2018年1月31日水曜日

最終兵器のミサ 海外文献 『山海經』

 『山海經』の大荒東經には中国の5帝の一人としている舜と同一人物とする俊が生んだ国々と称しているが、これも、記紀などと同様に別人だ。
中国で重要な神と同等の人物に2つ名など必要なく、本来なら名前すら無い「主神」でよいし、実際おなじ「大荒東經」に舜が出現する。
中国中原にまだ国が無い神話の時代の4千年前以前から「大荒東經」の地域である日本列島南部(九州から関東・すべて方角は月日所出)にすでに国々があり、その国々の歴史は、女王の羲和と俊が4国(中容・晏龍・黑齒・孫国白民)を建国したことを記述している。
中国の神話では羲和が日神、常羲が月神で共に俊の妻になっているが、天照と月読の話と同じ、国産みもイザナギ・イザナミの話と同じことを記述しているように見える。
日月所出の羲和之國に始まり止日月の女和月母之國で書き終わる国々があり、 この神話が少昊の時代以前の話だと書いているのだ。
そして、これを基に『契丹古伝』は殷と親戚と記述したのだろう。
そして、この地域は百穀があり黍を中心に穀物を栽培し、狩猟を行い、さらに「海外東經」では稻を栽培し冠を被って帯刀して、縄文土偶の頭には飾りが有る。
『山海經』
大荒東經
「東海之外大壑少昊之國・・・羲和者帝俊之妻・・・帝俊生中容・・・有君子之國其人衣冠帶劍・・・帝俊生晏龍晏龍生司幽・・・帝俊生帝鴻帝鴻生白民・・・帝俊生黑齒・・・黍食使四鳥・・・帝舜生戲・・・百穀所在」
海外東經
「君子國在其北衣冠帶劍・・・黑齒國在其北為人黑食稻啖蛇」

 「大荒東經」には『魏志倭人伝』に記述される「侏儒国」が「小人国」と記述されていて、「海外東經」には「扶桑国」と『梁書』の倭伝に出現する国名と共通する。
すなわち、「海外東經」は日本海の西端から見て東南の地域から東北で堯が葬られた山東半島の根本から見ると東の地域と記述され、そこからすべて方角は北に進む。
黒歯国は『三国志』で船行1年、『山海經』では5億歩以上で太陽が北に上ると記述されやはり南アメリカの内容なのだろうか。△印の国(君子国・ 黒歯国・湯谷)がその境となっているようで、日本列島の国々が倭と違う国として古くからある国として紹介されている。
そして、国と記述されている国々が羲和之国から勞民国まで君子之国と黑齒之国・青丘国の重複を除いた22国と東鯷国の20余国と合致し、無関係としてよいのだろうか。
『山海經』 
海外東經
  「海外自東南陬至東北陬者・・・在堯葬東。」
「青丘國在其北・・・一曰在朝陽北・・・自東極至于西極・・・五億十萬九千八百步 黑齒國在其北」
大荒東經
〔少昊之國(山東半島西の日の出る方向で東夷より東〕 
羲和之國(日月所出)→大人之國→〇小人國→蒍國(日月所出)→中容之國→△君子之國→司幽之國(日月所出)→白民之國→△青丘之國→維嬴土之國→△黑齒之國→夏州之國(日月所出)→蓋余之國→困民國→
上湯谷→壎民之國(日月所生)→中容之國(日月所出)→女和月母之國(止日月)
海外東經
〔海外自東南陬至東北陬 東南(堯を葬った東、君子国・ 黒歯国・湯谷 で交差)→東北〕
(+)丘→大人國()→奢比之尸()→△君子國()→こうこう()→朝陽之谷()→△青丘國()→豎亥(北 東極)→△黑齒國() △湯谷(=?)→〇扶桑(=西?)→十日()→雨師妾國()→玄股之國()→毛民之國()→勞民國()
『漢書』 卷二十八下 地理志第八下 呉地条
「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云」
『三国志』
「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里 又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至」

