としての価値は下がることはない。
しかも、上呈日が713年と記述された史書がある限りそれを否定するにはこの文書が偽書だという同時代の古書を見つけない限り論としては成り立たない。
さらに、『古事記』を「元明天皇」が受け取ったのだから、『古事記』は「元明天皇」に不利益がないことが証明されたといってよい。
事績が有るにもかかわらず削除して嘘があれば「安万侶」は昇進して墓誌を残すどころか「大嘘万侶」と2つ名で処罰されたはずである。
「元明天皇」の王朝の歴史ではないかもしれないけれど、「元明天皇」より前の実際の歴史または「元明天皇」に都合の良い歴史には違いないことが解る。
そして、「舒明天皇」以降を宮名や天皇名を付け加えさせず、「藤原宮」に遷った話や寺を建立した話も書かない。
「天武天皇」などを記述した『日本世紀』が有ったにもかかわらず、『帝皇日継』と『先代旧辞』のままであった可能性が高い。
「元明・元正天皇」が認めた「舒明天皇」から「持統天皇」を『古事記』に書かなかった理由を考えると、『帝皇日継』と『先代旧辞』に載っておらず、『日本世紀』などの資料が無かった。
それで「安万侶」に能力が無く書かなかったか、もしくは「元明天皇」の王朝は「推古天皇」に直接つながって「元明天皇」の親または本人が「舒明天皇」で自王朝でない事績を付け加えず真実を書いたなどが考えられる。
しかし、「安万侶」の序文を見ると、「舒明天皇」以降の事績を書けないわけではなかったと考えられるが、ここでは併記して次の論証にうつる。

2017年12月27日水曜日

最終兵器の古代史 日本神話の再検討4

 さらに、古事記でも日本書紀でも海に流した蛭子神は、共通の敵の日本人と言えば古くから高度な文化を持ついわゆる縄文人と呼ばれる東国の蝦夷のことで、のちに饒速日が天降った地域で、それが銅鐸国である東鯷国で蝦夷は国とは呼んでいない。
『古事記』
「・・・興而生子、水蛭子 此子者入葦船而流去 次生淡島 是亦不入子之例・・・」
『日本書紀』
「・・・次生蛭兒 雖已三歳脚猶不立 故載之於天磐 樟船而順風放棄・・・」

東鯷国は漢書によると20以上の国を有していて、古事記に出現する島ではない列島内の国と君を合わせると22ヶ国でほとんどは銅鐸が見つかっている地域に重なる。東鯷国から建比良鳥・天津日子根・神話部分の神武天皇(大物主を祀る人)が国を支配下にしたのであり、建比良鳥が大国を建国し、天津日子根が東鯷国を滅ぼして国名を神国にし、神八井耳は更に領域を広げて国名を倭に対する大国系の一段上位の、臣に対する大臣、連に対する大連と同じく、倭に対する大倭として天皇を名乗ったと古事記は言っているようだ。
古事記
建比良鳥命、此、出雲国造・无耶志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・津島県直・遠江国造等之祖也。
天津日子根命者、凡川内国造・額田部湯坐連・茨木国造・倭田中直・山代国造・馬来田国造・道尻岐閉国造・周芳国造・倭淹知造・高市県主・蒲生稲寸・三枝部造等之祖也。
槁根津日子。此者倭国造等之祖。
参向耳此者吉野国巣之祖。
神八井耳命者、意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹波臣・島田臣等之祖也。
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年 
新羅王遥望以爲 非常之兵 將滅己國 讋焉失志 乃今醒之曰 吾聞東有神國謂日本亦有聖王謂天皇
漢書 卷二十八下 地理志第八下 呉地条
會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云
後漢書
會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國

銅鐸出土地域の例
道尻岐閉国 常道仲国(上野-新田郡新田町 東中溝Ⅱ遺跡 ・下野-小山市田間) ・武蔵(平塚市-内沢遺跡・海老名市-本郷遺跡 河原口坊中遺跡・東京都八王子市長房町-中郷遺跡 高田馬場三丁目遺跡)・上菟上国 下菟上国 伊自牟国 馬来田国 長狭国(袖ケ浦市-水神下遺跡 市原市-草刈遺跡 君津市大井戸八木 木更津市大久保中越)・遠江国(掛川市 浜松市 富士市船陣ヶ沢 静岡市富士見台1丁目有東遺跡  袋井市愛野向山)・津島(愛知郡鳴海海底 一宮市大和町 八王子遺跡 西春日井郡清洲町 朝日遺跡)・伊予(中央市上分町-上分西遺跡)・科野(長野-柳沢遺跡)など また近畿・山陰・九州に多数出土

 古田氏は日本書紀や古事記の神武東征は正しいと宣言したが、それは、九州王朝が日本を支配していなければ自分の論が成り立たないからであったからの論で、古事記・日本書紀を九州王朝から盗んだもので大ウソの本と宣言した。しかし、古事記も日本書紀もまさに日本の歴史の真実を記述したとしか思えない遺跡や多くの史書との整合性を持ち、多くの説話の集合体であることが解かり、古田氏は九州王朝が持論の多元史観で2つの倭人王朝を認めれば問題無かったのである。
古事記と日本書紀との差は嘘の上塗りの史書なのではなく、書いた支配者の違いが表れているだけでともに関東から西の日本の歴史を記述した史書であることが解る。南九州の縄文倭人が船で武器と文化を交易して、金属器の剣を得ることで日本を統一していったという歴史書で、三国志で記述されていない邪馬壱国の東の倭種70国の歴史、隋書の俀國の東秦王国の歴史が古事記・日本書紀だ。そして、最後に日本書紀や古事記を書きあげた人々は現在の天皇家の時間軸を採用して記述したのであり、この時間軸にそれぞれ日本を支配した王朝が宮ごとに記述した歴史を当てはめたため、多くの矛盾が生じたのである。朝鮮の資料では倭国がいつも攻めてきて、中国史書や日本書紀は朝鮮が日本を尊敬していると書く、すなわち、戦争する中国の冊封体制下の倭国と中国と敵対する新羅の友好国日本が日本列島に存在したのであり、友好を表明するときは倭国で敵対するときは倭人・倭など国が付加されない。

