2018年2月28日水曜日

終兵器のミサ 「邪馬台国論争」の論文解説5

4.邪馬台国の考察
 『三国志』が正しい場合の邪馬台国を考えてみた。

従って、「千餘家」の「不彌国」の南に「二萬餘戸」の「奴国」と「七萬餘戸」の「邪馬台国」、国境が東西9、南北1の長方形の地域を探さなければならない。
「不彌国」の南に国境間0里が「邪馬台国」なのだから、「不彌国」がわかれば「邪馬台国」もわかり、何としても探さなければならない。
  不彌国の南が邪馬台国なのだから不彌国が解れば邪馬台国がわかり、不彌国南には奴国と邪馬台国がある細長い国が無ければならない。

「千餘家」の90倍の「九萬餘戸」、短径の1辺と長径の1辺が9から10倍なのだから東西に細長い地域でなればならないのだが、そんな場所が博多湾には存在し、能古島、志賀島、海の中道の地域である。
糸島半島東南端の博多湾で「伊都国」と5Km空いた国境を持ち、南に博多湾をはさんで「奴国」が有り、海の中道で糟屋郡や東区と接する地域で、国境間の距離0里、従って、「邪馬台国」は糟屋郡、東区、博多区と『三国志』は述べている。
 足りない里数は後程証明するが、『三国志』を正しいと考えると不彌国は博多湾に浮かぶ島と博多湾に突き出る半島しか有り得ない。

実態として「不彌国」が博多湾岸も領地で、「奴国」をとおらないで「邪馬台国」に着いたか、博多湾岸が領地でなく「奴国」をとおって着いたか、船を使ったか『三国志』には「東行」と書くのみでわからないが、「不彌国」から南なのだから海の中道経由なのだろう。(図2)
 博多湾は北東に海岸線を持つためほとんどの場所で南は奴国になってしまい、海の中道の付け根以外南に邪馬台国は無い。

「邪馬台国」が朝倉や小郡も可能性無しとは言えないが『日本書紀』の「曰御笠」の文面から「南有狗奴国」と「狗奴国」の可能性が高いが、筑後川を挟んだ対立でも『日本書紀』と内容がかけ離れてはいない。(図3)
邪馬台国が博多湾以外も一応別の可能性を考えている。
しかし、『三国志』の「東南至奴国百里」と動詞のない、行かない「奴国」と「東行至不彌国百里」の動詞のある、行く「不彌国」の違いと、同じ『三国志』内のそれぞれの類例が最大のネックとなる。
動詞を省略する場合は類例で、目的地「邪馬台国」に対して「南至邪馬壹」のように、「到着」の意味で「奴国」が目的地になってしまうし、「投馬国」は「南水行二十曰到投馬」ではなく「南至投馬國水行二十曰」とわざわざ別文にし、「黒歯国」は「船行一年可至」と書いて「黒歯国」に行っていない。
 古田説の至の類例を再説明し、至の類例が間違いという文面を探し出さない限り否定できないことを述べている。

「不彌国」が大宰府では、大まかに「奴国」の東との記述になるが「奴国」の東南どちらかと言えば南に「不彌国」になって微妙であり、『三国志』は東と東南を区別しており、さらに、女王が戦場となる不安定な場所に都を持つことは考えられない。
 至を否定したとしても方角も間違いとしなければ論理が成り立たないと述べている。

また、「梁」が「不彌国」から「投馬国」さらに「邪馬台国」とはるか南方にして「邪馬台国が朝倉・小郡」を否定する理由がなく、「梁」が倭の里単位を信用した間違いで、『隋書』が「夷人不知里數」と「倭国の里程は里数を知らず間違い」と同時代史書が『梁書』の「倭国里程」を否定している数少ない類例だ。
 『梁書』は『三国志』を否定しても不彌国を海岸線の国とであることは理解して、『梁書』は「邪馬台国が朝倉・小郡」を否定していて、『隋書』は『梁書』が間違いで倭人は里単位を知らないから合わないと証言している。

唐時代、既に倭国の里単位が違うことが解っていても、対象の時代の目を通して史書を記述していることがよくわかり、『後漢書』も『三国志』の写し間違いでなく、「後漢」時代の目で見た「邪馬台国」と考えるべきで、後漢時代には邪馬台国と呼ばれ、魏・晋時代には邪馬壱国と呼ばれていた。
中国史書は史書を書く時代では異なる里単位・異なる国名でも対象の時代をもとに書いていることを述べた。









2018年2月26日月曜日

終兵器のミサ 「邪馬台国論争」の論文解説4

3.古田説の考察2
ところが、同じように国境間で読み従うと、「伊都国」東南の「奴国」は日向峠をこえた福岡市西区・早良区・城南区あたりとなるが、千餘家の同じく福岡市西区北端の「不彌国」の南はやはり福岡市西区を含む「二萬餘戸」の「奴国」になってしまう。
 これも古田説の矛盾で不彌国が奴国より広い時のみ邪馬台国が不彌国の南になる。

「不彌国」を人口1千万のベルギーとすると人口6千万のフランス3.5国分と人口8千万のドイツの9国分がベルギーの南に接していると表現していることと同じで常識外れの論理になって、その疑義は『梁書』に現れた。
 千戸の不彌国の南に2万戸の奴国と7万戸の邪馬台国を現代の感覚で例示した。

訪日していない「梁」は「倭国」を琉球の地にしてしまい、同時期に書かれた『隋書』では「裴淸」が訪日しているため、「夷人不知里數但計以日」と「隋」の里単位と合わずに里程を知らないと決めつけたが、「倭」の里単位と「隋」の里単位が違う旧南朝の里単位を「倭」がまだ使っているという意味で、距離も「古云」と記述して「隋朝」の里単位と異なるとしめしている。
  梁と隋の日本の里単位に対する印象の差を述べ、唐初に書かれた史書間に日本の里単位のとらえ方に差があり、差の理由である来日と伝聞の違いを述べた。

同時代に書かれた『梁書』に日本人の距離を述べた「其國有沙門慧深來至荊州 説云 扶桑在大漢國東二萬餘里」と記述があり、倭人が距離を知らないことを否定しているので、来日した「隋」が倭人の距離の話を知らないはずがない。
 倭人は訪中し、また隋使節が倭を訪問しているのだから古云を確認しているはずで、確認したから距離が違うと考えた。

もちろん「梁」でも倭と里単位が違うようで、1万2千里を陸行1月水行10日では足りないため、はるか南方と考えているが、この疑義も「不彌国」の位置に疑いがあるため発生したことで、土地勘があれば『隋書』のように里単位を知らないと記述したと思われる。
 『隋書』が『梁書』の日本国内の里単位を否定し、『梁書』のみが不彌国まででは1万2千里に遠く及ばないから、投馬国から更に10日水行・1月陸行を付け加え、合計水行40日・陸行2月にしてそれでも着かないが長里に合わせたと述べた。