 倭は朝鮮半島の東南端を示しているがまだ国として記述されておらず、私はいわゆる弥生人の倭は大八島の国で日本列島の近辺の壱岐・対馬・隠岐の島前・五島列島・瀬戸内の島々を支配する国と述べてきた。
『山海經』は国としてまだ認めていないが、『日本書紀』の一書や『出雲國風土記』の記述でいわゆる弥生人が新羅から国を引いてきたり、新羅に天下って関係を示し、私の示す領域と矛盾しない。
矛盾どころか、記紀の神話ができる前から日本列島に国々が存在し、もちろん、この国々は縄文土器を作っていた人々で、その中の一部の倭人が朝鮮半島南東部から 姑射國より南のいくつかの島が倭人の島と考えることができる。
『遼史』には「渤海改爲蓋州,又改辰州,以辰韓得名」と渤海が蓋で、辰韓すなわち朝鮮半島が蓋国だったとしていて、その南の黄海にある地域が倭である。
中国でも日本でも倭が日本と考えて「大荒東經」は架空の国々で中国の神話と片付けてきたが、見方を変え素直に読み進むと他の文献と整合することが解る。
そして、中国人は「大荒東經」と「大荒東經」の国々を後に倭種の元の辰国領域と考え辰韓(新羅)の地を元の辰国と記述し、まだ国ではない倭と区別して中国は辰国に敬意を表し帝が存在する5帝の一人と同等の国として『山海經』を記述したようだ。 朝鮮の領域が西南端まで有るため、もし蓬萊山が勃海の近辺の済州島なら姑射國・大蟹・大鯾・明組邑は対馬・壱岐・隠岐になる。
『山海經』 
海內東經〔朝鮮半島から島嶼を南下して会稽までを記述〕
鉅燕→蓋國→朝鮮(列陽東,海北山南)
鉅燕→蓋國→倭(蓋國南)
列姑射(木浦?海河州中)→姑射國(海中)→大蟹(海中)→大鯾(海中)→明組邑(海中)→蓬萊山(海中)→大人之市(海中)→琅邪臺(海閒)→都州(海中)→韓鴈(南海中)→始鳩(南海中)→雷澤中(吳西)→會稽山(大楚南)
『日本書紀』一書
「素戔鳴尊帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處」
『出雲國風土記』
「所以号意宇者 国引坐八束水臣津野命詔・・・衾志羅紀乃三埼矣」
『漢書』 卷二十五下 郊祀志 第五
「臨勃海,將以望祀蓬萊之屬,幾至殊庭焉」
『遼史』 第三十八卷 志第八 地理志二
「辰州奉國軍節度 本高麗蓋牟城 唐太宗會李世攻破蓋牟城即此 渤海改爲蓋州又改辰州以辰韓得名」

2018年1月29日月曜日

最終兵器のミサ 海外文献 徐福伝説

  徐福伝説は邪馬台国と共に諸説かまびすしい話題だけど、誘致合戦の感情に訴えるだけの騒ぎになっていて、そこには科学など一つもなく、蓬萊山は富士山に決まっているというような論調だ。徐福は秦の始皇帝の時代の話で『史記』でも『後漢書』でも黄河流域から揚子江流域の話題として出現して、場所は東南方向にあるとか、会稽から出発と書かれてむつかしい船旅だ。『太平御覽』では沖縄を思わせ、沖縄に渡るには会稽出港は理にかない、沖縄に渡るには黒潮の横断が必要で古代船では余程の技術が無ければ漂流の憂き目にあい、うまくすれば日本の太平洋側に打ち上げられる可能性があるが、その場所が10世紀に呉の風俗に似ているとは思えない。
史記』 卷一百一十八 淮南衡山列傳 第五十八
使徐福入海求神異物・・・即從臣東南至蓬萊山・・・徐福得平原廣澤,止王不來
後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五
又有夷洲及澶洲傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海 求蓬萊神仙不得徐福畏誅不敢還遂止此洲丗丗相承有數萬家人民時至會稽市會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絕遠不可往來
太平御覽
紵嶼人 外國記曰 周詳泛海,落紵嶼。上多紵,有三千餘家,云是徐福僮男之後,風俗似吳人。

