2018年1月8日月曜日

最終兵器の古代史 天皇は宮の名前の証明3

5.宮天皇
 694年12月に遷った宮は「藤原」ではなく「飛鳥浄御原」だということは、「近江大津天皇」が694年まで在位したことになる。『日本書紀』では持統紀となって2代ずれてしまうが、『新唐書』で「次用明亦曰目多利思比孤」と「推古天皇」にあてている「タリシヒコ」が『用明天皇』と2代ずれている。
そして、『日本書紀』に「女曰酢香手姫皇女。歴三代以奉日神」と「用明天皇」の皇女が37年間斎王となっているが、「用明天皇」の在位期間が2年でその後の崇峻・推古とまたがって斎王職を務めて本来の形ではないが「推古天皇」が「用明天皇」ならこれもピタリと合致する。
ということは、「天智天皇」は49歳まで生存して、『藤氏家伝』に「冬十一月 天皇喪至自朝倉宮 殯于飛鳥川原 十四年 皇太子攝政」と摂政になったのが17歳、その理由は『日本書紀』に「是時東宮開別皇子年十六而誄之」と「舒明天皇」13年に太子が16歳と書いてあり、『藤氏家伝』に天皇名を書いていない。
しかし、天皇の死亡を13年と書いているので斉明7年ではなく舒明13年が661年となり、「皇極・孝徳・斉明天皇」が662年から694年までに埋もれてしまうことになる。
ということは、「天智天皇」を含めて4人が1人の天皇だということになり、これらの天皇は小墾田天皇・後岡本天皇・飛鳥板盖宮天皇・近江大津宮天皇と呼ぶ事が出来る。
すなわち、「天智天皇」がこれらの宮に遷都したと考えられ、『日本書紀』は複数の天皇を1人に、1人の天皇を複数の天皇にしていることが解り、私はこれを宮天皇と呼んでいる。

6.『古事記』の天皇
 このことから、『古事記』も当然2代ずれなければならなず、『日本書紀』では「豊浦宮」にも拘らず『古事記』の「小治田宮」の「推古天皇」は『日本書紀』の「皇極天皇」の宮「小墾田天皇」から始まる「天智天皇」となって宮の一致は偶然とは思えない。
『船王後墓誌』には「生於乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇」というように「譯語田・豊浦・飛鳥」と記述され「小墾田宮」は記述されないことも2代のズレを物語っている。
『古事記』は「元明天皇」の前々代の「元明天皇」の夫またはその父までの歴史を記述していて、天智天皇と違う系図を持った元明天皇が存在している。
しかし、『日本書紀』は「元明天皇」の家系でなく、『古事記』も以前の政権の『帝皇日継』と『先代旧辞』を写したと言っているのだからさらにもう一つ天皇だった家系が有ることを示している。
神話から「天御中主」を主神とする淡島出身の王から王位を奪った淡路島出身の「大物主」を祀る地域を奪って建国した家系と「國常立尊」を主神とする淡路洲の王から王位を奪った大日本豐秋津洲出身の「事代主」を祀る地域を奪って建国した家系の王朝が有ったということが解る。

7.結語
 以上のとおり、実は『日本書紀』と『古事記』が同一の天皇を記述したと考えられていたが、実際は古事記は2代少ない天皇しか書かれていないことがわかった。
どこかに2代分まとめた天皇があるか、『日本書紀』の天皇が2代分分割されているか、さらに、もっと多くの天皇が複数の宮を持ち、複数の天皇が複数の天皇をまとめて書いていることになる。
紀伝体の資料しか持っていない「元明天皇」は編年体に当てはめる作業によって矛盾のある『日本書紀』を創って、紀伝体の資料の部分が移動してしまった。
「平群眞鳥大臣」の子「鮪」の事件が『日本書紀』では「武烈天皇」前紀すなわち「仁賢天皇」の時代に書かれていて、『古事記』では2代前の「清寧天皇」の時代に書かれていて『古事記』と『日本書紀』の間に2代のズレがある。
なお、以前報告した通り、700年建造した『那須国造碑』以前には「藤原宮」が出現せず、707年作成 『大村骨臓器銘文』、710年作成『伊福吉部臣徳足比売墓誌』には「藤原」が出現して704年「藤原」遷都を否定していない。
しかし、『日本書紀』に「都城宮室非一處。必造兩參。故先欲都難波」と683年に宮を2・3造ると宣言してまず「難波」を造って、692年に「藤原宮」を建造するため地鎮祭を行っているので、695年に「藤原京」が完成していたのは間違いはない。
藤原宮の名も694年の天智天皇崩なら鎌足薨は692年で「賜姓爲藤原氏」と無関係と思えず、藤原賜姓後藤原京と臣下の姓を都の名前にすることは奇妙だが、都の名前を姓に与えることは臣下にとって最高の栄誉となる。
『日本書紀』は「宮天皇」という時計の箱を作り、そこに複数の王を当てはめた、または、分割した史書だということが解る。

0 件のコメント:

コメントを投稿