そして、古田説の詳細な調査による、「奴国傍線行程」の理論は論理的で、「至」の類例が有り、否定する論証はかなり困難で、同時代の文献にこの類例は間違いと言及した文を探し出さない限り否定できない。
 古田説の良い点は『三国志』が正しいと述べたことと『三国志』を徹底的に調査した点で、科学的に調査したものは正しいとした。『三国志』が正しければ証拠とできる。

また、「奴国」の東に「不彌国」があっても、「不彌国」は小さすぎて、「奴国」の東または南に「邪馬台国」が存在し、「不彌国」を記述する意味がない。
「奴国」の東ではなく東南にして「不彌国」を南方の大宰府市に移動すると「邪馬台国」は小郡や朝倉だが、『日本書紀』に「皇后欲撃熊鷲而自橿日宮遷于松峽宮時飄風忽起御笠堕風故時人号其處曰御笠也」と記述され、「不彌国」にある御笠は戦いの最前線で、首都が戦いの中では訪中も来日もできない。
  一応、不彌国を奴国の東とした場合の矛盾を述べ、やはり『三国志』を書き換えないとどの説も証明できない。

2018年2月23日金曜日

最終兵器のミサ 「邪馬台国論争」の論文解説3

3.古田説の考察1
 古田説・九州説の検証

  そこで、古田説が出現し、『三国志』は正しいと論じ「半周読法」と「奴国傍線行程」の理論を主張するのであるが、古田説も「邪馬台国」を「須玖岡本」にしたいだけの説であった。
 古田説も本人は違うと言うが最初から邪馬台国の場所を決めた理論だったと述べた。

「千餘戸」の「伊都国」と「二萬餘戸」の「奴国」を2百里10Km四方で古田説なら150里四方しかない糸島平野に押し込んでしまう離れ業を持ち出し、「伊都国」と「奴国」の中心の距離が100里5Km、古田説なら7Kmで2国の半分100里×200里に1万5百戸を、「伊都国」だけなら1Km四方程度に1千戸を押し込め、超過密都市とし、農地など確保できるはずもない。
 論理的に中心間5Km×10Kmに2国の半数しかも伊都国東南奴国なのだから2.5Km×Km未満に5百戸、人口比1:40だから50m四方に千戸も住むことになる。

そもそも、中心距離なら「伊都国」東南百里で「奴国」なら「伊都国」東百里も「奴国」で「不彌国」など有り得ないから、壱岐を3Kmも浸食させて弥生時代の国と国の距離を少しでも拡げようとしたのに過ぎず、3Km浸食を証明しなければこの論理は使用できないし、中心間の距離なら島反周巡りの意味が無い。
 古田氏が1里70m位にした理由と中心間距離なら対馬と壱岐の中心間が千里なのだから壱岐内の300里の中心までの150里は千里の中に収まってしまい、松浦までも同様で千里の中に150里が収まる。

朝鮮半島で補正したと述べているが、国境の距離が朝鮮半島横断の直線であったのか疑問で、距離は長くなればなるほど誤差が膨らみ、『後漢書』に「各在山海閒 地合方四千餘里 東西以海為限」とあることから朝鮮半島方4千里が200から340Kmで、最大10里イコール0.85Km、これに従うと壱岐の直径が25Kmになってしまう。(参考韓地)
古代は距離が概数に過ぎないとたかをくくって自説に合うようにゴム紐で測るように操作することは科学的でなく、まずは現代の絶対値を基準に古代の距離を推定しなければ、議論がまとまるはずがない。
壱岐が浸食されて小さくなったかもしれないが、まずは現代の大きさを基準にすべきで、現代の基準で証明できないときに前提が間違いとして変更すればよい。
 糸島に「伊都国」と「奴国」を持ってくるのは無謀だ。100里7Kmの証明不足で、100里7Kmとピタリとくる場所がない。仮説と言えども論理的・実験的数値をもとに考えなければ仮説とも言えないことを主張した。

古田説は国境間の距離にすると「奴国」が糸島平野に収まらないための窮余の論理で、「伊都国」を現代のローマの中の法王の国のバチカン市国のようにしないと、「奴国」の2万戸を押し込められなかった。(参考古田説概念図)
「狗邪韓国」から「對海国」、「對海国」から「一大国」、「一大国」から「末廬国」とすべて水行で国境から国境と読めるのに、「奴国」と「伊都国」のみ辻褄合わせに国の中心間の距離にしてしまう節操のなさである。
 古田説が正しいとしたときの矛盾点を述べた。

2018年2月21日水曜日

最終兵器のミサ 「邪馬台国論争」の論文解説2


2.邪馬台国への行程の考察
 「邪馬台国論争」批判のため『三国志』の行程を検討した。
壱岐の直径は16Km弱、対馬は長径70Km弱と短径15Km弱で、島全体で1国か複数の国かわらないが、朝鮮から対馬が最短で55Km強、接点経路で最短80Km強、対馬と壱岐は最短55Km弱、接点経路で最短60Km弱、壱岐から唐津が最短40Km、接点経路の最短45Km強ですべて千里と書かれている。
 千里の道程を地図で距離を測定し、最大値と最小値を全部水行と島内歩行も調べてみた。

里単位を長里だいや短里で1里70mといろいろ述べられているが、私たちの目に映る現実では1里50m強とする以外、壱岐の直径が16Km弱という事実がある以上動かすごとができない事実である。
 壱岐島の直径が最大16Kmで方3百里という事実が厳然と有り、3百里が間違いとしない限り1里50~60mとなり、これが私の仮説で、論理に整合性が無ければこの仮説が否定される。

すなわち、千里は50Kmくらいで、接点間の距離では最大千6百里と1.5倍になり百里にこだわった、「張政」を送り込んで行程をよく知っている『三国志』としては大雑把すぎるので、国境の最短距離と考えた方が合理的で、到着地から出発地の間は陸行でないと辻褄があわない。
 1里50mなのだから、接点間の行程は正しいとは考えられないが、どちらの説も否定せず検討する。

仮に接点を通るすべて水行とすると、「奴国」からの残余1400里は70Km程度で「不彌国」を各説に有利なように想定して、福岡市から南方向で測ると大牟田市近辺で、筑後山門までの千里程度をとおりこし、東方向とすると直線で北九州市になり大和に足りず、大和なら直線でも1万里となり、大牟田や北九州では鏡、絹、古墳、環濠集落が合わない。(図1)
 接点行程で島内歩行を否定すると1400里(70Km)を検討しなければならず、実際に地図上で従来説に有利なように検討したが、従来説の地域は距離が合わないことが解った。