2017年12月25日月曜日

最終兵器の古代史 日本神話の再検討3

 稲の栽培方法も田道間守が常世国から橘を得るのに10年かかっているが、普通の橘は日本の在来種で田道間守の橘はコウライタチバナと思われる。「済州島」と「萩」にのみ自生し「萩」にある橘を田道間守が栽培方法を含めて求めたために10年を要したのである。これと同様のことが稲の栽培を行うときに栽培方法を含めて取り入れたので、温帯ジャポニカの遺伝的多様性がないと考えられる。稲のある場所に漆を運んでそこにある稲穂を見て興味を示さないことはあり得ないし、中国人が稲の作り方を教えに船に同乗したり中国では船がまだなくほぼ日本にたどり着くのが不可能な筏で命を賭けて教えに来るとは思えない。ここで常世の国は済州島であることが解り、済州島の高山里遺跡には1万年前の縄文土器やクジラの骨を使った道具が出土して日本と同じ文化圏である。さらに、宗像3島を支配した素戔嗚は大八島の吉備児島近くに縄文前期の土壌からプラントオパールが見つかった朝寝鼻貝塚(岡山市 6000年前)、縄文中期の土器胎土にプラントオパールが見つかった矢部貝塚・福田貝塚(岡山県倉敷市)、土器に稲の圧痕を残した南溝手遺跡(総社市 約3500年前)があるように稲を持って出雲に天降った。板屋Ⅲ遺跡(飯南町志津見)から出土した縄文時代晩期の土器からシコクビエのプラントオパールが検出され、後代に大国主が宗像の女を娶るとき事代主の女との間に鳥鳴海(とりなるみの)神を産んでいて大国が事代主を配下にした。しかし、宗像の近くには四箇東(福岡市早良区)・菜畑遺跡(唐津市)・板付遺跡(博多区)と縄文晩期の稲の遺跡が続き、日本書紀では神武天皇は事代主の支配地域を支配した。すなわち、日国の地域の近くの日別を素戔嗚が支配し、後に日国を素戔嗚配下の事代主が支配してその後大国主に支配され国譲りで火瓊瓊杵が天降った。『山海経』には中国以外で日本列島と思われる「黒歯国」のみに稲が記述されるが、岡山近辺は最有力候補となりそうだ。
『日本書紀』
垂仁天皇九十年 天皇命田道間守。遣常世國。令求非時香菓。今謂橘是也
垂仁天皇九九年 是常世國 則神仙秘區 俗非所臻 是以往來之間 自經十年 豈期獨凌峻瀾 更向本土乎
『古事記』
速須佐之男命、立伺其態、為穢汚而奉進、乃殺其大宜津比売神。故、所殺神於身生物者、於頭生蚕、於二目生稲種、於二耳生粟、於鼻生小豆、於陰生麦、於尻生大豆。故、是、神産巣日御祖命、令取茲、成種。故、所避追而、降出雲国之肥上河上
『山海経』
黑齒國在其北,為人黑,食稻啖蛇,一赤一青,在其旁。一曰:在豎亥北,為人黑首,食稻使蛇,其一蛇赤。

 さらに、朝鮮南部と九州の支石墓は遼東半島の支石墓と異なり、碁盤式支石墓で、日本の縄文時代には敷石や列石・組石・石棺・土器棺が出土しその影響を無視できないと思われ、考古遺物は古事記・日本書紀・山海經・ 論衡等の文献どうりの様相を示している。そして、日本書紀における最初の神が國常立で、古事記では天之御中主で国之常立はかなり下位の神になっているが、古事記の国生みの地の豊秋津よりも上位の神としている。ということは、古事記を記述した国は「中」というところで日本書紀を記述した国より後に建国したと考えられ、豊国と呼ばれた安芸から独立した現在豊国と呼ばれる地域が一番妥当だ。京都郡には太祖神社があり、同様に日本書紀を考えると芥屋にある太祖神社か篠栗にある太祖神社、糸島の高祖神社の場所が考えられ位取りから考えると初代の王の宮は太祖神社で、高祖神社はその先祖である。
『古事記』
天地初発之時 於高天原成神名 天之御中主神・・・次、高御産巣日神・・・・国之常立神・・・次豊雲上野神・・・
『日本書紀』
 ・・・于時天地之中生一物 状如葦牙 便化爲神 號國常立尊・・・次國狹槌尊 次豐斟渟尊・・・ 
 ・・・先以淡路洲爲胞 意所不快 故名之曰淡路洲 廼生大日本豐秋津洲・・・
・・・娶高皇産靈尊之女栲幡千千姫 生天津彦彦火瓊瓊杵尊・・・