中国の東夷観は、史記では直接戦闘する相手で東夷と戦っている国は、中原や黎山が山西省、太室・殷・周・陳・睢が河南省、鄭が陝西省、魯・齊が山東省、楚が湖北省にあり、東夷は中国国内山東半島や水河口部を想定していて、漢代で初めて朝鮮北東部と思われる蒼海郡が東夷と呼ばれるようになった。魏長城・楚北城などの万里の長城は南北に走り、斉長城は山東半島に対しているように見られる。日本列島に行こうにも間に東夷が存在し、秦が征服したのは遼東半島西部までで山東半島部は最後の征服地だ。
『史記』
帝堯 請流共工於幽陵,以變北狄;放驩兜於崇山,以變南蠻;遷三苗於三危,以變西戎;殛鯀於羽山,以變東夷:四辠而天下咸服。
卷四 周本紀 第四
「成王既伐東夷,息慎來賀,王賜榮伯作賄息慎之命」
卷四十 楚世家 第十 
伍舉曰:「桀為有仍之會,有緡叛之。紂為黎山之會,東夷叛之。幽王為太室之盟,戎、翟叛之。」
春秋左傳 
僖公四年 「鄭申侯曰,師出於陳鄭之間,國必甚病,若出於東方,觀兵於東夷,循海而歸,其可也」
僖公十九年 「夏宋公使邾文公,用鄫子于次睢之社,欲以屬東夷」
文公五年 「打開字典 顯示相似段落 六人叛楚,即東夷,秋,楚成大心,仲歸,帥師滅六」
文公九年 「秋,楚公子朱自東夷伐陳,陳人敗之,獲公子茷,陳懼,乃及楚平。」
襄公二十六年 「而逸楚囚,楚師宵潰,晉降彭城,而歸諸宋,以魚石歸,楚失東夷,子辛死之」
襄公二十九年 「誰得治之,杞,夏餘也,而即東夷,魯,周公之後也,而睦於晉,以杞封魯」
昭公四年 「夏桀為仍之會,有緡叛之,商紂為黎之蒐,東夷叛之,周幽為大室之盟」
昭公五年 「冬,十月,楚子以諸侯及東夷伐吳,以報棘,櫟,麻,之役,薳射以繁揚之師」
昭公十一年 「・・・桀克有緡,以喪其國,紂克東夷,而隕其身,楚小位下,而亟暴於二王,能無咎乎」
哀公十九年 「秋,楚沈諸梁伐東夷,三夷男女,及楚師盟于敖」
『漢書』
「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫」
「東夷薉君南閭等口二十八萬人降,為蒼海郡」
「莽復奏曰太后秉統數年・・・越裳氏重譯獻白雉,黃支自三萬里貢生犀,東夷王度大海奉國珍」

更に徐福の向かった蓬萊山は『山海經』の「海内東經」に書かれていて、海内は渤海・黄海・東シナ海のことで、朝鮮半島から会稽山までのことが書かれ、『漢書』でも渤海に属すと書かれている。越とともに朝貢するまで会稽地域に有った越と交流していた倭人は周に越とともに朝貢していたため、倭人から聞いた蓬萊山を求めて、倭人から聞いた航路で会稽近辺から出発した。しかし、技術が無く難破して帰ることができなかったが、越の人々は倭人と共に沖縄と交流して呉の風俗が流入したのではないだろうか。中国文献を読めば蓬萊山は渤海・黄海に存在しそうで、済州島が第一候補になりそうだ。
『山海經』 海內東經
「鉅燕在東北陬・・・蓬萊山在海中・・・會稽山在大楚南」
『漢書』 卷二十五下 郊祀志 第五
「臨勃海,將以望祀蓬萊之屬,幾至殊庭焉」

2018年1月26日金曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察8

.金石文と飛鳥浄御原宮6

 資料15の美努岡万墓誌は730年建造で日本書紀どおり、684年の記述賜になっており、天武天皇・持統天皇・文武天皇・元明天皇・元正天皇・聖武天皇の区別がない。
文武天皇が藤原天皇、元正天皇を平城京天皇として、元明天皇を区別していないということは、文武天皇と元明天皇は共に藤原天皇ということになる。
資料15
美努岡万墓誌
我祖美努連岡連萬連飛鳥浄御原天皇御世甲申年正月十六日、勅賜連姓藤原宮御宇大行天皇御世大宝元年歳次辛丑五月、使乎唐国、平城宮治天下大行天皇御世、霊亀二年歳次丙辰正月五日、授従五位下、任主殿寮頭、神亀五年歳次戊辰十月廿日卒、春秋六十有七、其為人小人事帝、移考為忠、忠簡帝心、能秀臣下、成功廣業、照一代之高栄、陽名顕親、遺千歳之長跡、令聞難盡、餘慶無窮、仍作斯文、納置中墓、 天平二年歳次庚午十月廿日
日本書紀
天武天皇十三年春正月甲申朔庚子三野縣主。内藏衣縫造二氏賜姓曰連