さらに、仮に「奴国」からの残余1400里のみ長里にすると、東方向は大和辺りにできるが、水行の日数が「投馬国」まで二十日(330Km)とされているので水行十日(150Km)以上、または、陸行を含めると着船場所もわからないし、1月もかからず、「伊都国」から1400里は筑後山門も奈良大和も行程では証明できない。
 畿内説に有利な部分長里でも地図上では合わない。

そこで、水行十日を一月の間違いとさらに都合よく間違わせるのであり、「投馬国」の南1万2千里では沖縄になってしまい、水行十日では着きそうもなく、陸行で1月も歩くところが無く、国名も「琉球国」で「倭国」とは言えない。
「投馬国」を東行にすれば、「不彌国」から東でよく、「投馬国」を記述した必要性、なぜ西回りの水行にしたかが問われてしまう。
 現行説では到底目的地に到着できないことが解るので、好き放題に文字を書き換えていることを説明している。

一層のこと、全部書き換えた方が早く、距離は千里で「山門国」の間違いだ、東1万2千里で「大和国」の間違いだとすれば良いのだが、これでは身も蓋もないからだれも論じないが、従来説は同じことを、言い方を変えて論じている。
 従来説は全て『三国志』を書き換えてしまっているのと同じだと論じている。

しかも、『後漢書』も『梁書』も『隋書』もすべて「倭国」まで「樂浪郡徼去其國萬二千里」、「去帶方萬二千餘里」、「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在」と全て郡から「倭国」まで『三国志』と同じ「自郡至女王國萬二千餘里」と「郡」から「倭国」まで1万2千里なので『三国志』を認証している。
 『後漢書』から『隋書』まですべて一萬二千里でその間の史書は全て否定していないことを述べ、『三国志』が間違いなら、この間の史書は全て間違いになってしまい、証明に使える史書が無くなってしまう。

『旧唐書』で「多自矜大 不以實對 故中国疑焉」と疑いながらも、初めて「去京師一萬四千里」と「西安市」から「郡」の直線千5百Km、「福岡」から「大和」まで直線5百Kmとして2千里増やしたが、2千里と2千Kmでは1万2千里と合わせて1万4千Kmになるが、西安から大和を通り越してシカゴまで行ってしまい、すなわち里単位が変わり、唐朝では「西安・大和」間の約3千5百Kmで一萬四千里だったことがわかる。
 遅くとも梁時代から変わった中国の里単位だったが『梁書』・『隋書』はそのまま日本の言い分を使い、唐時代から倭国に対する里単位が変わったことを述べた。


2018年2月19日月曜日

最終兵器のミサ 「邪馬台国論争」の論文解説1・・ 『全国邪馬台国連絡協議会』でのWEB発表登録論文解説

 
『全国邪馬台国連絡協議会』でWEB発表したが、全く反論が無く、解りにくいのか、無視されているのか解らないので、まずは解りやすいように解説してみた。
古代史の発信者は自分の言いたいことだけ言って満足しているだけの世界で、批判が有ってもどこ吹く風の有様で、結論を得たいと思っている発表者がいないのが現状、何とかそれを打開して議論が噛み合うことを期待しています。

表題『古田「ヤマダイ」国論争から「ヤマタイ大嘘八百」論争まで ・・・・・邪馬台国論争は既に終わっている』
 まず、表題だが、これは、古田説の邪馬壱国論争から訳の分からない説まですべて論争に対して、論争などしなくても結論が出ないのは前提そのもの・仮説が間違いだから結論が出ないだけで、その仮説・前提は宣長や白石の前提の文字合わせや『古事記』のみ正しくて『三国志』や『日本書紀』が間違いという仮説が間違いだから結論が出ないだけで、『三国志』や『日本書紀』は間違いではないと仮説を置くべきで、その仮説で論証した書物が『日本書紀』だという意味で表題を決定した。

1.邪馬台国論争の背景
 題のとおりで邪馬台国論争の背景をまず述べる。

日本中の多くの古代史愛好家が熱中している「邪馬台国論争」を江戸時代から延々と続けてきたが、いまだに決着がつかず、「邪馬台国」はご当地ソングのように全国津々浦々に存在しする。
 論争が収束するどころか数えきれないほど候補地が有り、論者は一切聞く耳を持たず、まくし立てるだけで、内容は自己陶酔に陥っているだけという有様で、しかも、一つの閃きとほとんどの他人の理論の受け売りの状況ということで、「台」だろうと「壱」だろうとこの有様である。

決着がつかない理由は簡単で、それは、「『三国志』は間違い」と決めつけたからで、『三国志』が間違いならどこを「邪馬台国」にしても否定できない。
 原因は仮説の間違いで、対象の書物を間違いとすると、その他に史実はどこにも書いて無く、間違いを前提の内容は妄想だから何とでも言えるが、間違いの証拠など、『三国志』にここは間違いと記述されているはずがなく、後代の書物の真偽や後代の北朝の読みを含んだ文字が魏代と同じかも証明できず、考古物の年代を決めつけて否定する程度で、考古物の年代も古書の内容から編年していて正しいかどうか解らない。

なぜ『三国志』を間違いにするかと言えば、『三国志』どおりであれば奈良大和に、筑後山門に、須玖岡本に、その他に「邪馬台国」を誘致できないからだ。
 『三国志』を間違いにする理由は最初に候補地有りきなので、それに合うように記事を書き換える。

そして、どの説も共通して間違いは行程で、方角、距離、日数のみ間違いとする一方、鏡、金印、絹をもらったこと、環濠集落、城柵、古墳があることは全員すべて正しい。
 『三国志』が間違いとする説の評価で、候補地に邪馬台国を持って行きたいから行程のみ間違いとしていると述べた。

これも当然で、これも間違っていたら三角縁神獣鏡も漢式鏡も纏向遺跡も吉野ケ里遺跡も箸墓古墳も須玖岡本古墳も「邪馬台国」の証拠にできないからで、出土しなくても盗られた、そのうち出土すると言い逃れる。
 邪馬台国の位置を証明するためには考古学的遺物は正しくないといけないため行程以外は正しいと、論証なしに決めつけていて、本来なら、間違いを証明すると同時に、正しいことも証明しなければ、論理的とは言えないということだ。

遺跡も無関係になると、「山田太郎・次郎」ではないが、「ヤマダイ(ヤマイチ)」国から「ヤマタ八百万」・「ヤマタ大嘘八百」国まで存在することになり、「邪馬台国論争」は自説に都合のよい論理から成り立っている。
 現状の「邪馬台国論争」の無意味さ・相手にする必要ない論理と述べた。

ある説は「不彌国の南は東の間違いで邪馬台国は省略された長里1300里先だ」、違う説は「不彌国の南は合っていて邪馬台国は省略された短里1300里先だ」と言いあうが、お互いに相いれるはずがない。
 反対説は違う部分が間違いで違う部分が正しいのだから平行線のままと述べた。