2017年12月22日金曜日

最終兵器の古代史 日本神話の再検討2


 ところで、不思議なことがあり、大八島に種子島や屋久島・奄美大島・沖縄が含まれないこと、筑紫も日別と言っているように本来九州は日国で筑紫はその名の通り福岡北岸のことのように思える。また、九州南部が含まれないということは九州南部から隠岐の島島後に来て建国した、すなわち、建国した場所以外には既に国があったと考えられる。イザナミは国産みしていない根国の出身で、すなわち、大八島は大きな8個の島国ではなく、「大」の「ヤ」国の支配する島々のことで「別」が付く国は既にある縄文人の国の一部に拠点を置いた説話と考えられる。さらに、国を作らなければならなかったのは何故かというと、アカホヤ噴火のためなのではないかと考えてみた。国を建国するのにわざわざ狭い島を選ばざるを得なかったのは九州南部が住めなくなり、他の地域には既に国があり、国の無い地域を選んで住み着いたのが隠岐の3島と対馬で、その他朝鮮などにも逃げた人々がいただろうが、のちに、隠岐の島のグループは国産み神話の島々に領域を広げたのではないか。このように考える理由は、鹿児島県加世田市の栫(かこい)ノ原遺跡から12千年前丸ノミ形石斧が発掘され、この石斧は船を造る道具で最古の船の遺跡は千葉県市川市の7500年前の雷下遺跡の船だ。しかし、7300年前のアカホヤ噴火の後の轟B式土器が7000年前に熊本・長崎県の九州本土の西海岸地帯だけでなく、五島列島・壱岐・対馬で発見されている。これを考えると同時期に船を操っていたことがわかり、この土器が朝鮮南部でも発掘されていて、この土器が曽畑土器へと型式が継承された。曽畑土器も朝鮮南部で発掘され似た形式の櫛目文土器が突然朝鮮に出土し、屋久島の一湊松山(いっそうまつやま)遺跡には曽畑式土器に挟まれた地層から出土していて隠岐の島の住人が運んだようだ。(※縄文の風 かごしま考古ガイダンス 第18回 朝鮮半島と西北九州と活発に交流より)そして、隠岐の島(宮尾遺跡)では轟B式より古い縄文早期9,000前の南九州で出土する条痕文土器が発見されていてそれが島根県でも発見されている。すなわち、隠岐の島は元々南九州の人々で9000年前から船による交易をおこない、アカホヤ噴火によって仲間が押し寄せ隠岐の島の島前(郡山遺跡)や壱岐・対馬(越高遺跡)に移り住みそれが轟B式土器を残した。さらに、河姆渡遺跡に漆を出土させ縄文時代前期約6000年前の彦崎貝塚(岡山県灘崎町)の稲のプラントオパールを出土させ、大八島の国々にも3000年以上前の縄文遺跡が発見されていてそれぞれの地域の歴史の古さを示している。(※隠岐島後教育委員会 宮尾遺跡調査報告書)
<大八島の縄文遺跡>
淡路島(大坪遺跡)・伊予(岩谷縄文遺跡)・福岡(柏原A-1遺跡・志賀海神社境内)・佐渡(長者ヶ平遺跡)・広島(円明寺遺跡)・吉備(妹尾住田遺跡)・小豆島(ほら貝岩洞穴遺跡)・姫島(用作遺跡)福江島(大知訶中島遺跡)

 そして、それを示すかのように、箕子朝鮮時代以前の時代から朝鮮南部(これは定説で私は黄海の島と推定)は九州地方と同じ倭で論衡にも倭人が周朝の成王を訪れていると記述されている。遅くとも紀元前1000年以前の縄文時代晩期には越(中国南部でベトナムではない)と倭は国を形成していて既に河姆渡遺跡の時代から関係が深かったため2国がそろって建国後速やかに周王朝と関係を持ち、中国史書はその後も西日本を倭とよび、東北を蝦夷(カイ)と呼んで倭人と区別した。
山海經 第十二 海内北經
 蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕
論衡
異虚篇第一八  周時天下太平 倭人來獻鬯草
恢国篇第五八  成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯
儒増篇第二六  周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶
「越人」ではなく「越」という国、「倭」は国でなく倭人で「越」は周に既に認められた国で「倭」は「燕」に属するので国と認められていない。「燕」・「越」は中国の一部という立場と考えられるが、実態は解らない。

2017年12月20日水曜日

最終兵器の古代史 日本神話の再検討1

 日本における考古学はステレオタイプの如く右も左も大陸から中国人や朝鮮人が文化を持ってきたと論じているが、本当にそれが正しいのだろうか。日本人の遺伝的比較をした研究がたくさんあるがどの説でも世界中どこを探しても日本人と類似する遺伝子が見つからず(江蘇省で春秋時代の呉地域の数十例中の人骨3例あるが周以前はない)、共通の1種類の遺伝子があると中国南部やシベリアに出身地域を当てているがその経過地は全く示されていない。また、言語学的に見ても南方島嶼の影響とシベリアを当てるがこれも経過地がなく、朝鮮半島に日本人との混血と語順が見られるが、朝鮮人は紀元前300年頃に中国北部から移動してきた民族で弥生時代が既に始まっていた。それにもかかわらず、神話も土器も農耕もすべて中国人や朝鮮人が日本に技術を持ってやってきて、特に弥生人はこれらの人物だと言われているが、台湾やフィリピンに広がった彩文土器は日本に入ってこなかった民族が置き換わるほどの人数で征服した朝鮮人や中国人がどうして日本語を話さなければならないのか、どうして縄文人の神話を話さなければいけないのか、どうして遺伝子が消えてしまうのか、どうして突然変異を起こして新しい遺伝子をもつのか、どうして弥生時代以降中国人や朝鮮人が難民としてやってこなかったのだろうか、百済滅亡時でも28人の亡命で大挙して難民が押し寄せることもなく、新羅は船で海を渡って日本を攻撃しようとしたが航行のむつかしさから断念し、北方や南方の世界の神話は史書として書かれていないのに日本より古い神話で日本に影響したのだろうか。縄文人を圧倒する人々が日本にやってきて縄文人の文化を継承し、日本語を継承し、日本の神話を継承することなど考えられないことだ。
三國史記 卷第二 新羅本紀第二  儒禮尼師今
十二年 春 王謂臣下曰 倭人屢犯我城邑 百姓不得安居 吾欲與百濟謀 一時浮海 入撃其國 如何 舒弗邯弘權對曰 吾人不習水戰 冒險遠征 恐有不測之危 況百濟多詐 常有呑噬我國之心 亦恐難與同謀 王曰 善
日本書紀』 天武天皇十三年 化來百済僧尼及俗人。男女并廿三人。皆安置于武藏國。