以上、骨臓器銘文以外は日本書紀に合わないと作り直す可能性があり、720年以降日本書紀が完成後、日本書紀を確認しながらの年号指定を余儀なくされたのであろう。
以上705年以降になって藤原宮、後清原が出現するが、694年以前の対象時期は持統天皇・天武天皇どちらの時期も前後の飛鳥浄御原が出現せず、私が論証する通り、筑紫の郭務悰が統治する飛鳥浄御原が前で天武天皇が統治する飛鳥浄御原が後と考えることが妥当である。
少なくとも、日本書紀通りに読んでも天皇があいまいで、完全な形で持統天皇金石文に一つも出てこず、宮天皇が認知されていれば後代日本書紀が発布されても違和感を持つことがなかったし持統天皇は九州で在位していることが常識であったため、やはり違和感を持たなかった。
また、粟原寺鑪盤銘から文武天皇が仲臣氏の可能性が発見され、日本書紀は整合性に無頓着で、元明天皇の家系の経歴が天氏天皇家と継ればよかったのだ。
『薬師寺東塔の擦管』と『野中寺金銅弥勒菩薩台座框』のように金石文同士をすり合わせることによって、『日本書紀』の再評価が進むことも理解でき、これまで、『日本書紀』とあわない金石文を偽作と無視してきた学者は、金石文の再評価をすべきだ。
そして、日本書紀が完成した後の『美努岡万墓誌』の墓誌には日本書紀どおりだが、個々の天皇を区別しておらず、『日本書紀』の記述方法と同じ思想による記述方法で、私の言う「宮天皇」である。

2018年1月24日水曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察7

.金石文と飛鳥浄御原宮5

 資料14の薬師寺東塔の擦管は730年に建て替えられており730年はすでに日本書紀が知れ渡っており、日本書紀に合わせるための苦労が庚辰680年天皇即位九年を八年に誤まったかもしれない。
資料14
薬師寺東塔の擦管
維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕騰仙大上天皇奉遵前緒遂成斯業照先皇之弘誓光後帝之玄功道済郡生業傳劫式於高躅敢勒貞金其銘曰巍巍蕩蕩薬師如来大発誓願廣運慈哀猗・・・

 孝徳天皇は664年まで皇位にあって崩じ、天智天皇六年、667年天智天皇が即位したと 或本云の表記で伝えており、野中寺金銅弥勒菩薩台座框の銘文に666年天皇が大御身労とある。
藤氏家伝は白鳳5年「委皇太子」と天皇即位にはなっておらず、天智天皇の即位前紀に皇祖母が即位したとしているので、中宮天皇は嶋皇祖母で、そのための難波宮の東宮(本来天皇になるべき人物皇太弟)がいた場所小墾田宮に天智天皇は宮を遷した。
孝徳天皇の登遐が八月以降すぐのため麟德二年の訪中天皇は、天智天皇が引き続き摂政を継続しているため、中宮天皇が訪中したようで、そのため、新唐書に天豐財の実名表記なのではないか。
その後、天智天皇6年若しくは7年中宮天皇が天皇位を天智天皇に譲り、『薬師寺東塔の擦管』の太上天皇となり680年より前に崩じた。
天智天皇が東宮の宮に遷るのは当然で、古人皇子が失脚しているので最年長の皇子であり、中宮天皇は引き続き難波宮に都を置いた。
そして、前項で述べたように嶋皇祖母は薬師寺を建立してもらったが、嶋皇祖母は完成を待たずに崩じた。
『日本書紀』
白雉五年十月癸卯朔 皇太子聞天皇病疾。乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟公卿等。
天智天皇即位前紀 ・・・天萬豐日天皇後五年十月崩。明年皇祖母尊即天皇位
天智天皇三年 六月。嶋皇祖母命薨。
天智天皇七年正月丙戌朔戊子。皇太子即天皇位。或本云。六年歳次丁卯三月即位
『野中寺金銅弥勒菩薩台座框』
丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也
『薬師寺 東塔擦管銘』
維清原宮馭宇 天皇即位八年庚辰之歳建子之月以 中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕 騰仙大上天皇奉遵前緒遂成斯業・・・

