2018年3月30日金曜日

終兵器のミサ 邪馬台国論争のレクイエム4

 日本書紀には国の境界を山や川で分けたと書かれていて、三角縁神獣鏡や前方後円墳の全国的広がりを考えると三国志の1世紀程前なので、伊都国と奴国の境界は山や川とおそらく高祖山山系が境界と思われ奴国が囲った説は否定せざるを得ません。従って、伊都国の東南百里に奴国、伊都国の東百里に不彌国なのだから50里近くは不彌国と奴国の境界が不彌国の南に重なり更に邪馬台国が南に境界が重ならなければならない。
千余家の不彌国の南に2万戸の奴国と7万戸の邪馬台国があるということは、不彌国は東西に細長い領域で伊都国の東になければならないのです。
すなわち、このような状態の国と言えば糸島半島から能古島・志賀島・海の中道の領域しか考えられません。
但し、更に船行・陸行で目的位置への行程をぼかす奇妙な論理は論外で、伊都や奴国・不彌国を記述する必要が無く、これが事実なら三国志は見向きもされませんし、このような但し書きを書かなければならない虚しさを禁じ得ません。
そして、不彌国の南には海を境界に福岡平野が広がり、西側に奴国・東側に邪馬台国が有るという結論以外考えられず、その境界は室見川か那珂川で邪馬台国は福岡市東区や糟屋郡となり、その南は拘奴国と三国志は周囲の国を特定しています。
すなわち、日本書紀が卑弥呼と指定している神功皇后の宮香椎も東区に、神功皇后が斎宮となった小山田邑も斎宮跡が糟屋郡の山田地区に有り、猪野地区に皇大神宮があり、漢委奴国王印も猪野と読めるし、出土地は志賀島で香椎に近いのです。
拘奴国も香椎から陸沿いに船を走らせると千里は宗像近辺になります。
 さらに、北部九州は甕棺墓が盛んであったのですが、甕棺墓は紀元前千年近く前の青銅器が埋納される以前から続き、邪馬台国支配の前から甕棺の祭祀儀礼を行っていて、邪馬台国の時代には甕棺が下火になって伊都国や筑後・肥後の地域に残るだけになっていました。
すなわち、邪馬台国は甕棺墓の祭祀儀礼を否定した政権で最初に甕棺墓が消失し、石棺や割竹形木棺に変わるのは糟屋郡近辺で、須玖岡本はまだ甕棺墓なので、卑弥呼では有り得ないのです。
以上のように、古事記・日本書紀・三国志を否定せずに、考古学的遺物にも矛盾が無かったのだから、この論を否定するためには、古事記・日本書紀・三国志に違うと書いてある事項を見つけ出すか、親魏倭王印を主張する場所で探し出すか、従来通り古事記・日本書紀・三国志は間違いと言い張る以外否定することができない。
しかし、古事記・日本書紀・三国志を否定すれば、新しい理論を証明する術をなくしてしまうことを覚悟して論じなければならず、その論で反対派を論破することは永遠にむつかしいと言わざるを得ないのです。
もちろん、この理論にも弱点があり、邪馬台国比定地に出土する鏡の出土が伊都国や奴国に見劣りするので、権力構造の弱さや大勢力の畿内政権の存在そして長らくの九州経済の中心として遺跡の破壊があったと言い訳する以外にないところです。
日本書紀は日本全体のことを畿内政権を中心に記述した史書であり、邪馬台国の事績も政権の配下が行ったこととするのは当然のことで、卑弥呼を畿内政権の皇后に割り当てても問題なく、権力というのはそういうものなのです。
それに対して、邪馬台国は自分の支配領域すら官位がバラバラで、伊都国は一大率があって統治していて、権力の弱さが解り、一大率が卑弥呼に王位を奪われた国をまとめることができなかった王家かも知れません。
従来の畿内説の論点はずっと天皇が畿内にいらっしゃったのだから邪馬台国も大和だという論理だったのですが、本来は、畿内政権は邪馬台国のように中国の冊封体制にはいらず、自主独立で、日本書紀を見れば、新羅や高句麗と友好関係を持ち、逆に、新羅や百済が日本の冊封体制に組み入れられていたような様相を示しています。
どうして、天皇家を持ち上げる歴史家が日本書紀にも書いていない、中国の冊封体制に入ったことを有難がるのか私には解らないのです。

2018年3月28日水曜日

終兵器のミサ 邪馬台国論争のレクイエム3

 すなわち、古事記の対象地域は豊国以東の地域で、その対象外の地域が魏志倭人伝であり共通した地域が古事記の対象地域から国譲りで邪馬台国が得た地域の伊都・壱岐・対馬と思われます。
そして、三国志は「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」と邪馬台国と別国の倭種を述べ「舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國」というとおり、倭種は70余国で三国志と同じ里程を使うと関門海峡あたり、陸地に沿っての航路なら宗像辺りからで、魏朝には使譯を通じていない冊封体制以外の国と言っている。
そして、漢書 地理志 吳地には「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國」と邪馬台国以前に20国をまとめた国が有り、後漢書には邪馬台国の東には「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」と書かれていて魏朝の時には邪馬台国の南まで迫っていたかその他の国によって縮小してきていたようです。
この様子はまさしく、日本書紀では朝廷が周防から京都郡や日向・肥後・筑後へと侵略して、筑後川北部や大宰府あたりは言及しないで浮羽から京都郡へ戻っている。
この国がまさに中国の冊封体制に入らない倭種70国の朝廷と考える以外にないし、拘奴国の勢力変化に合致していて、その範囲は大宰府を中心とした筑後川北岸地域が勢力範囲だとわかる。
さらに日本書紀を信じるならば、邪馬台国の東も、仲哀天皇は熊襲を討つために「參迎于周芳沙麼之浦」と同じく周防から鰐を押さえて、逆らう「大倉主」と「菟夫羅媛」を「倭國菟田人伊賀彦爲祝令祭」と伊賀彦に制圧させ熊襲の伊襲を占領して伊都と名を変えている。
まさしく、三国志の蘇が付く国は肥前のことと解り、 大倉主とやはり三国志で出てくる伊都国の官「爾支」と同じ冠位で制圧の方向は周防・穴門・伊都で京都郡に宮を作った勢力と同じだ。
制圧相手の熊襲が拘奴国で拘奴国はこうして大牟田市・八女市・浮羽市の北の地に押しやられてしまい、伊都国は邪馬台国と共同統治に近い名目上は周防から出発した勢力が上位に感じられます。
それに対して、邪馬台国女王に見立てた神功皇后は香椎から御笠(大宰府市)・夜須(小郡市)・山門縣(柳川市)を征服して松浦・伊都と巡行しています。
すなわち、神功皇后の領地は福岡平野、伊都を伊蘇と言ったように蘇の地域である佐賀県が領地で、朝倉市・久留米市・筑後市は解らないのとしか言えません。
 三国志は古田氏が論証した短里と壱岐・対馬を半周と読めば論理が成り立つと証明できるとしたが、半周なら水行で良く領内陸行なら半周する必要が無い。
邪馬台国に至る経過地全てが千戸で、領内は全て3・4百里と想像させた記述なのだから、経過地の対馬・壱岐・伊都・不彌の領内合わせて千4百里となる。
古田氏は奴国が伊都国を覆う地域で奴国の首都が伊都国の首都から東南100里と訳の分からない論理を考えたそうだ。
伊都国を覆ているのなら、別に奴国へを伊都国からの距離ではなく末盧国からの距離でよいし、囲っているのなら奴国のような2万戸の強国が、千戸のせいぜい半径2~3キロ程度の小国を占領できなかったのだろうか。