古事記神話は国産みをイザナギイザナミすなわちクジラの神様が淤能碁呂島を産んだ所から始まるが、おそらく、この話はクジラが島の様に大きな子を産むところを見て、火山島が新しくできる様を見た日本人や海洋の民しか思いつかない神話で、大陸の神話は土地は既にあり、最初の天子は卵から生まれた、神は人間を家でも建てるように作り上げる。日本では、最初に産んだ淡島を皮切りに島を産み続け淡島を数に入れなかった。だがここで、「隠伎之三子島 亦名天之忍許呂別」に疑問を持ち、隠岐の島は4島で「別」がつき、対馬は2島だが「天之狭手依比売」と「別」がく、隠岐の3島にはおそらく「天之忍許呂」島がありそれが島後で「淡島」なのではないのだろうかまた、神が生まれる順で最後がイザナギイザナミであるが、一番偉いはずの国を産んだ神より偉い神様がたくさん並んでいて、これは国産み神話を創った部族を阿夜上訶志古泥神という女神が攻め入って支配したのであって、最後に天之御中主神を祀る勢力が古事記を書いたと考えられる。すなわち、オノ「コロ」島すなわちオシ「コロ」島を支配した「天()」の「八」の「カシコネ」が国を造り「淡島(オオシマ)」すなわち大国を建国したが後に「淡島」を、すなわち大国を盗られてしまったという神話で古事記では大国を産んでいないし、日本書紀では淡路島が盗られてしまったが、古事記で取り戻している。そして、出雲神話ではこの4島をまとめた神話が大国の建国神話となったのであり、その後、隠岐の島4島と対馬2島で「六合」すなわち6島を大日靈貴が支配して、後に「天照大神」が隠岐の島を月読が対馬を、その他の島々を素戔嗚が任された神話だと思われる。対馬はこの神話ができたころは水葬をしていたようで水蛭子を葦船で流しているが、日本書紀では楠船と書き換えて楠船があるのに葦船を使い、すぐ壊れる葦船で生きた子を流すことはしないと思われ、死者の葬送儀式であり、水葬すると対馬海流で死体が対馬に流れ着くと考えられ想定した。また、素戔嗚も稲羽の素兎伝説の「素」が共通しており、素兎伝説は隠岐の島の中の島から島後への嶋渡で「阿夜上訶志古泥」と「八上比売」の「ヤ」が共通していて、素戔嗚は中之島の人物で、大国王の大穴牟遅が島後の支配者八上比売を支配した説話のようだ。
『古事記』
天地初発之時 於高天原成神名 天之御中主神・・・次高御産巣日神 次神産巣日神・・・宇摩志阿斯訶備比古遅神・・・次天之常立神・・・次成神名国之常立神・・・次豊雲上野神・・・次成神名宇比地迩上神 次妹須比智迩去神・・・次角杙神 次妹活杙神 二柱 次意富斗能地神 次妹大斗乃弁神 次於母陀流神 次妹阿夜上訶志古泥神・・・次伊耶那岐神 次妹伊耶那美神・・・興而生子、水蛭子 此子者入葦船而流去 次生淡島 是亦不入子之例・・・御合生子、淡道之穂之狭別島 次生伊予之二名島 次生隠伎之三子島 亦名天之忍許呂別・・・次生筑紫島・・・白日別・・・次生伊岐島 亦名謂天比登都柱・・・次生津島 亦名謂天之狭手依比売 次生佐度島 次生大倭豊秋津島 亦名謂天御虚空豊秋津根別 生吉備児島 亦名謂建日方別 次生小豆島 亦名謂大野手上比売 次生大島 亦名謂大多麻上流別 次生女島 亦名謂天一根・・・次生知訶島 亦名謂天之忍男 次生両児島 亦名謂天両屋・・・賜天照大御神而詔之、汝命者、所知高天原矣・・・詔月読命、汝命者、所知夜之食国矣事依也・・・次、詔建速須佐之男命、汝命者、所知海原矣事依也・・・僕者欲罷妣国根之堅州国故、哭・・・稲羽之素菟者也 於今者謂菟神也 故、其菟白大穴牟遅神、此八十神者、必不得八上比売・・・
『日本書紀』
・・・次生蛭兒 雖已三歳脚猶不立 故載之於天磐 樟船而順風放棄・・・・・・號大日靈貴 此子光華明彩 照徹於六合之内・・・

2017年12月18日月曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 古田説批判 (2倍年歴・魏志倭人伝批判)3