 『薬師寺東塔の擦管』の内容も「其銘曰」と如何にも写したような言い回しで日本書紀と合わないために写し変えたか解らないが、建立しようとした天皇が崩じ、治癒を願った皇后が治癒して皇后が完成させたと意味不明な内容になっている。
実際は天智天皇を680年頃は維清原宮天皇と呼び、668年中宮天皇のために建立して治って大上天皇となったが完成前に崩じたの意味だ

2018年1月22日月曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察6

.金石文と飛鳥浄御原宮4

資料12の伊福吉部臣徳足比売墓誌 は710年の銘で707年二月従七位下賜で大村骨臓器銘文と同じ背景になり、705年以降は「藤原大宮御宇天皇」だ。
資料12
伊福吉部臣徳足比売墓誌 金石文字墨帖一覧
因幡国法美郡伊福吉部徳足比責臣
藤原大宮御宇大行天皇御世慶雲四年歳次丁未春二月二十五日従七位下被賜仕奉実
和銅元年歳次戊申秋七月一日卒也三年庚戊冬十月火葬即蹟此虚故末代君等不膳崩壊上件如前故謹録鐸和銅三年十一月十三日己未
続日本紀
慶雲四年二月甲午 天皇御大極殿。詔授成選人等位。親王已下五位已上。男女一百十人各有差。・・・

資料13の粟原寺鑪盤銘は715年に記述されたと思われる銘だが、なぜ、草壁皇子薨後5年(694年)に粟原寺建立で、なぜか建造に20年もかかり、なぜか藤原宮持統天皇「浄御原宮天下天皇」と記述し、なぜか唐突に臣下「比賣朝臣額田」が出現し、なぜか日本書紀では草壁皇子が続日本紀の「日並」なのか。
資料13
粟原寺鑪盤銘
此粟原寺者、仲臣朝臣大嶋、惶惶誓願、奉為大倭国浄御原宮天下天皇時、日並御宇東宮、
故造伽檻之、爾故比賣朝臣額田、以甲午年始、至和銅八年
日本書紀
天武天皇十二年十二月丙寅 遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。
天武天皇十三年十一月戊申朔
天武天皇十四年九月辛酉 ・・・是日。宮處王。難波王。竹田王。三國眞人友足。縣犬養宿禰大侶。大伴宿禰御行。境部宿禰石積。多朝臣品治。釆女朝臣竹羅。藤原朝臣大嶋。凡十人賜御衣袴。
持統三年四月乙未 皇太子草壁皇子尊薨

日本書紀どおりなら、持統天皇が文面に全く出現しないし、浄御原宮天下天皇が持統天皇なら後浄御原宮天下天皇と表記すべきで、大嶋の妻はこの銘が出自で、どうして持統天皇はすぐに栗原寺を建立出来なかったのか
新しい年表なら、大嶋が藤原姓を名乗る684年以前または695年以降は浄御原宮天下天皇だが、715年銘記なので、浄御原宮天下天皇の「時」が付加されており、日並が奈良天皇家の東宮で、比賣朝臣額田なる人物は解らず、文章を普通に読めば日並の親が大嶋すなわち日並の妻すなわち元明天皇が額田で文武天皇は臣下仲臣朝臣であり、政権を完全に掌握後建立したとしか読めない。
朝臣という姓が持統天皇や元明天皇の縁者では有り得ず、あっても真人で皇女や皇子などでなければいけない。
まとめると、大嶋が家督を継いだ浄御原宮天下天皇時681年頃から日並が跡取りだったが、694年薨じ、追悼の寺の建立を願ったが大嶋も卒し元明天皇が意思を継いで栗原寺を建立したということではないか。
それほど身分が高くない人物が薨じた皇太子のために寺を作る程の財力があるのだろうか。
豊御食炊屋姫は額田部で比賣朝臣額田と関係がありそうで、古事記では欽明天皇は蘇我氏と姻戚で、欽明天皇時に中臣連鎌子が急に出現し、以降中臣氏が活躍していて、タイミングが良すぎる。
寺の建立に臣下が名前を大々的に銘盤に記述することは考えられず、普通は臣下が建立したとしても天皇が命じて大嶋が建立したと記述して、天皇を持ち上げる記述があるはずで、比賣朝臣額田は不要である。

