2017年12月29日金曜日

最終兵器の古代史 天皇は宮の名前の証明1

 これも古田史学で発表したものだが、日本書紀の天皇が複数の王の集合と述べてきたが、その基が天皇が住む宮を基に記述されたことを証明してみた。

 1.『古事記』と『日本書紀』
 『古事記』は序文で安万侶が『古事記』を献上する天皇を「可謂名高文命、徳冠天乙矣。」と中国の初代の皇帝と比較して、和銅四年711年九月十八日に「謹随詔旨、子細採摭・・・以注明、意況易解、更非注」と稗田阿礼が言うままに書き写して、4ヶ月で注釈して序文を付け、和銅五年712年正月二十八日に完成させている。
しかし、その内容は誦習った『帝皇日継』と『先代旧辞』でそれを現代風に訓で書き注を付けだけと書いて献上している。
記紀を比べると『古事記』の中身は最初に出てくる神が「天御中主」でこの神は『日本書紀』本文には出てこない神、一書で3番目に出てくる神で、最初に産んだ島は「淡」島、次に「淡道之穗之狹別」島を産んで「淡」島は子に入れない。
国譲りの時は「大国主」に剣先を突き付けて脅して国譲りさせ、「神武天皇」の妃は「大物主」の子で、さらに、「仁賢天皇」からは系図と宮のみの記述になっていて、紀伝体で書かれている。
それに対して、『日本書紀』の中身は最初に出てくる神が「國常立尊」で『古事記』には6番目に出てきて、最初に産んだ島は「淡路」洲で『古事記』と同じで数に入れない。「大日本豐秋津」洲を産み、国譲りの時において「大国主」は自分で決められずに「事代主」に聞けと逃げているように記述している。
「神武天皇」の妃は「事代主」の子で、事績は「推古天皇」どころかそれに加えて「持統天皇」まで書き、さらに「文武天皇」への皇位継承を書き、続日本紀につながって編年体を取り入れている。
『日本書紀』は正史であるが『古事記』は「元明天皇」が受け取りはしたが正史にせず、正式には残さなかったけれど偶然見つかった。

2.古事記の正当性
 この『古事記』を一時期、後代偽作と言われたが、『古事記』上呈時に正五位上だったと『古事記』に書き、正四位下の「安万侶」の墓誌が発見された。『続日本紀』では711年正五位下だったが715年正月に正五位上さらに716年に正四位下に順調に昇進し、『古事記』序文や墓誌は『続日本紀』とつじつまが合っている。
これで言えることは「安万侶」を知っている人物が偽作したか、「安万呂」が上呈しなかったか、実際に上呈したの3通りが考えられる。しかし、後代偽作なら『日本書紀』を知っているのだからもう少し詳しくかけたはずであり、上呈しなかったなら命じた「元明天皇」が確認して偽史を焼却したと考えられる。
しかし、それでも上呈しなかったことを否定はできないが、上呈しなかったのならより真実に近い内容のため気に入られないから止めたと考えられる。
しかし、あれだけおべんちゃらを書いた人物が天皇じきじきの命令を無視して上呈しないと考えることはあまり理に適う考えとは思えないし、現に墓誌があり『続日本紀』に載って出世している人物が書いた文書を否定出来ない。
やはり、偽作ならもう少し話を「仁賢天皇」以降も盛って書いてもよさそうなので、真実に近い文書であり、『日本書紀』が作成される前の史書としての価値は下がることはない。
しかも、上呈日が713年と記述された史書がある限りそれを否定するにはこの文書が偽書だという同時代の古書を見つけない限り論としては成り立たない。
さらに、『古事記』を「元明天皇」が受け取ったのだから、『古事記』は「元明天皇」に不利益がないことが証明されたといってよい。
事績が有るにもかかわらず削除して嘘があれば「安万侶」は昇進して墓誌を残すどころか「大嘘万侶」と2つ名で処罰されたはずである。
「元明天皇」の王朝の歴史ではないかもしれないけれど、「元明天皇」より前の実際の歴史または「元明天皇」に都合の良い歴史には違いないことが解る。
そして、「舒明天皇」以降を宮名や天皇名を付け加えさせず、「藤原宮」に遷った話や寺を建立した話も書かない。
「天武天皇」などを記述した『日本世紀』が有ったにもかかわらず、『帝皇日継』と『先代旧辞』のままであった可能性が高い。
「元明・元正天皇」が認めた「舒明天皇」から「持統天皇」を『古事記』に書かなかった理由を考えると、『帝皇日継』と『先代旧辞』に載っておらず、『日本世紀』などの資料が無かった。
それで「安万侶」に能力が無く書かなかったか、もしくは「元明天皇」の王朝は「推古天皇」に直接つながって「元明天皇」の親または本人が「舒明天皇」で自王朝でない事績を付け加えず真実を書いたなどが考えられる。
しかし、「安万侶」の序文を見ると、「舒明天皇」以降の事績を書けないわけではなかったと考えられるが、ここでは併記して次の論証にうつる。

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