3.倭の五王とタリシヒコ

 古田氏は倭の5王に当てはまらないと日本書紀の間違いの一つにしたが、間違いと言えないことを提示する。
5世紀に倭王は中国南朝に将軍の地位の要請をしているが希望どおりに叙されていないということは、実際の支配領域は異なっていたようだ。倭の五王時代は武が世祖大明六年から天監元年の最低40年間在位しており、それに当てはまる天皇は仁徳天皇か允恭天皇しかありえないが年代的には允恭天皇から仁賢天皇あたりに当てはまり、中国史書と古事記・日本書紀が全く符合しない。それは、中国史書は中国との柵封関係の倭国を記述して、敵対する日本国を無視しているための現象で、そのための魏志の倭国の東の70国近い国を支配する倭種の国名を記述していない。しかし、この当時はすでに剣・鏡・前方後円墳の領域で、隋時代は秦王国とよびアメタリシヒコは大王で日本国天皇ではなく、既に秦王国日本に天皇がいたが、隋においてもおそらく新羅や百済との柵封関係を持つ日本国を認めなかった。日本書紀は倭国が九州の地方政権であり日本の中央政権でないので記述せず、632年の対唐記事から記述し倭国が日本の政権を得た。ちなみに、私は安康天皇が413年から430年の在位で賛、初代雄略天皇が431年から442年の在位の珍、2代目雄略天皇が443年から450年までの在位で濟、清寧天皇が451年から476年在位の興、武は477年から503年までの顯宗天皇で宮を4宮遷っていたのであてた。もちろん、この天皇は5王が天皇だということでは無く、物差しとしての天皇のことだ。
宋史
421年 高祖永初二年、詔曰 倭萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。
425年 太祖元嘉二年、讃又遣司馬曹達奉表獻方物。死、弟立、・・・
443年 二十年、倭國王遣使奉獻、復以爲安東將軍、倭國王。
451年 二十八年、・・・ 濟死、世子遣使貢獻。
462年 世祖大明六年、詔曰 倭王世子・・・宜授爵號、可安東將軍、倭國王。死、弟立。・・・
478年 順帝昇明二年 ・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、・・・
南齊書
479年 建元元年、・・・倭王號爲鎮東大將軍。
梁書
502年 天監元年夏四月戊辰、・・・鎭東大將軍倭國王、進號征東將軍。・・・
日本書紀
顕宗天皇元年春正月己巳朔  
召公卿百僚於近飛鳥八釣宮・・・或本云。弘計天皇之宮有二所焉。一宮於少郊。二宮於池野。又或本云。宮於甕栗
舒明天皇四年 冬十月辛亥朔甲寅。唐國使人高表仁等到干難波津。
『隋書』
開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕・・・又東至秦王國 其人同於華夏・・・
<旧唐書>
貞観五年、遣使献方物、太宗矜其通遠、勅所司無令歳貢。又遣新州刺史高表仁、持節往撫之。表仁、無綏遠之才、與王子争禮、不宣朝命而還

濟と興は親子だが清寧天皇の興は皇太子岩城皇子から政権を奪取したため宮が異なり、2代目雄略天皇の443年即位は即位と同時に中国訪問は外交としては一番普通な方法に感じられる。すなわち私は、天皇の宮のお家騒動、木梨輕皇子の子に暗殺されるというお家騒動、履中天皇の太子仲皇子殺害というお家騒動で本来宮が変わるべきところで宮を変えなかったことを利用して持統天皇を挿入した結果の2代のずれを補正したと考えた。また、玉垂命の系図が天皇家の系図と古田氏らが述べているが、倭の5王の一時名称がどこにも記述されておらず、何回か宮を変え叔父若しくは兄弟に政権が移っているので確実に仁徳天皇(2代のずれで履中天皇)の代で天皇の系図から外れていると思われる。この頃の倭は大王で天皇ではなく、新羅の東に尊敬する日本があって天皇がいると神功紀に記述があるので、「連」が付く玉垂命の天皇は大国の別名神國こと日本国の天皇の末裔で久留米近辺は倭国の領域ではなく、倭国はその北部であり、新羅の南には敵対する倭国の大王が存在し、日本で唯一中国に認められたと自負したのである。
『日本書紀』
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年 吾聞。神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇
清寧天皇即位前紀 
吉備稚媛、陰謂幼子星川皇子曰、欲登天下之位、先取大藏之官。長子磐城皇子、・・・奉璽於皇太子。

2017年12月15日金曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 古田説批判 (2倍年歴・魏志倭人伝批判)2

.邪馬壱国
 古田氏は吉武高木遺跡や須玖岡本遺跡に邪馬壱國を持っていくために伊都國を糸島平野の西に奴國を4千戸の末廬國より若干広い糸島平野に持って行き、なぜか同じ百里の不彌國をさらに東にしてしまった。しかし、伊都国東南百里の2万戸の奴國を考えると、伊都国東百里の千家の不彌國の南はどう考えても奴國である。方3百里の壱岐を考えれば4千戸の末廬國の東南5百里は糸島平野であり、不彌國領域を末廬國や伊都國と同様の大きさの比率の領域と考え、伊都國の東南で伊都國の20倍の戸数の百里の地の奴國を考えると指定地は成務天皇が山河で領地を分割している。したがって、三笠川と那珂川の中間の須玖岡本遺跡の春日市は微妙だが不彌國の南及び不彌國の東南は二万余戸の奴國になってしまう。三国志の文面から推定すると奴國の3.5倍の戸数の七萬余戸の領域の邪馬壱國は不彌國の南でなくある程度離れた東にならざるを得ない。倭人伝を信じれば、不彌國は伊都國の9倍の東西幅の領域がないと南が邪馬壱國にならず、そのような長細い国は必然的に博多湾岸の糸島半島・能古島・志賀島・海の中道を領域とする国と考えざるを得ない。したがって、邪馬壱國は神功皇后前紀で新たに支配する領地の御笠の北部の糟屋郡近辺が一番妥当である。最初に甕棺が消えて石棺墓と変化していくところで、吉武高木遺跡や須玖岡本遺跡にはまだ甕棺が出土していて、前の支配者の伝統を残して副官が日本書紀と同じ官位の夷守に対応している。そして、不彌國はまさに古田氏が述べる邪馬壱國の表玄関で、その表玄関で「漢委奴國王」印が出土したのであり、高祖神社は奴國でなく一大率が冗長卯する伊都國になければ国譲り神話が意味をなさなくなる。
そして、卑弥呼こと政務天皇の宮と男弟王2代目の景行天皇(最後の3年間卑弥呼を継いだ男王)の宮は淡海(多々良川河口は汽水域だったそうだ)の志賀高穴穂宮、卑弥呼の宗女壱与こと神功皇后は宮を香椎宮と記述していて神功皇后紀に魏との交流記事がある。この3天皇の宮は並行して存在していると考えられて、まさに、この2つの宮に魏使は訪れたと考えられ、この地が邪馬壱國で近くの久山町には猪野皇大神宮、小山田邑の斎宮がある。さらに、宇美町神武原という場所に太祖神社という神社があり、江戸時代に福岡藩士青柳種信が書いた『筑前国続風土記拾遺』によれば、太祖神社下宮の鳥居の額には、「神武聖皇帝」と書かれていたと言う。その太祖神社下宮が篠栗町にあり、粕屋郡で神武天皇の建国があったことを思わせ、しかも志賀島には金印が出土している。