2018年3月26日月曜日

終兵器のミサ 邪馬台国論争のレクイエム2

 日本書紀・古事記・三国志を比較すると、魏志倭人伝はどう見ても壱岐・対馬、松浦、伊都そして蘇の付いた国名が華奴蘇奴国・對蘇国・蘇奴国が出現し、武器は矛で九州の歴史資料館にいけば矛はあふれかえっていて、伊都などまさに景行天皇の時に伊蘇から伊都に名前が変わった時期にあたります。
伊岐と一大國は同じでしょうが、中国が知っている国名と古事記が知っている国名にズレがあることを物語っているということが解かります
そもそも、「邪馬壹國」が古事記の地名でどこかわからないし伊支馬などという官名は古事記にも日本書紀にもないのです
中国の使節張政は邪馬台国に遣ってきて、実際に見て、聞いて、硯が出土しているのだから文字として読んでいるかもしれないが、どうして記紀に無い国ばかりの史書倭人伝と記紀を関連付けてきたのでしょうか
もちろん、日本書紀の記述がそれをにおわせる神功皇后に「晉起居注云」や「魏志云」を付加しているからで、あたかも神功皇后が卑弥呼だと言わんばかりに表記しています
当然、卑弥呼は独身で死んでいるので子供までいる神功皇后とは別人で壹與に充てているのだろうが古事記には中国との関連が全くなく、雄略天皇時に南朝の呉人来日が出現するだけで古事記にはどこをどう探しても魏朝中国が出てこずにあまり大陸との交流に関心がなく無視しているようにさえ思われます
もう少し魏志倭人伝と古事記の違いを見ていくと、魏志倭人伝では宮室には物見やぐらと柵があって常に兵が守り、矛・盾・木弓で守っていると書いています
 そこで、古事記ではどのような武器が出現しているかしらべると、例えば同時代と宣言している神功皇后以前の武器を見ると、古事記で剣13例、刀が65例、矛1例、釼5例と圧倒的に矛の数が少ない。
剣・刀等の多くは実際に武器として使用・携帯していて矛の神事の出現とかなり異なり、中国の使者は矛と刀・剣と見間違えたか、省略したのか、見分けがつかないのか、すくなくとも中国ではすべてまとめて矛と言っているはずがないのです
なぜなら矛も剣も漢字なのだからその種類を間違えるはずがなく、もし古事記の作者が見分けられなかったなら草那芸剣を一度ぐらい草那芸矛と書いてもよさそうで、まさか護衛が武器ではなく祭器で恰好だけつけているとは考えられません
 そして、一番の疑問は大国・豊国が魏志倭人伝に登場しないことで、私は大国主・豊国主の「主」は「爾支」と理解しているのですが、伊都國爾支があるのに大国主・豊国主が登場しないと言うことは、この3世紀の時点では邪馬台國の領域は豊国・大国に及んでいないと言わざるを得ず、もちろん主と爾支が違っていても変わりがなく、主に似通った官名が無くて古事記が対象としている倭と「邪馬壹國」が別物であるということで
すなわち、古事記は邪馬台国と一線を画した史書であると言えそうで、青銅器の遺跡分布でも瀬戸内は銅剣の出土地帯となっており、九州の銅矛圏とは異なっていて、大国の神話で刀が出現するというのは遺跡状況と合致して九州王朝説のように武器型で一括りにして口を濁すわけにはいかず、最後には接続する棒の長さで剣と矛を分類すると言いたい放題ですがその証拠が有りません。大国で矛と銅鐸がまとまって出土した遺跡があるが大国・出雲の地域に古事記では矛や銅鐸の説話がなくて本当に武器として使ったかはわからないのですが、古事記の矛は祭器で出現して八千矛神と大国主が言われているのですが祭器として矛盾はないし、奪った祭器をまとめて埋めたのかもしれないのです
なお、ここでは矛と非矛で記述したのですが、少なくとも現代の三種の神器は天沼矛でなく草薙剣・草那芸之大刀・天叢雲剣と呼ばれていて剣と刀を区別していないし、神事でも矛と剣をあいまいにはしていないので非矛をまとめました。

