2018年3月9日金曜日

終兵器のミサ 聖徳太子はタリシヒコか1

 古田史学会で発表しようとしていた論文で、今回は聖徳太子に関する発表です。
最近世間をざわつかせていましたが、文部省は聖徳太子が実在せず厩戸豐聰耳に教科書を書き換えようとしました。
しかし、『日本書紀』には敏達紀に「其一曰菟道貝鮹皇女 是嫁於東宮聖徳」と娘婿の東宮聖徳、すなわち聖徳太子と記述し、用明紀にも「廐戸皇子 更名豐耳聰 聖徳 或名豐聰耳 法大王 或云法主王是皇子初居上宮」と記述していて、さらに推古元年に「立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子」と皇太子としています。
日本書紀敏達紀を記述した人物は聖徳太子が太子になったのは推古天皇の時代で、推古天皇の時代の人物が書いたことが「東宮聖徳」の記述でわかります。推古天皇より後なら、皇太子が初述の時すべて東宮と記述しないと整合性が取れませんが、「其三曰小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と、用明天皇の太子「遂作太子彦人皇子像與竹田皇子像厭之」となっているのに東宮が付加されていません。

それにもかかわらず聖徳太子実在せずとするわけは日本では何故か解らないが、『日本書紀』は元明・元正朝の官僚の造作だから信用できないというコンセンサスがあるからです。
 立派な先生方の理論に合うところは日本書紀の内容が正しいけれど、それに反するところは偽書だから無視せよとするのですが、その説に反論する人物も、どうせ正しくない内容から作り上げた理論だから偉い先生の理論は間違っているとして、逆に偉い先生が否定した部分を正しい、または違う解釈をして新しい理論を発表する、これが、日本古代史の現実なのです。
最近亡くなった古田氏も『三国志」は正しいとしてセンセーショナルに登場し、古代史研究者は騒然として一大論争を行ったが、所詮古田氏も邪馬台国を須玖岡本遺跡に卑弥呼の墓を持っていきたくて、古田氏自身が『三国志』を曲解させました。
奴国を伊都国に持ってこれた理由を古田史学の会の中枢部に聞いたところ奴国が伊都国を取り巻いた地域で、伊都国と奴国の間の百里は中心間の距離と言い、それではなぜ末盧国から奴国間の距離を書かないのかわけのわからない論理で言い訳をしていました。
そして、古田氏も『日本書紀』は近畿天皇家が九州王朝の歴史を都合の良いように書き換えたと日本の古代史研究者と同じ土俵に乗っかってしまいました。
従いまして、現在の古田史学は間違いの資料をもとに打ち立てた理論なのだから相手にされず、ご本人は反論できないから無視していると世を僻みながら亡くなられた。
すなわち、古田氏は大きな教訓を残されたことが解り、『三国志』が正しいとしたので、間違いと証明しなければなくなったから古代史研究者は焦り、『日本書紀』を間違いとしたためにどちらが正しいか、どちらも正しくないか証明できないので古代史研究家は安心したのです。
『三国志』は間違いと高をくくって、好き放題に自分に都合が良いように解釈して邪馬台国を我が町に持ってこれたのが、正しいとなったら持ってこれないことはわかりきっているのです。
従いまして、『日本書紀』が正しいのなら聖徳太子は実在して廐戸豐聰耳皇子で間違いないと言わざるを得ないのです。
 しかし、厄介なことがあって、それが『隋書』のタリシヒコと『法隆寺釈迦三尊光背銘』で『日本書紀』と合わない内容の文書があるからです。
タリシヒコは『日本書紀』には孝昭天皇の子の天足彦國押人または景行天皇や成務天皇に大タリシヒコや若タリシヒコが出てくるだけで、在野研究家なら『隋書』のタリシヒコは孝昭天皇だと言いかねない名前です。
また、光背銘には法興31年などと言う年号も鬼前太后も干食王后も『日本書紀』にカケラもなく622年に死亡と日本書紀と1年異なっていて、上宮法皇と同じ上宮に居た聖徳太子と『日本書紀』には関連付けているのに合わないのです。
古代史研究家は大弱りで隋は立派な太子を天皇と間違えて書いてしまったとしたけれど、分が悪いのでお得意の全部間違いやら造作・官僚が適当に書いたことにしてしまおうとしたわけです。

0 件のコメント:

コメントを投稿