『日本書紀』
景行天皇二七年 故弟彦公便率石占横立。及尾張田子之稻置。乳近之稻置而來。
景行天皇六十年冬十一月乙酉朔辛卯。天皇崩於高穴穗宮。
成務天皇五年秋九月。令諸國。以國郡立造長。縣邑置稻置。並賜楯矛以爲表。則隔山河而分國縣。
『古事記』
若帯日子天皇、坐近淡海之志賀高穴穂宮、治天下也。
『三国志』
 又渡一海千餘里 至末廬國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之 
 東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 
   郡使往來常所駐 
 東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸 
 行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家 
 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月・・・可七萬餘戸

※発表後、奴国は伊都国を取り囲んでいるから糸島に有ってよいと無茶な言い訳をされた。苦笑するしか無く、反論する気にもならなかった。奴国と伊都国の中心の距離と考えているとしか思えない論理で100里を7Km強と主張している会が2万戸の奴国への中心へ4Km弱でというのであるが、成務天王の郡県の区分とも反し、現代の政教分離の大司教がすむローマにでもなぞらえるのだろうか。どちらにしても、不彌國の領域は有りそうもなく、古田史学は苦しいパズルの解明が必要だ。学会に無視されていると嘆いた古田氏はこの批判を目にした今、何を思っているのだろうか?



2017年12月13日水曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 古田説批判 (2倍年歴・魏志倭人伝批判)1

.天皇の系譜(2倍年歴問題)
  私は天皇名が宮の名前で、宮には複数の天皇が隠れ、複数の宮に1天皇が隠れていると論じた。当然その伝統は神武天皇時代から当てはまり、立太子があたかも長生きできることを前提にしたように即位後数十年も行わないというのは、王朝を継続する上で異常であり、太子の存在しない数十年は長男が太子として存在し、わざわざ宣言する必要のない当然のことであったからだ。そして、長男でない人物が太子となったときが立太子で、立太子と同時に宮がかわる、すなわち天皇が変わった。中には末弟が天皇になる習慣と主張する論もあるようだがそれを証明する事例は少なく異常時で逆は多く見かける。そして、日本書紀の神功皇后紀から朝鮮記事が2代120年近くずれているが、これは他王朝の天皇の資料が反映されているようで記述者が異なり、応神天皇以降の王位継承記事はそれまでと変わった。立太子があっても太子が天智天皇で前政権の東宮がいた宮に入ったように宮天皇という政権が変わらなくなったようなので、それをもとに年表を作成したところ、見事に辻褄が合う年表(図示)になった。そして、個々の天皇を検討しても辻褄が合いだした。
『日本書紀』
綏靖天皇
二年春正月。立五十鈴依媛爲皇后。一書云。磯城縣主女川派媛。一書云。春日縣主大日諸女糸織媛也。即天皇之姨也。后生磯城津彦玉手看天皇。・・・卅三年夏五月。天皇不豫。癸酉崩。時年八十四
『古事記』
綏靖天皇 娶師木県主之祖、河俣毘売、生御子、師木津日子玉手見命。・・・天皇御年、肆拾伍歳。

綏靖天皇の系譜を確認すると日本書紀の一書云で皇后が違うということは綏靖天皇が親子3代であったと考えられる。すなわち、五十鈴依媛を皇后とした綏靖天皇と川派媛を皇后にした2代目綏靖天皇と、糸織媛を皇后にした3代目綏靖天皇が存在したことを示唆し、日本書紀が古事記の2倍の年齢になっているということは2代以上の天皇が隠れていて、天皇複数人を他王朝の天皇1人に当てはめた。もし、2倍年歴なら、他の天皇も同様に古事記の2倍でないと辻褄が合わない。慣例としての年齢になら2倍年歴が有りうるが、中国などに使節を送っており、公文書に書く日付は中国に合わせるはずである。また、太子になった年齢もほとんどが15歳から26歳で2倍年歴なら立太子が8歳から13歳となり大人は対象外の様になってしまう。また天皇の年齢が80歳、在位が50年は古代の天皇としては異様で、どこをどう読んでも日本書紀の2倍年歴を証明することがでず、皇后に一書云がない隠れた天皇は兄弟がその候補になりそうだ。
『日本書紀』
神武天皇 年十五立爲太子 安寧天皇 立爲皇太子。年廿一。 懿徳天皇 立爲皇太子。年十六
懿徳天皇 立觀松彦香殖稻尊爲皇太子。年十八。孝昭天皇 立日本足彦國押人尊皇太子。年廿
孝安天皇 立大日本根子彦太瓊尊爲皇太子。年廿六。 孝元天皇 立爲皇太子。年十九
孝元天皇 立稚日本根子彦太日日尊爲皇太子。年十六。 開化天皇 立爲皇太子。年十六
開化天皇 立御間城入彦尊爲皇太子。年十九。 景行天皇  立爲皇太子。時年廿一
成務天皇 立爲太子。年廿四。 応神天皇 立爲皇太子。時年三
履中天皇 立爲皇太子。時年十五