そのため、マスコミも「親魏倭王」の金印が出ない限り決着しないので永遠に決着しないと揶揄しているが、もちろん、出土しても「漢委奴國王」印とおなじように盗まれた、落としたなどと言い張るだろう。
ここが「邪馬台国」、ここが「卑弥呼」の墓と銘板があっても、偽造だと言って自説を曲げない人がいるかもしれない。
 現状の「邪馬台国論争」の漫画チックな内容をマスコミも含めて揶揄してみた。

2018年2月16日金曜日

最終兵器のミサ 遣唐使

 小野臣妹子は遣隋使と授業で習うが、『日本書紀』に隋は出てこず、「推古天皇十五年 秋七月戊申朔庚戌 大禮小野臣妹子遣於大唐」と唐になっていて、「大唐使人裴世清」と『日本書紀』に記述され、『隋書』に「大業三年・・・明年,上遣文林郎裴世清使倭國」と『三国史記』の「百済本記 武王九年・・・隋文林郞裴淸奉使倭國 經我國南路」と608年に記述されて「隋使裴世清」が共通でだ。
やはり『日本書紀』は間違いが多いと「唐」と「隋」の間違いを主張するのが古代史研究家だが、私は間違いと切り捨てないで、少しばかり検証してみたい。
小野家は珍しく「妹子・毛人・毛野」の3代の記録が残り、特に「毛人」は墓誌が残っていて確実な同時代資料だが、後代に作り直した可能性が無いとは言えない。
『小野毛人墓誌』は「小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と677年12月に「毛人」を葬し、官位は「太政官兼刑部大卿位大錦上」で、姓は「朝臣」と彫られている。
しかし、「大錦上」は「白雉五年・・・遣大唐押使大錦上高向史玄理」・「天智三年春二月己卯朔丁亥・・・宣増換冠倍位階・・・其冠有廿六階・・・大錦上」・「天武天皇十四年・・・丁卯更改爵位之號仍増加階級明位階淨位四階毎階有大廣并十二階」と654年は制定記事が無く不明だが、664年から685年まで使われていて間違いない。
しかし、『続日本紀』には「和銅七年四月辛未・・・小野朝臣毛野薨小治田朝大徳冠妹子之孫 小錦中毛人之子也」と記述され、「朝臣」は「天武天皇十三年十一月戊申朔 小野臣・・・凡五十二氏賜姓曰朝臣」と684年施行で「そら間違い・偽作」と聞こえてきそうだ。
しかし、将来導入される官位を間違えたり偽造することは有り得ず、後代作成なら「朝臣」を書く必要が無いし、「大錦上」と嘘を彫っても周辺には嘘と知れ渡る。
従って、一番可能性があるのは、「朝臣」施行が677年以前で、実際に「大錦上」だったが、資料がなくなり、『続日本紀』が書けなかったか後で格下げした。
二番目の可能性が「朝臣」施行後作り替え、他は同様で、「大錦上」は実際に「大錦上」だったが、資料がなくなり、『続日本紀』が書けなかったか後で格下げしたと考えられるが、同格の高向玄理は「白雉五年二月遣大唐押使大錦上高向史玄理」と大錦上だ。
地位も「妹子」が「大徳」で最高位、「毛人」が「 大錦上」で7番目「小錦中」なら11番目、「毛野」は「從三位」6番目の大出世で、3人ともみな大出世して、「毛野」は「持統九年七月辛未賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野」と16番目からの特大出世、特に大宝のクーデタ前に5年かけて「文武四年十月己未 直廣參小野朝臣毛野爲大貳」と2階級昇進に過ぎなかった。
ところが、「大宝二年從四位下」・「慶雲二年十一月己夘以正四位上」と3年で14番目から10番目に特進していて、このクーデターは外交がかなり寄与したことが伺える。
そして、「妹子」は遣隋使の時「推古天皇十五年秋七月戊申朔庚戌大禮小野臣妹子遣於大唐」と「大礼」で死亡時に「大徳」と4階級特進しているということは、「遣唐使」で活躍して「遣隋使」の失敗を挽回したか、「遣隋使」の時はまだ若く下っ端で「遣唐使」で活躍した可能性、もちろん、別国の出来事の可能性もある。
「隋」とは「於是設宴享以遣淸 復令使者随淸來貢方物 此後遂絶」と絶縁されてしまったのだから大失敗なのに特進することは有り得ないのに特進しているのだから後者、特に責任者で失敗すればチャンスは有り得ず別国の可能性大と思われ、しかも、「毛野」は714年に大出世して薨しているので、妹子も平均寿命より長くても60才頃死亡と考えられる。
「毛人」は「小錦中 」とするなら高位でもないことから50才頃の死亡とすると、「毛野」は20代の子供で、同じような考えで、「妹子」が20代の子が「毛人」とすると、「妹子」は600年頃の誕生となり、607年の「遣隋使」は子供、30代の子としても外交責任者とは考えられず遣使できない。
「妹子」に随行して留学した「高向玄理」は「白雉五年二月遣大唐押使大錦上高向史玄理」と「大使」より偉い「押使」で「大錦上」の7番目の「毛人」と同待遇で「白雉五年二月押使高向玄理卒於大唐」と654年に渡航先で急死しているので、40代後半の死亡と考えられる。
「妹子」が大使として訪唐した時、「遣於唐國學生・・・高向漢人玄理」と「玄理」が学生として随行し、647年までに「妹子」は「大徳」の地位で死亡し、648年の訪唐から「玄理」が外交責任者になったと考えられる。
「妹子」は630年に「舒明天皇二年八月丁酉大仁藥師惠日遣於大唐」と「 大仁藥師惠日」と共に「遣於大唐」して絶縁状態の唐から「高表仁」が来日して訪唐を成功させ、この時、「玄理」が随行したので640年に「舒明天皇十二年十月乙亥 學生高向漢人玄理傳新羅而至之」と10年後に帰国したのではないか。
「玄理」が608年に訪中していたとしたら、654年の死亡時は70才を超えて、訪中は困難なのは疑いようが無く、仮に責任者とするなら、「紫冠」を与えてもよさそうだ。
「遣隋使 小野妹子」は別人の誰かとまとめて記述したもので、隋に絶縁される失態を犯した人物が「推古天皇十六年四月 小野臣妹子至自大唐 唐國號妹子臣曰蘇因高」と「蘇因高」などと名前を付けてもらって喜んでいる場合ではなく、「舒明天皇二年八月丁酉大仁藥師惠日遣於大唐」と630年の訪唐時に「蘇因高」名を貰ったのだろう。