2018年3月23日金曜日

終兵器のミサ 邪馬台国論争のレクイエム1

  日本の邪馬台国研究の論拠は三国志が間違っているやら日本書紀が間違っていると古代文献を葬り去り、しかし自分の説に合致する部分のみ正しいとする奇妙な論理がまかり通っています。
そして、間違いの類例を引っ張り出して、同じように間違えていると論ずるのですが、間違いだらけの本をもとに間違いだらけの本を正す、詐欺師(陳寿)が南行を東行にしてだましているから、この詐欺師(陳寿)の東行は南行にすれば真実だとするわけだ。
どう言いつくろっても詐欺師(陳寿)の言葉を信じることはできないのに詐欺師(陳寿)の本(『三国志』)をもとに論じたものをどのように信じろというのでしょうか。
うそつきの本の東を南にしても大本が嘘なのだから金印も鏡も絹も矛も城柵も古墳も論拠になり得ないのが道理だと思われます。
そして、古田武彦氏は『三国志』は間違いがないと論じて、正しいことを統計的に論証したが、解釈を間違え、さらに、『日本書紀』は九州王朝から盗んで書き換えたとして、これも詐欺師の論理で同じ穴の狢に陥ってしまった。
詐欺師の論理に陥ると、同じ穴の狢の論拠は互いに論拠が間違っていると非難しあうだけで絶対に折り合いがつくはずがないのです。
そして、古田氏も、『三国志』が正しいと言ったときは大論争となったが、その後、詐欺師の論理の土俵に上ったために、論争となり得ずに無視されたと僻み、恨んで亡くなられました。
本来証拠となるべき三国志や日本書紀などを嘘とか後代の創造としたため、日本中どこを探しても証拠となるものが無くなってしまったのです。
三角縁神獣鏡か漢鏡かと論争しても、卑弥呼が三角縁神獣鏡を貰ったという文献が出ないと決着がつかず、また、そのような文献も否定されるだろうし、『親魏倭王』の印が出土しても盗まれたなどと否定される。
宣長や白石の仮説をもとに多くの人々が論証しても決着が付かないのだから、仮説を棄却すべきなのにいまだに決着が付かず、永遠に決着しないと言われているが、論理学通りに仮説を棄却すれば済み、『三国志』は正しく邪馬台国はヤマトと読めないことを受け入れるべきである。
本来の学問は、まずはどの事象も正しいことを受け入れ、お互い合わなければ、合う理由が無いか考え、それでも矛盾が有れば合わない理由を考え、それでも結論が付かない場合に、その他の資料と比較してそれでも矛盾が有れば偽造や間違いを考えるべきです。
古田氏はただ須玖岡本の古墳を卑弥呼の古墳にしたくて奴国を邪馬台国にして、邪馬台国すなわち古田氏の言う九州王朝は、分国畿内を邪馬台国の30国の一つに比定し関東地域まで九州王朝の領域としてしまったのです。
理由はいらなくて、日本書紀は間違いで倭国は7世紀まで続き、中国に認められた日本の中心政権だというそれだけの理由、伝説の人物ミカヨリ姫を卑弥呼だ壱与だ、筑紫国造りが天子だ、九州年号が有るから九州王朝が正しいというが、それを証明する根拠がどうとも言えて納得を得られるはずがないのです。
もちろん、畿内政権派も同じで、古代史を論証するためには、三国志も日本書紀も古事記もすべてまずは間違いないとの前提で論述し、不都合があったならそれらの文献を否定すべきではないでしょうか。
そうすることによって、反論するにも、ある論証をしたとき、別の場所に違うことが書いてあるのだからと論理的に間違いとできます。

2018年3月19日月曜日

終兵器のミサ 聖徳太子はタリシヒコか5

 最後に皇太子というものがどういうものか考えてみましょう。
皇太子は日本書紀内のほとんどの立太子した皇太子は殺害されなければ次の天皇に即位しています。
聖徳太子は憲法や冠位を決め、実質天皇で、タリシヒコは昼間は弟に政治を任せていて、どうやら、天皇や皇帝は宗教的な儀礼を司って、実務は太子などが実行していると考えてよさそうです。
このように、実質天皇だから死ぬまで地位を脅かされることが無いのですが、立太子する前にすでに太子がいることが多々あります。
たとえば神功皇后は3年に応神天皇を立太子するけれど、元年に日高で太子と会っていて、応神天皇も40年に菟道稚郎子を太子にするけれども、15年にすでに菟道稚郎子は太子になっていて、立太子していない継体天皇には太子妃春日皇女が、用明天皇には「作太子彦人皇子像」と記述されています。
太子がいるのにさらに立太子をするというのは前の太子が死亡したことを示し、死亡した太子は立太子しなくても太子と認められる長男と考えられます。
立太子するのは長男以外の分家の人物が太子になる事と思われ、だから天皇の即位後何年もたってから立太子しています。本当に太子が居なかったのなら、立太子前に天皇が死亡した時には相続争いで王家が亡ぶとおもわれ、分家の太子が権力を集中して本家は宗教儀礼に徹するわけだけれども、分家にも長男がいるのですから、その長男も太子となるため、分家も天皇となり、本家は引退することになります。
当然で、既に実権は分家の王の子に遷っているので、立太子は中途半端な時期に行って、立太子の年齢は応神天皇を除いて13才以上で応神天皇には神功皇后が摂政として補佐しました。
そして、長男が13歳未満の場合は分家が立太子して政権を奪われ、ただし、応神天皇以降は天皇が死ぬまで皇太子の子が13歳以上でも天皇になれなくなったようですが、その代わり家督争いが頻発しています。
すなわち、仲哀天皇以前は立太子が新しい王家の始まりということが解り、古代の天皇の長命は2倍年歴ではなく、独立した宮を作らない代々長男が宮を相続した年数で、もし、2倍年歴なら太子が13歳以下しかなれなくなってしまい、立太子後に直ぐ王が死んだら権力争いが必ず起きます
 このように、皇太子というのは王家の継続には非常に重要な地位で、しかも、日本古代では実質天皇で、631年に高表仁は太子と席順を争ったと記述されるのですが、実質天皇を日本以外の太子と同列に対応すればひと騒動起こるのは当然です。そして、俀国も天智天皇の家系なのですから、タリシヒコが弟に委ねた人物、もう一人の皇帝こそ皇太弟リカミタフツリその人で聖徳太子、そして出家して聖徳法王・上宮法皇と呼ばれた人です。
皇帝の名前を書いて、天子と同等のもう一人の天子の名前を書かないのは片手落ちに感じますが、所詮地方政権なので、仏教に帰依して聖人の言い伝えはリカミタフツリとおもわれるのですが、憲法制定や冠位制定の人物は畿内政権の廐戸皇子と思われます。
『三国志』でも官名がばらばらだったのは、30国を実質邪馬台国が支配していたけれど、畿内の政権が名目上の支配者だったからで、畿内政権のミミやヒコほか独特の冠位をもって、邪馬台国の領地には三角縁神獣鏡が出土したり、前方後円墳が有ったりと畿内政権の権威を受け入れているのです。
しかし、『日本書紀』は倭国の功績を記述していないということは、『日本書紀』作成時の畿内政権の資料をとりいれて、卑弥呼記事や釈迦像など以外、ほぼ倭国の東側の畿内政権の歴史を記述していることがわかります。
さらに、『日本書紀』以降の聖徳太子はこれら何人もの太子を一まとめにした人物として記述しているので、特定の人物としては聖徳太子はいなかった、架空の人物ということになります。