 安寧天皇は綏靖天皇25年に安寧天皇21歳で立太子して8年後に綏靖天皇33年に安寧天皇が即位してその38年後に67歳で安寧天皇崩のはずだ。しかし、57歳の崩になっていて、ここでも、立太子イコール即位、すなわち綏靖天皇25年に安寧天皇元年が証明されている。59歳の死亡でなく57歳ということは即位が立太子の前年すなわち前年に太子になっているが正式な儀式の時が「数え」で表した立太子なのだろう。また、天皇位の兄弟相続で履中天皇の在位が6年、反正天皇の在位が5年、允恭天皇の在位が42年と末の弟の在位が一番長い。それは、允恭天皇の親子相続が続いたことを示し、立太子も天皇在位22年目で、おそらく、允恭天皇の2代目または3代目の長男が即位時に跡継ぎがいないか、分家の叔父が政権を奪取して皇太子になったのだろう。若い天皇と既に天皇と同等の経験がある叔父では叔父が勝つのが当然である。すなわち、日本では通常の天皇と皇太子という天皇の2人が統治し、兄弟統治になったときが立太子で皇太子が次の天皇になったのだ。推古天皇は即位後すぐに立太子したにもかかわらず政務天皇には子供がいないのに、立太子が48年後というのは景行天皇がもう一人の天皇であったためで、政務天皇5年に制定した稻置が先代の景行天皇27年に記述されている。
『日本書紀』
綏靖天皇
廿五年春正月壬午朔戊子。立皇子磯城津彦玉手看尊爲皇太子。
・・・卅三年夏五月。天皇不豫。癸酉崩。時年八十四。
安寧天皇
即位前紀 天皇以神渟名川耳天皇廿五年、立爲皇太子。
廿一。・・・卅八年冬十二月庚戌朔乙卯。天皇崩。時年五十七



発表後に安寧天皇記事誤謬説を提示されたが、誤謬を証明されることは無かった。

2017年12月11日月曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『隅田八幡神社人物画像鏡』の考察Ⅲ

6.「日十」大王
 舒明天皇が娘婿で馬子が舒明天皇の親の世代ということは、舒明天皇が聖徳太子の皇子と馬子の娘婿同士で皇位を争っていて、馬子は稲目の娘婿の聖徳太子と同じ世代の人物だということが解る。聖徳太子の従弟に「押坂彦人大兄皇子」という人物が存在し、この人物が590年頃に死亡していたなら、舒明天皇はかなり高齢となり、馬子の娘婿というより稲目の娘婿でないと合わないし、天智天皇の舒明天皇死亡時16歳も合わなくなる。すなわち、「押坂彦人大兄皇子」は新唐書で記述されたタリシヒコが用明天皇と記述されており、推古天皇=用明天皇で用明天皇末年は628年にあたり、「押坂彦人大兄皇子」は太子と呼ばれている。「押坂彦人大兄皇子」の固有の名前は「人」で長男の押坂で生まれた猛々しい皇子「人」と読める。しかも、男弟王が意柴沙加宮に居る時と「押坂彦人大兄皇子」の「押坂」と同音で、無関係とは思えない。『船氏王後墓誌』では「乎婆陁宮治天下天皇」と「おし」陁宮と言う場所に天皇がいたようでこれも無関係と思えない。彦人皇子と竹田皇子は同時に記述があって彦人皇子は水派宮に出ている。さらに、「押坂彦人大兄皇子」は宣化天皇の孫、欽明天皇の子の敏達天皇と応神天皇につながる息長眞手王の娘を母に持って馬子に無縁の人物である。そんな「押坂彦人大兄皇子」の牽制として男弟王と関係を持つことは有りうる。そこに、丁度稲目の曽孫にあたる竹田皇子は絶好な相手と考えられ、推古天皇が竹田皇子の墓へ合葬を指示した理由が映し出され、この竹田皇子の死亡を記述していないということは、何か不都合な事件と考えるべきだろう。蘇我氏が守屋に対抗して大きな勢力を持つ倭国と連携しつつ、警戒心を抱き、それに対して倭国の全国制覇の野心が竹田皇子の死亡の意味するところと感じる。その後立太子していないため推古天皇死後も「押坂彦人大兄皇子」が大王で、628年に竹田皇子は死亡したと考えられる。
『船氏王後墓誌』
惟船氏故 王後首者是船氏中租 王智仁首児 那沛故 首之子也生於乎婆陁宮治天下天皇之世
『日本書紀』
用明天皇二年(587)四月丙午《二》
遂作太子彦人皇子像與竹田皇子像厭之。俄而知事難濟。歸附彦人皇子於水派宮。
崇峻天皇即位前紀用明天皇二年(587)七月
蘇我馬子宿禰大臣勸諸皇子與群臣。謀滅物部守屋大連。泊瀬部皇子。竹田皇子。
推古天皇三六年(628)九月壬辰《廿四》 葬竹田皇子之陵。
舒明天皇十三年(641)十月丙午《十八》 是時東宮開別皇子年十六而誄之。

7.諸問題
 「年」を一字名称とする考えもあるが、一字名称とするとどちらにこの鏡を送ったのかわからなくなってしまい、私は男弟王に斯麻が送ったと考え、「年」は「日十」が「大王」になった年と考えた。鏡を作らせて大王に送るとしたら、斯麻が権力を見せびらかしていることになってしまう。また、原本が1世紀以上前の鏡を「踏み返し」で作鏡するかという一番大きな問題があるが、図案が、原本と模様が左右逆転しており少なくとも2世代すなわち、原本を左右変えた世代とそれを写した世代をへて作鏡された鏡で、名作中の名作だった鏡ということになり、長く作られ続けたと考えてもよさそうだ。「墨江中王」の時代に使っていた名鏡を「墨江中王」の子孫が政権を奪取して「踏み返し」という技術を使って復活させ、三角縁神獣鏡のように流行させたと考えてもよいのではないか。