2018年2月14日水曜日

最終兵器のミサ 『日本書紀』は「継体天皇」以降も以前と同じように矛盾し同じように正しい2

 「古田武彦氏」が主張する「九州王朝」を『日本書紀』が無視したりや盗んだとすることを『日本書紀』は否定し、『三国志』や『隋書』は日本を倭国と見て、畿内政権を相手にしないとするどころか中国史書も東に「俀国」と異なる王が存在する「秦王国」を認め、「俀国」と異なる「俀国」の分国のような扱いの「倭国」が「秦王国」に取って代わったと記述して、古田説を否定している。
畿内政権が九州王朝の分国というのは隋や唐初ではその通りだが、古田氏が主張する神武帝からの分国は考え直さなければならない。
磐井以前の筑紫は福岡平野のみ他の九州地域と異なる独特な須恵器を出土し、磐井以後筑後平野に広がっていて、古墳の埋葬法も竪穴と横穴で磐井より前は異なり九州王朝の代表王朝の地位を疑わなくてはならなず、国造という畿内政権の配下の筑紫国と呼ばなくてはならない。
唐は『日本書紀』が記述する白雉元年の儀式に唐の使者が出席し、断交した九州王朝「俀国」ではなく国交のある「倭国」の首都難波宮に招待されたのであり、副都仮説は否定される。
九州王朝「俀国」と断交した「隋」の後継「唐」が使者を「俀国」に送ることは有り得ない。
名実共に日本国内で天皇にはなれなかったが大王の地位を得た「俀国」は中国が王朝交代したとはいえ冊封体制に組み入れられていた臣下であったことを忘れて、対等な天子とおごり隋朝から断交された。
そして、その代わりに「俀国」の分国が「俀国」に代わって歴史ある「倭国」を名乗って冊封体制を継続したが、名目上臣下だと思っていた「新羅」は「倭国」と対等になっており、政策を間違えて「百済」を援助した為に、「唐」の駐留を許すことになった。
 畿内政権は古く「漢」代には「委奴」国とは違う「東鯷国」が存在し、その後、周防を出発して「狗奴」国を「邪馬台国」の東から南に押しやった倭種の国、『梁書』で「宋大明二年 賓國嘗有比丘五人游行至其國 流通佛法」とインドから仏教を学んだ「扶桑国」が存在したと記述した。
『梁書』は同時代の『隋書』に「夷人不知里數但計以日」と記述されるように里単位に矛盾があるが、その理由は倭人の里単位が「隋」と違う里単位を使っていると述べているので、里単位に矛盾があることが解る。
『漢書』・『後漢書』・『三国志』・『梁書』・『隋書』・『旧唐書』は一貫して西に倭国、東に倭種の国が存在し続けたが国交を持ってこなかったのは、冊封体制を拒否した国であったからだ。
『三国史記』ではいつも「倭」と戦っていた「新羅」が『日本書紀』ではあたかも日本の冊封体制に組み入れられているかのように書かれていて同じ「新羅」と見えない。
『日本書紀』が「倭」と一線を画した史書であり、「秦王国」から「倭国」に政権が変わってもあたかもずっと継続しているように記述している。
このように間違いがないと言われる継体天皇以降も『日本書紀』の矛盾を再検討し、遺物を偽作扱いしたりしないで、矛盾の原因を精査して日本古代史を見直さなければならない。

2018年2月12日月曜日

最終兵器のミサ 『日本書紀』は「継体天皇」以降も以前と同じように矛盾し同じように正しい1

 7世紀の日本列島は『隋書』によれば、魏志の邪馬台国から続き隋時代には「有阿蘇山其石無故火起接天者」と阿蘇山の見える位置に有る「俀国」と呼ぶ国と「又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」と竹斯國をはじめその東に30国余有って、その中に「秦王国」という王がいる国があると言っている。
607年の直前の阿蘇山近辺の王は火君・火中君兄弟、その父筑紫君が支配していた。
筑紫君は筑紫国造の磐井の子で「新羅知是 密行貨賂于磐井所・・・磐井掩據火豐二國」と磐井が豊国や火国を侵略して新羅の利権も我が物にすると言って物部麁鹿火に天皇が九州を付与すると約束して磐井を攻め、磐井を殺害し勝利した。
しかし、なぜか葛子は筑紫君に出世し、それからこの地域に新しい王が現れておらず、「俀国」の「タリシヒコ」は「火・火中」君若しくはその子たちと考えられ、倭の5王時代の「倭国」は筑紫国造のことで、中国から「新羅」や日本全土の王に任命されたことで「新羅」の利権を我が物にし、豊・火に侵略したと考えられる。
しかし、天皇にとっては自分の配下が天皇の支配領域を侵略したため、賊軍磐井を殺したが、逆に筑紫君という同盟関係の国に出世し「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢」のように「俀国王 オオキミ タリシヒコ」となり、そして、豊国以西は天皇の領域で天皇のいる王国は「秦王国」となり、中国史書は初めて「倭国」以外に王の存在を認めた。
 「俀国」は大業三年607年に国書をもって朝貢し「明年 上遣文林郎裴淸使於俀国・・・此後遂絶」と翌年裴淸が来日したがうまくいかずに断絶したにもかかわらず、「大業四年・・・倭・・・遣使貢方物。六年・・・倭國遣使貢方物」と同年3月及び大業六年610年に「倭」が遣使貢したということは、「俀国」と異なる国の「倭」が存在して中国と国交を続けている。
30国余の1国なのだろうが、「倭」は続いて『旧唐書 』の「貞観五年、遣使献方物」と631年、『日本書紀』の「舒明天皇四年 唐國使人高表仁等到干難波津」と舒明天皇4年632年に高表仁が国書を渡せず失敗した。
しかし、「二十二年、又附新羅奉表、以通起居」と648年「倭」が国書を送り『日本書紀』の「白雉元年休祥 又遣大唐使者」と650年唐から使者が来日した。
『舊唐書』の「麟德二年 封泰山 ・・・倭四國酋長赴會 高宗甚悅」と665年には天子と接見し、『三國史記』の「十年・・・倭國更號日本」と倭王が国号を日本に変えたと記述されている。
『舊唐書』に「日本舊小国、併倭国之地」と「倭」は日本の前身の国と異なる「もと小国」だったが、少なくとも632年には高表仁が来日しているので日本の前身の「倭」はこの頃倭王・日本国王となった。
『旧唐書』でも「倭」は「 古倭奴国也」としていて、「俀国」の分国で倭国がもともと「筑紫国造」だったのだから、その近辺としか考えられず、注目すべき事柄が「筑紫君葛子恐坐父誅 獻糟屋屯倉 求贖死罪」の記事で糟屋は倭国の発祥の地である。
「唐」になって「王子」と争ったと書かれているのだからこの時点では「倭」は王で小国の王だった「舒明天皇」の一族が大国の日本の前身の王となったのである。
その間消失した国が「秦王国」で発生した事件は舒明天皇即位時の「山背大兄王」との皇位継承争い、「崇峻天皇」の殺害、「物部守屋」との戦いとなる。
どの時に王朝交代があったかは拙書やブログを参照してもらうとして、ここでは触れないことにする。