2018年1月19日金曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察5

.金石文と飛鳥浄御原宮3

資料11の大村骨臓器銘文は707年作成でありピッタリの対象時期である。
資料11
大村骨臓器銘文
卿諱大村。 檜前五百野宮御宇 天皇之四世。 後岡本聖朝、紫冠 威奈鏡公之第三子也。卿温良在性。恭倹為懐。簡而廉隅。柔而成立。後清原聖朝、初授務廣肆。藤原聖朝小納言闕。於是、高門貴兜、各望備員。天皇特擢卿、除小納言。授勤廣肆。居無幾進位直広肆以大宝元年律令初定更授従五位下仍兼侍従卿 ・・・(中略)・・・
以、慶雲四年歳在丁未四月廿四日。寝疾終、於越城。時年卌六。粤以其年冬十一月、乙未朔廿一日乙卯。帰葬。於大倭国葛木下郡山君里狛井山崗。・・・
日本書紀
天武天皇十三年十月己卯朔 是日。守山公。路公。高橋公。三國公。當麻公。茨城公。丹比公。猪名公。坂田公。羽田公。息長公。酒人公。山道公十三氏賜姓曰眞人。
続日本紀
大宝元年三月甲午 ・・・始依新令。改制官名位号。・・・
大宝元年五月癸酉朔 太政官處分。王臣五位已上上日。本司月終移式部。然後式部抄録。申送太政官。
大宝元年五月己亥 始改勤位已下之号。内外有位六位已下者。進階一級。
大宝元年七月戊戌 太政官處分。
大宝元年八月癸夘 ・・・五位下伊吉連博徳。伊余部連馬養撰定律令。
大宝元年八月甲辰 太政官處分。
大宝元年十一月乙酉 太政官處分。
大宝三年十一月癸夘 太政官處分。
大宝三年十月丁夘任 太上天皇御葬司。以二品穗積親王爲御裝長官。從四位下廣瀬王。正五位下石川朝臣宮麻呂。從五位下猪名眞人大村爲副。
慶雲元年十一月壬寅 始定藤原宮地。
慶雲三年閏正月庚戌 以從五位上猪名眞人大村。爲越後守。
和銅二年八月乙酉 廢銀錢。一行銅錢。」太政官處分。
和銅五年五月丙申 太政官處分。

銘文には天武天皇から与えられた「賜姓真人」に言及せず「清原聖朝」に「後」を冠して、初授としているのは、前「清原聖朝」の存在を表している。
持統天皇を後「清原聖朝」に当てているようだが、日本書紀どおりなら持統天皇は前「藤原聖朝」でもあるはずであり、後「藤原聖朝」が文武天皇である。
すなわち、704年に「定藤原宮」と決まったため705年から文武天皇を「藤原聖朝」といったのではないか。
したがって、藤原に遷都したという持統天皇抜きで、天武天皇が後「清原聖朝」となり前「清原聖朝」は天智天皇・大友太政大臣になる。
持統天皇・天武天皇紀に大村への務廣肆授号記事が無いので言及できないが、浄御原令発効後の681年以降683年初出が初授で、この頃が授号となり天武天皇が後「清原聖朝」と別に前「清原聖朝」を裏付ける。
しかし、700年より前に後「清原聖朝」が出現しないということは、それ以降に後「清原聖朝」が出現したと考えるほかない。
そして、701年のクーデターと大宝律令によっての「無幾進位」と4回の「太政官處分」との対応があり、701年の大混乱が解る。
日本書紀どおりなら、「藤原聖朝」に前後、「清原聖朝」に後は不要で、あちらを立てればこちらが立たずだが骨臓器銘文は後代に書き換えることはなく一番の資料となり、704年遷都の藤原宮を証明している

2018年1月17日水曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察4

.金石文飛鳥浄御原宮2

資料9の采女氏塋(うねめしのえい)域碑はいつ直大弐に昇進したかわからないため評価できないが、689年は持統天皇で、少なくとも天武天皇と持統天皇の前後飛鳥浄御原などの区別がされておらず、宮ごとで天皇を表記している。
資料9
采女氏塋域碑 
飛鳥浄原大朝廷大弁官直大貳采女竹良卿所請造墓所形浦山地四千代他人莫上毀木犯穢傍地也  己丑年十二月廿五日
日本書紀
「朱鳥元年九月甲子 ・・・次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事・・・」