2018年3月16日金曜日

終兵器のミサ 聖徳太子はタリシヒコか4

 それでは、複数の天皇の記事がまとめられたことが日本書紀に有ったのでしょうか。ありました。応神天皇の記事の百済王関連の記事が干支2巡近くのずれをもっていて、すなわち、119年ずれて応神天皇三年の百濟國辰斯王の記事と115年ずれて死んだ応神天皇二十五年の百濟直支王の記事と複数の応神天皇の記事をまとめて応神天皇の記事にしたのではないのでしょうか。
また、武内宿禰の記事が3百年にわたって記述されているのですが、これも、挿入場所が違う王と武内宿禰の対応記事に齟齬をきたしたと思われます。
さらに、平群大臣の子鮪の事件も古事記では清寧紀に記述されているのですけれど、日本書紀では武烈紀に記述されてやはりズレています。
三国史記にも卑弥呼の新羅訪問が、「奈解尼師今」に挿入すべき記事なのに、「 阿達羅尼師今」に挿入してしまったと思われ、編年体の史書がないと基準が解らないため挿入場所をどうしてもズラしてしまうと思われます。
日本書紀は編年体風ですけれど、それ以前の『古事記』も『先代旧事本紀』も中国史書も紀伝体で書かれていて、本来『日本書紀』も紀伝体で書かれていたものを、天智天皇の家系を基準にして畿内の天皇の系図や歴史に多くの氏族や大王の歴史をまとめ上げて、それに後ろから順に干支を張り付けて主語を変えた史書が『日本書紀』なのではないでしょうか。
『日本書紀』の干支を調べると、ほとんど正しくて、たまに大の月と小の月による間違いやたまに全く違う干支が挿入されているのに、また正常に戻っており、これは、端々に正しい干支を残した資料があるから正しい干支に戻すことができていることを示している。
神武天皇から王が宮で即位して何年経過して立太子し、何年間宮に在位したと書き綴った中国冊封体制下の記録があり、その記録が中国の史書の元号と対応していたため、日本の標準時計となり得たと思われます。
しかし、畿内政権が中国と没交渉で基準となる時計が無かったために、日本書紀は真の日本史からズレた記述がなされてしまい矛盾だらけになってしまいました。
そして、どうして天智天皇かというと、631年に高表仁が倭にやってきて難波で太子と会っていて、すなわち、631年以降畿内も倭と呼ばれ、670年に「倭名更號日本」と国号を変更しているからです。
日本は元筑紫にあった小国だったけれど、とうとう131国を支配する天皇の地位を天智天皇が手に入れたのですが、日本書紀に書かれない667年までの中宮天皇までは天智天皇や元明・元正天皇にとっては正式な天皇ではなかったのではないでしょうか。
天智天皇が太子で摂政として実権を握っていたとしなければならなかったので、天智天皇は記述したけれども、中宮天皇を正式な天皇と書かなかった理由は違う場所に小治田天皇を記述してしまったからで、摂政にはかならず天皇が別に存在します。
 日本書紀の推古紀には推古天皇、タリシヒコ、推古天皇の太子、リカミタフリ、彦人太子、その他の同時代の王がごった煮のように混在し、あたかも、1人の天皇、1人の太子として記述されたと思われます。
したがいまして、聖徳太子は廐戸皇子、豐耳聰、聖徳、豐聰耳法大王、法主王などの何人かが集まった人物で、おそらく、タリシヒコが法興帝と呼ばれたのだからリカミタフリが「聖徳」太子と呼ばれたとかんがえられます。

2018年3月14日水曜日

終兵器のミサ 聖徳太子はタリシヒコか3

 ここで、従来説で「隅田八幡神社人物画像鏡」諱に「斯麻」を持つ百済の武寧王が隅田八幡神社人物画像鏡」を送ったとする説があるのですが、1国の王が他国の王に送るのではなく太子の男弟王に送り、しかも、大王を無視して開中費直の派遣を命じて日本国内で作鏡することは有り得ません。
本来なら、百済国内で開中費直と穢人今州利に作鏡させて百済の図案で大王に送るのが通常なことと思われ、すなわち、「斯麻」は日本人で大王抜きに開中費直と今州利を派遣して大王の弟に大王と同等に近い地位の人物が作鏡させたと考えなければならないのです。
そのような人物で「斯麻」と言えば蘇我馬子以外私の頭には浮かんでこないし推古紀に大河内直糠手や河内漢直が外交を行っています
さらに、大王がインフレ状態で、天皇も大王、太子も大王、筑紫火君の末裔タリシヒコも大王、タリシヒコは呼ばれるのは大王でも自称は皇帝だからよいでしょうが、上宮聖徳法王帝説』などでも推古天皇は大王天皇と記述されていて釈迦三尊を意識した記述なのでしょうか。
天皇号は飛鳥池遺跡から「天皇」と記された木簡が発掘され天智朝以降の開始とされますが、古事記では大王は一度も記述されずに天皇はいつでも天皇と記述されています。
また、日本書紀では明確に聖王・大王・天皇を書き分けていて、日本書紀全体では天皇ですが、会話や引用では神功皇后より前は聖王すなわちただの王で開化天皇のときから、古事記では王が複数出現した為、王の中の王が存在したはずでまずは大王だと思われます。
神功皇后以降に聖王と天皇が出現して、百濟記には全て大王ではなく天皇と記述されていて、大王は允恭・雄略・顕宗・継体・舒明天皇すべてが即位前に大王で即位後天皇と呼ばれて明確に差別化して、それは当然で、大王が大王に即位などという日本語は聞いたことが無いのです。
即位していない聖徳太子は太子でも大王で、朝鮮の王も任那の王も国の王も大王と呼ばれ、多くの大王の上に天皇が存在していることが解ります。
 そして、聖徳太子の推定でもう一つの可能性があって、本当は聖徳太子はリカミタフツリだけど、日本書紀が推古天皇の太子と盗用したという可能性です。
『船氏王後墓誌』のなかに、641年阿須迦天皇之末と記述され、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』のなかに、 646年池邊大宮治天下天皇が崩じ、667年に 小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王が像を奉納したと記述し、さらに、『野中寺金銅弥勒菩薩台座框』には、667年に中宮天皇が大病していて日本書紀と全く合わない。
641年は舒明天皇の崩が遷都と思われるのですが、用明天皇が646年に崩じ、推古天皇若しくは皇極天皇が667年に生きていて、これらの天皇は日本書紀が書かれる以前の金石文で、学者が造作と切り捨てているけれども、おかしな話で、日本書紀より前にできた国宝の考古物が日本書紀と合わないから偽物と烙印を押すということはまかり通るものではなく、日本書紀の天皇以外に天皇が存在したのです。
645年には皇極天皇と孝徳天皇と池邊大宮治天下天皇が存在して、3人の天皇の記事が日本書紀に記述されている可能性があります。