2018年2月9日金曜日

最終兵器のミサ 家系図

 安寧天皇は綏靖天皇25年に安寧天皇が21歳で立太子して、8年後の綏靖天皇33年に安寧天皇が29歳で即位した。
その38年後に67歳で安寧天皇が亡くなったはずが57歳死亡になっているように、安寧天皇は21歳で既に天皇に即位していたことを以前に証明した。
すでに24年間綏靖天皇の長男が皇太子であり、皇太子は天皇と同格で皇太子も綏靖天皇だったが、2代目の綏靖天皇には子が無いか皇太子に就任できる年齢13歳に達していなかったため皇太弟または叔父の安寧天皇が皇太子イコール天皇に就任した。
異常に長い天皇の在位期間は数代の長男継承があり、一度長男以外が皇太子になると、長男が皇位を継げる年齢に達しても、実権は既に立太子した事実上の天皇が持っているため政権が戻らないとの仮説を得た。
このように考えないと「遅い立太子」と「長い生存期間」と「立太子前の太子」の説明ができなかったし、証明する事例が『日本書紀』に記述されていて、このように考えることで、神武天皇は紀元前181年の建国を証明した。
ところが、それを基に『先代旧事本紀』や『勘注系図』・『日本の苗字七千傑ページ』などを比べると、全く食い違っている。
日本書紀では持統天皇まで41代で世代にすると、重祚1名(豊財)・兄弟3(履中~允恭)・2(安康/雄略)・2(顕宗/仁賢)・3(安閑~欽明)・4(敏達~推古)・2(皇極/孝徳)・2(天智/天武)・2(持統/弘文)があって28世代と考えられる。
ところが、物部氏は17世代と12世代も少ないということは、1世代20年とすると約240年分以上抜け落ちていることが解る。
これは、大伴・中臣氏も同じで17・8世代で抜け落ちていて、実際は天皇家も多くの天皇が記述されていないのでもっと多数の人物が抜け落ちていることになる。
『先代旧事本紀』は推古天皇の時代に記述したとあるが、それぞれの大連就任の対応天皇が古事記どおりに記述されているように、物部家の伝説と天皇の照合を行い記述されていることが解る。
しかも、その天皇は天皇名ではなく、以下に記述する天皇以外は宮の名前で記述され、特に 允恭・継體は実際の伝承天皇が違うため後代の天皇名に書き換えたと思われる。
『先代旧事本紀』
「日本磐余彦天皇・神渟井耳尊天皇・磯城津彦玉手看天皇・大日本根子彦耕支天皇・観松彦香殖稲天皇・日本足彦國杵人天皇・譽田天皇・大萑天皇・允恭天皇・継體天皇」
 
すなわち、各系図は特定の天皇の画期でつないだものに過ぎず、『日本書紀』の神武天皇は天照大神から6世だが尾張氏は5世代、物部氏は4世代とズレ、尾張氏の世襲足姫は神武世代から4世代だが夫の孝昭まで5世代、物部氏の伊香色謎は6世代なのに夫開化まで9世代かかっている。
それに対して、大伴氏は高皇産霊から道臣まで10世代かかっているが、大伴御行から前に17世代数える道臣は崇神天皇と同世代で『日本書紀』では崇神紀に建国したと思われる記述がある。
中臣氏も御行と同世代の大嶋から18世代前が天種子になり建国前の世代となり、紀元前90年頃、現天皇家の孝昭天皇時、畿内政権の神武天皇が畿内に侵入したことが解る。
大伴金村は大伴御行から5代前で御行と同世代の持統天皇から5代前は推古天皇の世代になってしまい、『先代旧事本紀』では麁鹿火が14世御狩と同世代とし、金村と同じ世代とし、すなわち、金村・麁鹿火世代が継体・欽明天皇と同じ世代なのだから、敏達から推古天皇の世代は2世代後ろとなる。
やはり、各氏族の系図が『日本書紀』に合わせるのではなく、『先代旧事本紀』の天皇名が宮を基に記述しているように、世代は宮の世代で宮毎に兄弟として記述していると思われる。
本来親子関係で考えると1世代15から30年でおそらく平均すると長男相続で20歳位と考えられ、多紐文鏡出土の紀元前200年から持統天皇まで45世代程度必要になる。
ところが、偶然にも多くの家系が20代となるため、こぞって天照大神を卑弥呼だ、尾張氏の日女が、倭姫がと騒ぐが、ただ20世代、王の在位期間が20年位というに過ぎず、統治年数の長さ、年齢の長さ、立太子の遅さと年齢の矛盾に何ら説明できないでいる。
史書も系図も紀伝体で記憶され、どの宮の天皇の時代の人物かを当てはめられて記憶されていると考えるべきだろう。
武内宿禰の子たちの襲津彦・木菟・小柄・石川の世代が全く合わないのも、これが原因で、これらの兄弟は本来縦の時系列で分家の世代、天皇としては応神天皇・仁徳天皇なのだろう。
『日本旧記』が作成されるまで日本には編年体という概念が無かったから、『先代旧事本紀』も『古事記』も紀伝体で書かれていることから、動かせない事実だ。

2018年2月7日水曜日

最終兵器のミサ 海外文献 『三國史記』2

 再検討の一つとして、神功皇后紀の新羅皇子の人質の記述は417年の朴堤上の記述と対応しており、日本側の目付け役の葛城襲津彦は456年死亡した圓大臣の祖父で年代的に符合する。その他にも神功皇后紀・応神天皇紀の朝鮮王の死亡記事が矛盾している原因は神功天皇を武内宿禰の時代と葛城氏の天皇が記述した結果と思われる。
『日本書紀』
神功皇后摂政前紀 「爰新羅王波沙寐錦。即以微叱己知波珍干岐爲質。」
神功皇后摂政五年 
「副葛城襲津彦而遣之・・・載微叱旱岐令逃於新羅・・・既知欺而捉新羅使者三人。納檻中以火焚而殺」
『三國史記』 卷四十五 列傳 第五 朴堤上
「堤上仕爲歃良州干先是實聖王元年壬寅 與倭國講和 倭王請以奈勿王之子未斯欣爲質」
「行舟勞困 不得夙興 及出 知未斯欣之逃 遂縛堤上・・・未幾使人以薪火燒爛支體」 

 物部氏の王朝であった神・秦王国・日本との友好的な冊封関係だった新羅は新しい倭人の扶桑国・倭国が名目上同等の関係が力によって押さえつけられた。
そして、再度、物部氏が政権を奪取した時、秦王国や倭国の女王炊屋姫(大刀自)のために唐との仲介を行ったが、扶桑国の後裔の蘇我氏が皇位に就き百済と同盟した為に敵対することになったように見える。
『舊唐書』  卷一九九上 東夷伝 倭國 日本
「至二十二年 又附新羅奉表 以通起居」