新しい年表では689年の朝廷は大友皇子がいる天皇を付加していない飛鳥浄御原で間違いはないが、昇進時期が気になる。
資料10の文忌寸祢麻呂墓誌板が一番の難題で、壬申年672年に本当に政変があったなら、私の論は全くの空想になるが、逆に672年の壬申の乱を正当とすると私が述べてきた矛盾点が解消されない。
資料10
文忌寸祢麻呂墓誌板』
 壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒
『日本書紀』
天武天皇元年七月辛卯 ・・・且遣村國連男依。書首根麻呂。和珥部臣君手。膽香瓦臣安倍。率數萬衆。・・・
天武天皇十四年六月甲午 大倭連。葛城連。凡川内連。山背連。難波連。紀酒人連。倭漢連。河内漢連。秦連。大隅直。書連并十一氏賜姓曰忌寸。
持統六年十一月戊戌 務大貳川内忌寸連等祿。
『続日本紀』
文武二年四月壬寅 遣務廣貳文忌寸博士等八人于南嶋覓國。因給戎器。
大宝元年正月己丑。大納言正廣參大伴宿祢御行薨。帝甚悼惜之。
大宝元年七月壬辰 勅親王已下。准其官位賜食封。又壬申年功臣。隨功等第亦賜食封。並各有差。又勅。先朝論功行封時。賜村國小依百廿戸。當麻公國見。縣犬養連大侶。榎井連小君。書直知徳。書首尼麻呂。黄文造大伴。大伴連馬來田。大伴連御行阿倍普勢臣御主人。神麻加牟陀君兒首一十人各一百戸。若櫻部臣五百瀬。佐伯連大目。牟宜都君比呂。和爾部臣君手四人各八十戸。凡十五人。賞雖各異。而同居中第。宜依令四分之一傳子。又皇大妃。内親王。及女王。嬪封各有差。
大宝三年閏四月辛酉朔 是日。右大臣從二位阿倍朝臣御主人薨。遣正三位石上朝臣麻呂等弔賻之。
慶雲四年冬十月戊子。從四位下文忌寸祢麻呂卒。遣使宣詔。贈正四位上。並賻布。以壬申年功也。
霊亀二年夏四月癸丑。詔。壬申年功臣・・・贈正四位上文忌寸祢麻呂息正七位下馬養・・・
壬申の功生前恩賞
天武天皇十一年七月壬子。摩漏臣以壬申年之功贈大紫位及祿。更皇后賜物亦准官賜。
持統五年五月辛卯 褒美百濟淳武微子壬申年功、賜直大參。
持統七年九月壬寅。以直廣參贈蚊屋忌寸木間。并賜賻物。以褒壬申年之役功。
文武元年九月壬寅。賜勤大壹丸部臣君手直廣壹。壬申之功臣也。
文武三年五月辛酉。詔曰。圖勲之義。肇自前修。創功之賞。歴代斯重。蓋所以昭壯士之節。著不朽之名者也。汝坂上忌寸老。壬申年軍役。
大宝元年七月壬辰。勅親王已下。准其官位賜食封。又壬申年功臣。
大宝三年六月壬子。贈從五位下民忌寸大火正五位上。正六位上高田首新家從五位上。並遣使弔賻。以壬申年功也。

671年までにやってきた中国軍は体調の悪い天智天皇に対してお見舞いにでも来たのだろうか。
九州の饗応は持統天皇が続けても良いし九州が都なら天武天皇が筑紫で饗応する必要がないし、大宰府の朝堂院建築は何を意味するのだろうか。
軍果を受け取りに来ただけの軍で、大友皇子に天皇位を継がせたくなくて天武天皇に肩入れするための軍だったのだろうか。
しかし、史実は逆で、郭務悰が日本滞在中に皇太子を変更しているということは、郭務悰も望んだものであるから、大友皇子に継承されたことを確認して帰国したように思われ、しかも1年程度の駐留が妥当であろうか。
そして、壬申の乱という大きな事件があったにも関わらず、九州年号では元号を変えることなく白鳳が続いており、壬申の乱はやはり695年大友中国傀儡政権の打倒の成功日の壬申の勝利で、恩賞はほとんど死後に追賞で、最初が天武天皇5年、生前に送られた恩賞は天武天皇11年で本当に恩賞を与えたかすらわからない。
さらに、716年壬申の乱後44年もあとに子供に恩賞を与えているが、孫の間違いではないかと思われるぐらいで、701年の壬申の日のクーデターによる禅譲なら子供の世代であり、恩賞は翌月すぐにはじまり、701年のクーデターは形式上禅譲であるためどのように呼ぶことになったのだろう。
そして、文氏は天武天皇十四年685年に忌寸を賜姓されておらず、初出は持統九年695年で、祢麻呂は707年まで出現しないし671年では祢麻呂が将軍になるには若すぎ、実際に壬申の乱時には将軍と書かれていないし、大宝元年七月の記事に村國小依に連姓が付いていない。
持統天皇時、阿倍朝臣御主人(みうし)や大伴連御行(みゆき)は昇進しているが壬申の功の言及がなく、701年1月阿倍朝臣御主人は死亡時に右大臣を贈られているが壬申の功と書かれていない。
やはり、壬申の乱は701年2月29日壬申の日に吉野から帰った天皇がクーデタで追放された、壬申の勝利の日であった。