2018年3月12日月曜日

終兵器のミサ 聖徳太子はタリシヒコか2

 さて、少し話を変えて、日本の歴史家は何故か中国・朝鮮が中心で両国をものすごく有難がるのですが、顕著に現れたのが中国に認められ冊封体制に組み入れられた「倭国は畿内政権しかない」としているのですが果たしてそうなのでしょうか。
『日本書紀』には推古天皇より前に隋までは呉国で王朝名が出現しなくて授号記事が無く高句麗とも友好関係で、新羅などとは神功紀以外非常に友好的なのですが、中国の史書は倭が貢献したとか授号したと書き、『三国史記』には新羅や高句麗には倭に関してほとんど侵略記事しかなく、どう見ても倭と日本は別の国としか考えられません。
中国史書には倭が百余国貢献したと書いて後漢時代になると30余国と減るのですがあとの70国は中国の冊封体制に入らなかったと書かれていると読めます。
そして、倭国の東にはいつも『後漢書』の狗奴国や『三国志』の倭種や『隋書』の秦王国があって、さらに、20国を治める東鯷国や扶桑国も中国史書に書かれています。
扶桑国の信ぴょう性を疑う議論が有りますが、『隋書』で倭は里を知らないと言っている通り隋の里単位ではなく短里を使っていることに怒っているような叙述と理解できます。
『梁書』は魏・晋朝の里程をそのまま採用した倭伝を書き、梁は倭王とは会っているけど来日していないので、倭が申告した短里の里数を聞きそれを長里と思い込み短里に変換した里数を記述したと考えれば、分身国の7千里・それから5千里の大漢国までの里程に矛盾がなくなり、扶桑国の里程は沙門慧深の言葉で「荊州から短里で2万里」で大漢国の隣と述べていると考えれば理解できます。
冠位の對盧も高句麗と友好関係なのだから取り入れる可能性があり、景行紀には「彦狹嶋王拜東山道十五國都督」と中国の官位を取り入れています。
親魏倭王なら306年に高句麗に頼んで呉を訪れる必要が無いのに頼んでおり、370年にも「呉國。高麗國並朝貢」と高句麗と共に訪中している。
倭王武が日本の131国を支配したと宣言しているのですが、要望したのに百済が認められないということは中国に逆らう地域は統治していなくても支配地と認めることで中国が統治していない土地でも中国の支配下とする中華思想の一旦で、倭に形だけの地位を与えた。
そして、その中には扶桑国も含まれておらず、470年には「於石上高拔原饗呉人」と宋の使いをもてなし、『隋書』に「東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也」と秦王国は中国人と変わらず夷蛮の国と思えないと感想を記している。
実際に『隋書』では阿蘇山近辺に倭の都が有り、この頃の肥後の支配者は欽明天皇の時に筑紫火君で筑紫国造磐井の孫にあたり、筑紫火君の子か孫がタリシヒコと考えられます。
そして、磐井は畿内政権に認められた国造でありながら、「磐井掩據火豐二國」と2国を、そして「誘致高麗百濟新羅任那等國年貢」と年貢を奪ったと記述して、倭王武が新羅など6国の支配者となったと認められたことと合致している。
磐井は畿内政権に敗れ殺されたのですが、なぜか子の葛子は出世して筑紫君と呼ばれたのだから、糟屋は盗られたものの、畿内政権に異変があって、異変に勝利した人物と葛子が協力して勝利したと考えられます。
そうでなければ、大敗した反乱分子が出世することは有り得ないし、大敗した磐井の墓が筑紫平野ではなく肥後の近くにあることと整合性がなくなります。
従って、隋書の倭(俀)国は磐井の子孫で畿内政権から見ると同盟国で配下の筑紫火君に過ぎず、その王であるから大王と呼ばれて当然で、聖徳太子も太子でありながら大王です。
そして、倭王を無理やり女帝にしなくてもよいのですから、タリシヒコは男王として間違いなく、もし、倭王の太子が聖徳太子ならリカミタフリがその候補となります。
さらに、倭王は自身を隋帝と対等な「日出處天子」と宣言しているのですから、皇帝の称号を持っていると考えられ、それが法興帝と呼んでも何の不思議がないと思いますし、もし、畿内政権の王が皇帝と考えていたのなら、遠慮なく日本書紀に記述すればよいのは当然です。
 しかし、それでもタリシヒコが聖徳太子と主張する人物がいるかもしれないですが、聖徳太子の死後太子が不在と舒明天皇の皇位継承時に推古天皇が述べています。
ところが、上宮法皇の薨去の翌年に嶋大臣が彦人大王の年、男弟王に「隅田八幡神社人物画像鏡」を送っていて、彦人は天皇になっていなくて太子と日本書紀に記述されています。
すなわち上宮法皇薨去の翌年に彦人が太子になったと書いていることから、聖徳太子がタリシヒコなら聖徳太子が死んだら跡継ぎの太子がいて太子不在を嘆く必要が無く、上宮法皇も聖徳太子ではないことが解りましたし、また、山背大兄王は太子と呼ばれていないです。