 すなわち、最初の倭人の侵略の失敗も実際のところ、紀元前50年の『日本書紀』は崇神天皇四八年で垂仁天皇元年173年にあたって倭国大乱の倭王で、脱解王記事も西暦57年即位で垂仁天皇86年に即位なのだから私の年表では政務天皇の時代すなわち卑弥呼の時代にあたって女国になる。
南解次次雄王11年私の年表で卑弥呼即位7年に初めて倭国が侵略し、奈解尼師今十三年も卑弥呼10年の侵略、助賁尼師今3・4年も卑弥呼33・34年と考えられ、卑弥呼の訪新羅で融和して、台与3年に倭と講和するという流れと考えられる。
以降、物部王朝の崩壊で仲介者がなくなり、倭人との戦いは倭の5王との戦いの内容となる。『三国志』に韓と倭の騒乱を書かずに共存していると記述していることからも、この立場が正解に感じる。
『三國史記』 卷第一 新羅本紀第一  始祖赫居世
「八年 倭人行兵 欲犯邊 聞始祖有神德 乃還」
卷第一 新羅本紀第一  脱解尼師今
「脱解尼師今立・・・其國在倭國東北一千里 初其國王 娶女國王女爲妻」
卷第一 新羅本紀第一  南解次次雄
「十一年 倭人遣兵船百餘艘 掠海邊民戸」
卷第一 新羅本紀第一  祇摩尼師今
「十二年 春三月 與倭國講和」
卷第二 新羅本紀第二  奈解尼師今
「十三年 春二月 西巡郡邑 浹旬而返 夏四月 倭人犯境 遣伊伐飡利音 將兵拒之」
卷第二 新羅本紀第二  助賁尼師今
「三年 夏四月 倭人猝至圍金城 王親出戰 賊潰走 遣輕騎追撃之 殺獲一千餘級」
「四年 倭兵寇東邊 秋七月 伊飡于 老與倭人戰沙道 乘風縱火焚舟 賊赴水死盡」

 この後の神功皇后や応神天皇の朝鮮記事は後代の内容の記事を記述しているが、これは、これまで述べてきた通り武内宿禰やその子供たちの内容や尾張氏・物部氏の大臣・大連の内容が記述されているからに他ならない。
七支刀を百済王が偉大だからと倭王に与えたと判断しているが、『三国史記』には1?月16日が丙午である254・258・284年の王の古尓王にそのような記事が無い。
書かないということは逆で倭に献上したために書かなかったするほうが矛盾無く、景行天皇が即位したときに改元するということは、すでに垂仁天皇の時代から元号を使用していた。
すなわち、七支刀の「秦?」は日本の元号または秦国の可能性があり、倭王の世子の誕生を祝って倭王に送りそれを物部氏の畿内政権に献上したため、石上神宮に奉納されたと考えるべきではないだろうか。
『日本書紀』
景行天皇元年(辛未71)七月己卯 「太子即天皇位。因以改元。」
石上神宮伝世の七支刀
泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作
先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世

2018年2月5日月曜日

最終兵器のミサ 海外文献 『三國史記』1

 『三国史記』には「赫居世王」・「東名王」・駕洛國「首露王」と初代の王は全て卵生説話で登場し、百済は 東名王と同じとする卵から生まれた朱蒙の子孫と記述して、中心的王は全て卵の子孫になる。
ところが、脫解王は初代でもないが、昔氏の始祖ということからか卵から産まれたことになっている。
伝説の檀君も殷の流れを、辰韓も秦の流れをくむと呼ぶように他民族の王を受け入れそれを濁すための卵説話、父親は他民族のためあやふやにして母系が朝鮮民族の末裔と記述しているように感じる。
そのため、脫解は母親が日本人にも拘らず卵生としているのは、父が朝鮮人で母が日本人だから卵生と記述したように感じる。
『三國史記』卷一 新羅本紀 第一 
始祖 赫居世居西干 
「只有大卵,剖之,有嬰兒出焉,則收而養之,・・・六部人以其生神異推尊之,至是立爲君焉。」
脫解尼師今
「脫解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里・・・娶女國王女爲妻・・・乃生大卵 王曰人而生卵不祥也」

 辰人が朴姓を与え、紀元前50年に倭人が侵略してきたので、紀元前27年に皇子日槍が日本に支援を得るため来日して、その結果、紀元前20年に倭人の瓠公が新羅を支援したようだ。
また、西暦59年の新羅の王子の曽孫の清彦説話と西暦57年の脫解王の王位継承説も『三国遺事』ではやはり瓠公が脫解王を見つけており無関係とは思えない。
日本書紀での約80年の日槍から清彦への経過は矛盾が無く、約110年の赫居世居西干から儒理尼師今は長すぎるが、瓠公が赫居世居西干38年に出現して脫解尼師今を見つけているのだからどこかの王が重複していることが解り、私が見つけ出した古代天皇の皇位継承と同じことが新羅の王室で起こっている可能性がある。
『三國史記』卷第一
「辰人謂瓠爲朴,以初大卵如瓠,故以朴爲姓,居西干,辰言王或云呼貴人之稱。」
八年,倭人行兵,欲犯邊,聞始祖有神德,乃還。
三十八年・・・瓠公者, 未詳其族姓,本倭人,初以瓠繫腰渡海而來,故稱瓠公。
『日本書紀』 垂仁天皇三年三月
「天日槍對曰。僕新羅國主之子也。然聞日本國有聖皇。則以己國授弟知古而化歸之。仍貢献物葉細珠。」
「故天日槍娶但馬出嶋人。太耳女。麻多烏。生但馬諸助也。諸助生但馬日楢杵。日楢杵生清彦。」
垂仁天皇八八年七月戊午
「新羅王子。名曰天日槍。則留于但馬娶其國前津耳女。麻能烏。生但馬諸助。是清彦之祖父也。」

 『三國史記』では西暦173年に卑彌乎が新羅に訪問しているが、これも史実と矛盾しているため古代文献の信頼性を貶めている1つになっている。
しかし、西暦173年は『日本書紀』では政務天皇43年にあたり、政務天皇を私は卑弥呼の時代と論証しており、私の年表に換算すれば西暦243年正始四年となり、「倭王復遣使」の時に新羅まで同行すれば矛盾が解消する。
朝鮮には卑弥呼が政務天皇の時代という資料が残っていた可能性があり、『三国史記』・『日本書紀』の内容を再検討する必要があり、『三国志』まで新羅・百済は中国史書に記述が無い事に注目すべきだ。
『三國史記』 卷第二 阿達羅尼師
「二十年 夏五月 倭女王卑彌乎遣使來聘」

