2018年1月15日月曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察3

.金石文飛鳥浄御原宮1
 金石文は後代に作り直すことがあり、骨臓器以外は要注意であるが、幸いなことにこの時代になるとたくさんの金石文が残っていて、理論との確認ができる。
資料6の小野毛人墓誌は677年葬となっているが、小野毛人は日本書紀に684年に朝臣を賜姓されている。
資料6
小野毛人墓誌
飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
日本書紀
天武天皇十三年十一月戊申朔 ・・・ 小野臣。 ・・・ 凡五十二氏賜姓曰朝臣

日本書紀は内容が前に記述されることは少ないし、日本書紀の記事の挿入場所天武天皇十三年以前には朝臣が出現しないので、作成日自体が朝臣賜姓後で、後追いで684年以降特に飛鳥浄御原宮治天下天皇の賜姓の朝臣を銘記したのだろう。
飛鳥浄御原宮治天下天皇は672年からで全く問題が無い。
資料7の長谷寺銅板法華説相図の降婁(こうろう)は686年のことを指しているとしているが、私が知るところでは確たる証拠があっての戌歳ではないようである。
降婁は普通十二次の2月を指す言葉であり、漆菟(しつと)という知識を持った人物が如何にも2月を意味する言葉を選択して戌年に当てることがあるのだろうか。少なくとも持統天皇は出現していない。
資料7
『長谷寺銅板法華説相図』
惟夫霊(應)□□□□□□□□ 立稱巳乖□□□□□□□□ 真身然大聖□□□□□□□ 不啚形表刹福□□□□□□ 日夕畢功。慈氏□□□□□□ 佛説若人起窣堵(波其量下如) 阿摩洛菓、以佛駄都(如芥子許、) 安置其中、樹以表刹(量如大針、) 上安相輪如小棗葉或造佛(像) 下如穬麦、此福無量。粤以、奉為天皇陛下、敬造千佛多寳佛塔。
上厝舎利、仲擬全身、下儀並坐。 諸佛方位、菩薩圍繞、聲聞獨覺翼聖、金剛師子振威。伏惟、聖帝 超金輪同逸多。真俗雙流、化度 无央。廌冀永保聖蹟、欲令不朽。
天地等固、法界无窮、莫若崇據 霊峯、星漢洞照、恒秘瑞巗、金石相堅。敬銘其辞曰遙哉上覺、至矣大仙、理歸絶妙、事通感縁、釋天真像、降茲豊山、鷲峯寳塔、涌此心泉。負錫来遊、調琴練行。披林晏坐、寧枕熟定。
乗斯勝善、同歸實相、壹投賢劫、倶値千聖。歳次降婁漆菟上旬、道明率引捌拾許人、奉為飛鳥清御原大宮治天下天皇敬造。

資料8の那須国造碑では持統天皇永昌元年689年のことを建造時に記述しているが、どうして藤原宮を銘記しないのだろうか。
資料8
『那須国造碑』
永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月二壬子日辰節殄故意斯麻呂
 等立碑銘偲云尓仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貮照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以曽子之家
无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固

日本書紀通りの歴史なら、碑を建造した700年に、天武天皇か持統天皇かわからないような飛鳥浄御原大宮天皇を使用する必要がなく695年以降なら藤原宮天皇もしくは後飛鳥浄御原大宮天皇とすればよい。
天武天皇から賜ったのなら年号も中国年号を使う必要がない。
これは、郭務悰が695年まで九州の都督府に滞在してい、都督府発の公示であったための中国年号使用で、大友皇子が朝廷を飛鳥浄御原で切り盛りしていた天皇を付加しない飛鳥浄御原大宮を記述し、天皇は近江にいた

0 件のコメント:

コメントを投稿