2018年3月9日金曜日

終兵器のミサ 聖徳太子はタリシヒコか1

 古田史学会で発表しようとしていた論文で、今回は聖徳太子に関する発表です。
最近世間をざわつかせていましたが、文部省は聖徳太子が実在せず厩戸豐聰耳に教科書を書き換えようとしました。
しかし、『日本書紀』には敏達紀に「其一曰菟道貝鮹皇女 是嫁於東宮聖徳」と娘婿の東宮聖徳、すなわち聖徳太子と記述し、用明紀にも「廐戸皇子 更名豐耳聰 聖徳 或名豐聰耳 法大王 或云法主王是皇子初居上宮」と記述していて、さらに推古元年に「立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子」と皇太子としています。
日本書紀敏達紀を記述した人物は聖徳太子が太子になったのは推古天皇の時代で、推古天皇の時代の人物が書いたことが「東宮聖徳」の記述でわかります。推古天皇より後なら、皇太子が初述の時すべて東宮と記述しないと整合性が取れませんが、「其三曰小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と、用明天皇の太子「遂作太子彦人皇子像與竹田皇子像厭之」となっているのに東宮が付加されていません。

それにもかかわらず聖徳太子実在せずとするわけは日本では何故か解らないが、『日本書紀』は元明・元正朝の官僚の造作だから信用できないというコンセンサスがあるからです。
 立派な先生方の理論に合うところは日本書紀の内容が正しいけれど、それに反するところは偽書だから無視せよとするのですが、その説に反論する人物も、どうせ正しくない内容から作り上げた理論だから偉い先生の理論は間違っているとして、逆に偉い先生が否定した部分を正しい、または違う解釈をして新しい理論を発表する、これが、日本古代史の現実なのです。
最近亡くなった古田氏も『三国志」は正しいとしてセンセーショナルに登場し、古代史研究者は騒然として一大論争を行ったが、所詮古田氏も邪馬台国を須玖岡本遺跡に卑弥呼の墓を持っていきたくて、古田氏自身が『三国志』を曲解させました。
奴国を伊都国に持ってこれた理由を古田史学の会の中枢部に聞いたところ奴国が伊都国を取り巻いた地域で、伊都国と奴国の間の百里は中心間の距離と言い、それではなぜ末盧国から奴国間の距離を書かないのかわけのわからない論理で言い訳をしていました。
そして、古田氏も『日本書紀』は近畿天皇家が九州王朝の歴史を都合の良いように書き換えたと日本の古代史研究者と同じ土俵に乗っかってしまいました。
従いまして、現在の古田史学は間違いの資料をもとに打ち立てた理論なのだから相手にされず、ご本人は反論できないから無視していると世を僻みながら亡くなられた。
すなわち、古田氏は大きな教訓を残されたことが解り、『三国志』が正しいとしたので、間違いと証明しなければなくなったから古代史研究者は焦り、『日本書紀』を間違いとしたためにどちらが正しいか、どちらも正しくないか証明できないので古代史研究家は安心したのです。
『三国志』は間違いと高をくくって、好き放題に自分に都合が良いように解釈して邪馬台国を我が町に持ってこれたのが、正しいとなったら持ってこれないことはわかりきっているのです。
従いまして、『日本書紀』が正しいのなら聖徳太子は実在して廐戸豐聰耳皇子で間違いないと言わざるを得ないのです。
 しかし、厄介なことがあって、それが『隋書』のタリシヒコと『法隆寺釈迦三尊光背銘』で『日本書紀』と合わない内容の文書があるからです。
タリシヒコは『日本書紀』には孝昭天皇の子の天足彦國押人または景行天皇や成務天皇に大タリシヒコや若タリシヒコが出てくるだけで、在野研究家なら『隋書』のタリシヒコは孝昭天皇だと言いかねない名前です。
また、光背銘には法興31年などと言う年号も鬼前太后も干食王后も『日本書紀』にカケラもなく622年に死亡と日本書紀と1年異なっていて、上宮法皇と同じ上宮に居た聖徳太子と『日本書紀』には関連付けているのに合わないのです。
古代史研究家は大弱りで隋は立派な太子を天皇と間違えて書いてしまったとしたけれど、分が悪いのでお得意の全部間違いやら造作・官僚が適当に書いたことにしてしまおうとしたわけです。

2018年3月7日水曜日

終兵器のミサ 「邪馬台国論争」の論文解説8

.最後に
 「邪馬台国畿内説」は「新井白石」の文字遊びから始まり、「本居宣長」の『古事記』偏重すなわち『古事記』と『三国志』は全く相いれない著作物(拙著『古代史家は古代史を偽造する』に詳述)であったため『三国志』の間違い説が完成した。
 『三国志』と『古事記』は全く相いれない書物で、『古事記』には『三国志』に出てくる国がほとんど出てこず、官名も多くが違い、矛は『古事記』では祭祀道具で武器は剣だと述べた。そのため、『古事記』が正しいとすると『三国志』を否定せざるを得ない。

『日本書紀』や『三国志』を否定することで論争がはじまり、前提が間違っていたから結論が出ず、出発点が間違っていたのであり、地名の類似など日本中に存在し、まずは『古事記』と『日本書紀』の評価から出発すべきだった。
 『三国志』が正しいとしないと結論が出ないことが邪馬台国論争でわかった。

『三国志』が正しいとも間違いとも証明することは難しいが、少なくとも『三国志』に書いてあることは厳然と存在して証拠になるが、『三国志』が間違いという記述は同時代に存在せず、間違いという証拠がなく、『三国志』を間違いにすると比較優位は争えるが証明できず、『三国志』を過去に戻って書き換えることは不可能だ。
現に、「間違い説」は双方が証拠をもって論理の矛盾を言い合うことができてしまうが、間違いと『三国志』にも同時代史書にも書いてないのだから「間違いでない説」を崩す証拠は簡単ではなく、批判しても違う「間違い説」が批判を否定し、「間違い説」内で自己矛盾に陥る。
『三国志』が間違いなら、「三角縁神獣鏡」も「漢式鏡」ももらったのかどうかわからないし、後代史書に登場するから「卑弥呼」はわらないが、邪馬台国自体あったかどうかわからない、「邪馬台国論争」自体が虚構の国を探していたことになる。
 史書を間違いとすると邪馬台国自体が有ったかさえ分からなくなるという危険性を述べた。