 すなわち、 赫居世居西干の王室はまだ馬韓のもとの小さな小国の国盗り物語が始まったばかりで、中国晋朝頃に馬韓地域を統一したのだろうが、後代支配した王朝は遠慮することなく建国時が統一王朝と呼ぶのは当然の行動だ。
古田史学のように遠慮して701年まで年号を発布しない王など存在せず、701年に政権を奪い取ったから年号を発布したのであり、前政権は継続して違う年号を使い続け、大長年号の終了が前政権が滅んだときだということだ。
百済が破れたからと言ってすぐに滅亡したのではなく、熊津都督府の都督となっているようで、日本もすでに天智天皇が政権を奪取していたが、670年まで名目上以前の政権が大宰府に存在し、政権が変わって日本と国号を改めたと考えるべきだろう。

2018年2月2日金曜日

最終兵器のミサ 海外文献 『三國遺事』と「しん国」

 今回、私は「しん」国とひらがなで題を書いたが、朝鮮人や日本人が「辰」(chen)国・「秦」(qín)国・「神」(shén)国と聞いて分別できるのだろうか。漢時代以前、馬韓が建国する前に「辰國」が統治していたと記述されているが、燕・斉・趙を跳び越して秦が朝鮮南部を支配したとは考えられない。
秦が中国を支配した20年の時代とすることも可能だが、『後漢書』・『三国志』で風俗が倭に近いと記述しているのに、『晉書』で秦人に類するとあたかも秦人が中国人でないように記述している。そして、辰人は朝鮮人の一角を占めて、「朴」姓を与えるなど力があるのに自ら王とならず、共立されて王となり馬韓人に自治させているが、紀元前100年以前衛氏朝鮮の右渠の時、漢に「辰国」が親書を持って接見を天子に申し出ている。
『三国史記』・『三国遺事』ではどちらも倭を悪者にしているが、『三国史記』の辰と『三国遺事』の日本は尊敬されているのに辰は忽然と消えて、後代には秦と記述される。
『三国遺事』に出現する日本を『日本書紀』で調べると、神武東征で銅鐸の国に侵略した時神武天皇は「神倭伊波礼毘古」次代の天皇は「神沼河耳」と神国に仕え大和の三輪を神倭と書き、倭をヤマトと呼んだ。神武東征の時期は畿内に初めて多紐細文鏡が出土する前2世紀頃と考えられ、それ以前から「神国」が存在し朝鮮の「辰国」と重なる。
さらに、「延烏郎 細烏女」伝説と同じような記事が垂仁天皇二年に記述され、おそらく174年で新羅王は阿達羅王21年にあたる。
この時期は私の証明する天皇は神国王ナガスネヒコの血を引く物部氏が尾張氏から政権を奪取しており、国名を「日本」としていたと考えられ、神功皇后の時代でも新羅王は神国と呼んでいる。
そして、「日御碕社」の古伝に孝霊天皇の頃紀元前230年頃に辰王が支配する月支国が出雲を襲っているが、まさしく銅鐸国に侵略する出雲を銅鐸国王と同族の辰王が挟撃している様が見えてくる。
そのご、中国の南北朝の頃は日本で扶桑国が皇位を奪取して、神国日本は滅亡し、朝鮮では自治を認めてくれた辰国に変わり半戦闘状態の中国南朝をバックにした伽耶を戦いの拠点にした倭国と高句麗・百済と友好的な扶桑国との等距離外交を行ったと思われる。
晋が記述する言語が秦人に類するとの記述は中国の秦人では中国人の晋の言葉と類していない表現で異様な表現で日本人・神人と類するとすれば現代の朝鮮語と日本語との近さがうかがえる。
松菊里式住居が日本に存在したり、支石墓が縄文遺跡から出土するが、土器文化としては影響を持ちながら一線を画す出土状況は辰王の支配体制を物語る。
『漢書』
真番、辰國欲上書見天子,又雍閼弗通。
『後漢書』馬韓伝
「馬韓・・・南與倭接。辰韓在東・・・弁辰在辰韓之南・・・其南亦與倭接・・・伯濟是其一國焉・・・皆古之辰國也。馬韓最大、共立其種為辰王、都目支國、盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。其南界近倭,亦有文身者。
『後漢書』辰韓伝
 辰韓、耆老自言秦之亡人、・・・有似秦語、故或名之為秦韓。
『後漢書』弁辰伝
 弁辰與辰韓雜居、城郭衣服皆同、言語風俗有異・・・其國近倭、故頗有文身者。
『三國志』
魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳第三十 韓
「弁辰亦十二國・・・其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之,世世相繼。辰王不得自立爲王。」
「今辰韓人皆褊頭 男女近倭 亦文身 便歩戰 兵仗與馬韓同」
『晉書』卷九十七 列傳第六十七 四夷傳 馬韓 辰韓 弁韓
「辰韓在馬韓之東,自言秦之亡人避役入韓,韓割東界以居之,立城柵,言語有類秦人,由是或謂之爲秦韓」
『梁書』新羅
新羅者,其先本辰韓種也。辰韓亦曰秦韓,相去萬里,傳言秦世亡人避役來適馬韓,馬韓亦割其東界居之,以秦人,故名之曰秦韓。・・・又辰韓王常用馬韓人作之,世相係,辰韓不得自立爲王,明其流移之人故也」
『三國史記』卷第一
始祖姓朴氏,諱赫居世,・・・辰人謂瓠爲朴,以初大卵如瓠,故以朴爲姓,居西干,辰言王或云呼貴人之稱。
『三國遺事』 卷第一 
延熹〈戊戌〉九 又與倭國梖嶺。立峴個彌勒大院東嶺是也。
魏滿朝鮮 
前漢朝鮮傳云・・・真番辰國欲上書見天子。
馬韓 九夷者一玄菟二樂浪三高麗・・・八倭人・・・海東安弘記云九韓者一日本二中華三吳越・・・」
延烏郎 細烏女
「・・・負歸日本。國人見之曰・・・降在我國。今去日本。故致斯怪。王遣使求二人。延烏曰。我到此國」
『日本書紀』
神武天皇即位前紀 神日本磐余彦天皇。諱彦火火出見。
綏靖天皇即位前紀 神渟名川耳天皇、神日本磐余彦天皇第三子也。
垂仁天皇二年是歳 
「意富加羅國王之子。・・・傳聞日本國有聖皇。以歸化之。・・・尋追求。遂遠浮海以入日本國。所求童女者。」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年 新羅王遥望以爲。・・・乃今醒之曰。吾聞。東有神國。謂日本。

 そして、扶桑国に滅ぼされた神国・日本国の末裔の物部氏は531年に政権を奪い返して秦王国日本と国名を戻した。
そして、628年守屋の死亡によって物部王朝は弱体化し、馬子の妃で物部氏の大刀自が炊屋姫の称号で皇位を継いでいたがその死をもって縄文王朝の東鯷国・神国・秦国・日本国の王朝は終わり、その皇子の蝦夷が皇位を継いで倭国としたと思われる。
『隋書俀国伝』 
又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