6.終わりに
 『隅田八幡神社人物画像鏡』の考察は心証・傍証ばかりで絶対的な証拠はないが、古事記も日本書紀も鏡の技法も鏡の意味も「直」という地位も登場人物も全て矛盾なく説明できた。発掘された鏡でないため時代を決定づける証拠を見出すことはできないが、「斯麻」を武寧王にして526年に大和に入る「磐余玉穂宮」を飛ばして503年に大和に遷都させてみたり、大草香皇子を大王としてしまって、「斯麻」を不明にしたりして想像をたくましくするよりましな説になったと思う。

2017年12月8日金曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『隅田八幡神社人物画像鏡』の考察Ⅱ

3.「直」
 『隅田八幡神社人物画像鏡』の銘文中の「開中費直」を考察してみる。「直」という役職が安閑天皇元年より頻出していて、安閑天皇の時に復活した役職のようで、古事記では「墨江中王」の事件で「阿知直」が記述されて以降記述がない。すなわち、「直」は古事記を書いた王朝には無かった役職で、新しい王朝は「墨江中王」で滅亡した王朝を復活して「直」という役職を使い、欽明朝からは外交に携わり、推古朝には外交の中心にいて、穢人今州利を連れて通訳する立場は十分果たせそうな人物の1人だったことが想像できる。もし、「開中費直」が「河内直」であったのなら、外交責任者に斯麻は命じたことになり、大王と同等の地位であったことになる。
『隅田八幡神社人物画像鏡』
「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等」
『古事記』
伊耶本和気王 於是、倭漢直之祖、阿知直盗出而、乗御馬令幸於倭。爾、阿知直白、墨江中王、火著大殿。
『日本書紀』
安閑天皇元年(531)四月癸丑朔 「推問所由。國造稚子直等恐懼。逃匿後宮内寢。」
欽明天皇二年(540)七月 「別以安羅日本府河内直通計新羅。」
推古天皇十六年(608)六月丙辰 「以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。」
推古天皇十六年(608)九月辛巳 「是時。遣於唐國學生倭漢直福因。」
推古天皇十八年(610)十月乙巳 「饗使人等於朝。以河内漢直贄爲新羅共食者。」
舒明天皇四年(632)十月甲寅 「時高表仁對曰。・・・大河内直矢伏爲導者到干舘前。乃遣伊岐史乙等。」

4.「斯麻」
 鏡を6世紀以降とする場合、諱に「斯麻」を持つ百済の武寧王が送ったとする説があるが、1国の王が他国の王に送るのではなく男弟王に送り、しかも、大王を無視して開中費直の派遣を命じて日本国内で作鏡することがあるとは思えない。本来なら、百済国内で開中費直と穢人今州利に作鏡させて百済の図案で大王に送るのが通常なことと思われる。すなわち、「斯麻」は日本人で大王抜きに開中費直と今州利を派遣して大王の弟に大王と同等の地位の人物が作鏡させたと考えなければならない。そのような人物で「斯麻」と言えば蘇我馬子以外私の頭には浮かんでこない。馬子は日本書紀では崇峻天皇以降はあまり出現しないが、『上宮聖徳法王帝説』で干支が違うが推古35年627年(6月のかのとうしの日にあてた)に死亡していて、日本書紀でも推古34年に死亡し、馬子は崇峻天皇や舒明天皇の義父、天智天皇の祖父にあたり、崇峻天皇の2代のズレを考えれば年代的にも合致する。すなわち、馬子は少なくとも626年まで健在で大臣として活躍していた。
 『上宮聖徳法王帝説』
「曾我大臣 推古天皇卅四年秋八月 嶋大臣 曾我也 臥病 爲大臣之男女 并一千人???? 
 又本云 廿二年甲戌秋八月 大臣病臥之 卅五年夏六月辛丑薨之」
推古天皇三四年五月丁未 「大臣薨。・・・故時人曰嶋大臣」

5.癸未の時代背景
 「斯麻」が馬子で馬子の死亡が627年とすると、癸未は563年では馬子は幼児になってしまい、623年ということになる。623年は上宮法皇が622年に薨去した次の年で、上宮法皇の代わりの人物がその地位に就かなければならず、地位に就いたのが日十大王ということで、日十大王が大王になった年が623年だったと言うことになる。この頃朝廷は任那をめぐって争奪戦をしており、しかも、百済を信頼していないと記述して国際関係上は孤立していて、穢人に鏡を作らせるどころではなく、同じ年に新羅と友好関係にある記事の王朝が馬子のいる王朝のようで、623年には2つの王朝(旧日本と俀・倭)が併存している。隋・唐は太宗22年647年まで倭と友好関係であったということは親新羅で唐に友好を求めている王朝が大王の王朝だ。さらに、623年7月唐からの来訪者があり、この中に「今州利」が含まれていた可能性も否定できない。
『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』
「法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩。明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗悆。・・・二月廿一日癸酉、王后 即世 翌日法皇登遐」
『日本書紀』
推古天皇三一年(623)七月 
「新羅遣大使奈末智洗爾。任那遣達率奈末智。並來朝。・・・且其大唐國者法式備定之珍國也。」
推古天皇三一年(623)是歳 
「新羅伐任那。任那附新羅。於是天皇將討新羅。・・・百濟是多反覆之國。道路之間尚詐之。凡彼所請皆非之。」
『旧唐書』 巻199上 東夷伝
「至二十二年、又附新羅奉表、以通起居。」