『三国志』に間違いがあるとした瞬間、『三国志』の記述を流用する時に、流用する部分が本当に正しいか証明することが必要なのは当然の帰結で、『三国志』間違い説の人々は『三国志』が正しい証明も必要になる。
『三国志』の信頼性を落とした瞬間、『三国志』の内容を使うことができないことを自覚せずに、自分に都合の良いところだけ、おいしいところだけつまみ食いする態度は許されることでは無かった。
『三国志』間違い説を論じる場合は金印を貰ったことや鏡を貰ったことが正しいという論証をしなければフェアではないことを述べた。

もし文書内に矛盾があっても間違いとするのではなく、矛盾した記述の原因を考えるべきで、多くは『梁書』の距離のように読者の誤解や「宣長」のように後代読者の誤謬からの派生に起因することを念頭に考慮すべきだ。
 後代の淺はかな考えで論ずるべきでなく、記述された時代背景を考えながら理解すべきことを述べた。

これで、「景初四年鏡」を「魏」からもらったなどという不可解な論調も改元をまだ知らない日本人の作成と解り、「三角縁神獣鏡」の呪縛がとけ、「三角縁神獣鏡」は「邪馬台国」以前から作られた可能性があり、「纏向遺跡」の再評価を行うことができる。
 三角縁神獣鏡を邪馬台国の証拠とする論理が崩れた時、三角縁神獣鏡の新たな意味が解り、真実の2~4世紀が理解できると述べた。
 いかがでしょうか。私は『三国志』を間違いとせず、『三国志』を現代の地図上で『三国志』が書く通りにプロットして検証して結論を得、それが『日本書紀』を作成した8世紀の観点そのままで検証されていたことを述べました。私は定説で良いと思うのですが、一応、仮説は1つで「今も昔も壱岐は直径約16Km程度」としただけでした。『三国志』をそのまま読めば、里程は国境間の距離で領内の歩行距離はどう見ても含まれていなかったのだから、『三国志』の読者はどう捉えるかを推論すると、千戸の国の広さが壱岐と対馬の広さで表していたので、『三国志』の読者もそのように読んだのではないかと考えた。壱岐の直径をもとに考えた結論が『日本書紀』によって論証されていたのだから、もし、これが間違いとするのなら、3世紀の壱岐の地図を探し出して1里を違う距離と証明し、島は接点通過、国と国の距離は中心で、残りの千3百~4百里の数値の論証、不彌国・邪馬台国間の距離を示し、不彌国・奴国・伊都国の中心域間が百里であることを証明すべきで、しかも、『日本書紀』がどうして香椎宮と誤解したかも論証しなければならない。2万戸の奴国が直径百里など有り得ないと思いますがね。そして、『三国志』が間違いとするのなら『三国志』内の事柄を述べるときは記述が正しいことを論証すべきであり、考古学的遺物も多くは史書をもとに編年されているので、遺物の年代指定も証明すべきである。『三国志』には三角縁神獣鏡を貰ったなどと書かれてはいないのだから。
!!!論理学を否定しない限り、仮説を立てて論証できないときは仮説は棄却されることは基本中の基本で、邪馬台はヤマトと呼べず、『三国志』は間違いではない。

もう一度書こう。 「邪馬台国論争」は8世紀に既に終わっていた。

2018年3月5日月曜日

終兵器のミサ 「邪馬台国論争」の論文解説7

6.邪馬台国論争の終焉
 邪馬台国論争など必要なかったことを述べた。

長い年月の間決着がつかない「邪馬台国論争」だが、決着がつかないのは前提、すなわち、『三国志』は間違いという前提が間違っていて、『三国志』が正しければ結論は決まっていたのであり、しかも、この結論をすでに論証している文献が存在し、それが『日本書紀』である。
 邪馬台国論争は論争の前提が間違っていたから論証できなかったのであり、『日本書紀』は躊躇なく邪馬台国の首都は香椎宮と述べていた。

『日本書紀』は「神功皇后紀」の「皇后39年」と「景初三年」239年、「皇后40年」と「正始元年」240年、「皇后43年」と「正始四年」243年に対応させて記述し、「一云足仲彦天皇居筑紫橿日宮」と東区にある橿日宮に宮を置いた伝説があったと書き、「猪野皇大神宮」の近辺の山田邨で斎王となって、「八幡」信仰は神功皇后の武功から始まっている。
 『日本書紀』は『三国志』の内容を『日本書紀』の干支が実際に合うように正しく埋め込んだことを述べた。

ここにも「山田猪」国があるが、落語のオチのような「山田イ・ロ・ハのイ」国でもあるまいし、いくら猪之国王と『後漢書』の「光武賜以印綬」の金印にあいそうでも、私は「邪馬台国論争」の原因の字面遊びを止めておく。
 これも皮肉で字面で論証しなくとも邪馬台国の論証ができたことを述べた。

まさしく、従来は神官に祀らせた神を王自らが神主となって祀る、『魏志』に書く「鬼道」すなわち、王が神との仲介者となり王の言葉が神の言葉とし、「香椎宮」には仲哀天皇陵と言われる円墳が有り、同時代に円墳が有ったことがわかる。
 『三国志』などの中国史書が言う鬼道の意味をを述べ、『三国志』の邪馬台国と香椎宮の整合性を述べた。

「神功皇后紀」の前代「成務紀」には国境を「則隔山河而分國縣」と山河で分け、国境間の距離0里の川幅の証明もされ、「隨阡陌以定邑里因以東西爲日縱南北爲日横山陽曰影面山陰曰背面」と太陽光を使って測量しているが、この測量に中国からもらった高品質な鏡を使ったことは十分考えられる。
 不彌国南邪馬台国の国境間に距離が無い意味と正しさを『日本書紀』の文面から証明し、鏡が必要だった意味を推論した。