2018年1月15日月曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察3

.金石文飛鳥浄御原宮1
 金石文は後代に作り直すことがあり、骨臓器以外は要注意であるが、幸いなことにこの時代になるとたくさんの金石文が残っていて、理論との確認ができる。
資料6の小野毛人墓誌は677年葬となっているが、小野毛人は日本書紀に684年に朝臣を賜姓されている。
資料6
小野毛人墓誌
飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
日本書紀
天武天皇十三年十一月戊申朔 ・・・ 小野臣。 ・・・ 凡五十二氏賜姓曰朝臣

日本書紀は内容が前に記述されることは少ないし、日本書紀の記事の挿入場所天武天皇十三年以前には朝臣が出現しないので、作成日自体が朝臣賜姓後で、後追いで684年以降特に飛鳥浄御原宮治天下天皇の賜姓の朝臣を銘記したのだろう。
飛鳥浄御原宮治天下天皇は672年からで全く問題が無い。
資料7の長谷寺銅板法華説相図の降婁(こうろう)は686年のことを指しているとしているが、私が知るところでは確たる証拠があっての戌歳ではないようである。
降婁は普通十二次の2月を指す言葉であり、漆菟(しつと)という知識を持った人物が如何にも2月を意味する言葉を選択して戌年に当てることがあるのだろうか。少なくとも持統天皇は出現していない。
資料7
『長谷寺銅板法華説相図』
惟夫霊(應)□□□□□□□□ 立稱巳乖□□□□□□□□ 真身然大聖□□□□□□□ 不啚形表刹福□□□□□□ 日夕畢功。慈氏□□□□□□ 佛説若人起窣堵(波其量下如) 阿摩洛菓、以佛駄都(如芥子許、) 安置其中、樹以表刹(量如大針、) 上安相輪如小棗葉或造佛(像) 下如穬麦、此福無量。粤以、奉為天皇陛下、敬造千佛多寳佛塔。
上厝舎利、仲擬全身、下儀並坐。 諸佛方位、菩薩圍繞、聲聞獨覺翼聖、金剛師子振威。伏惟、聖帝 超金輪同逸多。真俗雙流、化度 无央。廌冀永保聖蹟、欲令不朽。
天地等固、法界无窮、莫若崇據 霊峯、星漢洞照、恒秘瑞巗、金石相堅。敬銘其辞曰遙哉上覺、至矣大仙、理歸絶妙、事通感縁、釋天真像、降茲豊山、鷲峯寳塔、涌此心泉。負錫来遊、調琴練行。披林晏坐、寧枕熟定。
乗斯勝善、同歸實相、壹投賢劫、倶値千聖。歳次降婁漆菟上旬、道明率引捌拾許人、奉為飛鳥清御原大宮治天下天皇敬造。

資料8の那須国造碑では持統天皇永昌元年689年のことを建造時に記述しているが、どうして藤原宮を銘記しないのだろうか。
資料8
『那須国造碑』
永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月二壬子日辰節殄故意斯麻呂
 等立碑銘偲云尓仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貮照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以曽子之家
无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固

日本書紀通りの歴史なら、碑を建造した700年に、天武天皇か持統天皇かわからないような飛鳥浄御原大宮天皇を使用する必要がなく695年以降なら藤原宮天皇もしくは後飛鳥浄御原大宮天皇とすればよい。
天武天皇から賜ったのなら年号も中国年号を使う必要がない。
これは、郭務悰が695年まで九州の都督府に滞在してい、都督府発の公示であったための中国年号使用で、大友皇子が朝廷を飛鳥浄御原で切り盛りしていた天皇を付加しない飛鳥浄御原大宮を記述し、天皇は近江にいた