さらに、「即以皇后所杖矛」と矛が記述され『三国志』の「兵用矛楯」と対応し、博多周辺の遺跡の豊富さは今更言及する必要もなく、「7万余戸」の大都市を疑う余地がなくて、そもそも、「7万余戸」の弥生時代の大都市はそれほど候補地があるわけがなく、遺跡状況からも畿内か福岡平野ぐらいしかない。
 『三国志』の記述内容と『日本書紀』の記述内容の同一性を述べ、邪馬台国の候補地の限定性を述べた。

そして、遅くとも8世紀に、『三国志』を読んだ『日本書紀』の記述者は『旧唐書』で「其人入朝者 多自矜大」と自国を巨大に述べ、短里を使用していたと考えられ、「不彌国の南は東でなく南で正しい、萬二千里の地は香椎宮にあたり、神功皇后の時代の話」と感じ、『三国志』の「邪馬台国」の首都を「香椎宮」と理解し、「邪馬台国」の首都は「香椎宮」だと証言していて、「邪馬台国論争」は既に終わっていたことが証明されていた。
 『日本書紀』の著者がまだ短理を使い、短理で『三国志』を読んだため、邪馬台国の首都を香椎宮としたと述べた。

この証言は、大和朝廷自らが認めた、邪馬台国が畿内になかったから仲哀天皇だけ穴門や香椎、御笠の松峽に宮を遷し、特に香椎は一説にして、「卑弥呼」は大和朝廷の人物でないことを証言した。
「卑弥呼」が゙大和朝廷の「倭媛」などなら隠す必要が無く堂々と「倭媛魏志云卑弥呼」と書けばよいのだ。
 大和朝廷と邪馬台国は別国という証拠で、私は『日本書紀』を書いた政権は「倭国→日本」の政権ではなく、701年にクーデターで政権を奪った中臣政権だと論じている。

2018年3月2日金曜日

終兵器のミサ 「邪馬台国論争」の論文解説6

5.地理的考察
 実際に地図から邪馬台国の福岡市東区説を検証した。

 実際に、唐津から東区まで60Km千2百里で、海の中道経由の東区まででも60Kmと同じで、島めぐりなどと言って半周しなくても、実際は国の領内歩行で「末廬国」内の歩行も含めると距離の残余など無く足りないくらいで、「奴国」の東、「不彌国」の南と絶対動かせない位置を示していた。
 カーナビで調べても、地図で通過点を押さえても距離は60Km松浦・糸島5百里、糸島・不彌百里で残余千4百里の内6百里を費やしてしまった。

古田氏は百里7Kmとしたが、唐津から糸島まで25Kmで5百里、35Kmなら福岡市西区に着いてしまい、「末廬国」や「伊都国」の周旋や地形変化と強弁するのだろうか。(図4)
 古田説の百里7Kmの否定を再度ダメを押した。

『三国志』の古代の一般の読者が普通に感じ取った方法、朝鮮半島南端から水行3千里、しかし船ばかりなら「投馬国」へ水行20日のように3等分する必要が無く、それぞれ陸行があると理解し、陸行は「或絶或連周旋可五千餘里」と歩いて海にぶつかり、船で陸地にぶつかり、曲がりくねって「五千餘里」の行程だと書いている。
 日本海を全て船行を間違いとしないので証拠となる『三国志』の文面から否定した。

行程がわるように、1国の大きさを「對海国」と「一大国」で300から400里四方程度と想像させ、500里・100里と徐々に距離を短くして、最後は「奴国」と「不彌国」で「邪馬台国」の位置を2点で確定し、さらに先の東には倭種、南には「其南有狗奴」と敵対する国があって、さらに南に船でないと行けない、間に敵国がある「投馬国」と、拡がりを描く手法である。
 『三国志』の記述法の意味を考えてみた。

実際の朝鮮半島から松浦半島北端まで180Km程度、そこから福岡市東区まで80Km程度、対馬の比田勝・厳原港間70Km強、壱岐の勝本漁港・印通寺港間15Km強で合計の陸行165Km強、松浦半島中間の唐津港なら3対2の距離となる。(図5・6)
ちなみに、現代の釜山・比田勝航路と厳原・勝本航路は70Km強、印通寺・唐津航路は40Km強で合計180Km程度の3千6百里、唐津・福岡市東区60Kmで陸行145Kmの2千9百里となる。
 実際の地図をプロットして測ったり、旅行パンフレットの数値を記述した。

印通寺・唐津航路の40Kmが少ないと思われるが、古代の航路は『三国志』に「從郡至倭、循海岸水行」と目印を見ながら沿岸航行を行ったと考え、朝鮮から壱岐までは目標に向かって一直線で、松浦半島は入り組んだ沿岸を航行すれば距離50Kmに近づく。
 『三国志』の文例から古代航行の方法を述べた。

すなわち、船行3千里、対馬4百里、壱岐3百里、末廬・伊都間5百里、伊都・不彌間百里で、千戸程度の1国の直径3~4百里で伊都国内不彌国内計7百里と考えれば約5千里だ。
 『三国志』に書かれている距離は国境間の距離しか書いて無いので計算が合わないだけで、領内歩行は当然の加算要因で、実際に唐津邪馬台国間千2百里なのに6百里を記述しているだけだ。

唐津・福岡市東区60Kmに末廬・伊都間5百里、伊都・不彌間百里を除いた何かが加わり、末廬以降に30Km、末廬以前に40Kmの道程が無ければ意味が通らないのが『三国志』の文章で古代中国の読者は領内歩行を補ったと考えられる。
 自分が『三国志』読者なら普通に考えられる論法を示した。

朝鮮から対馬、対馬から壱岐が55Kmで各々千里余、壱岐から唐津は40Kmだが沿岸航行なら50Km程度千里になり、最短距離で測定した参考図では対馬内50Km、壱岐内15Km、唐津福岡市東区間60Kmで合計125Km2千5百里、併せて5千5百里で壱岐方3百里を現在の壱岐の直径15Kmとするとほぼ符合して、百里5Kmを見直す必要が無く証明されたと言ってよい。
 仮説の百里5Kmを導入すると齟齬なく邪馬台国を論証でき、仮説の正しさを証明でき、百里5Kmを説(事実)と呼んでもよいことが解った。あとは、他の論者が私の論理を検証し間違いが無い事が証明されたなら定説となる。