2018年4月30日月曜日

最終兵器のミサ 日本書紀のレシピ2

 私は『古事記』と『三国志』を比較して、記述している対象地域が異なると論証し、『日本書紀』と『古事記』を比較して『古事記』が豊国の王朝の史書で仁賢天皇が書いたとした。
そして、『日本書紀』と『新唐書』から『日本書紀』が2代前にズレていて『古事記』の内容がズレた記述があり、『続日本紀』とも比較して天智朝が695年まで続いたと論証し、乙巳の変が664年、壬申の乱が701年だったと荒唐無稽とも見れる論理を示した。
そして、天皇というものは宮の歴史でそこに天皇を当てはめたものだと示し、天皇には複数の王が記述され、複数の王があたかも一人の王と見えるようにしたものと示した。
そして、その基準となったのが天智天皇の家系の王朝史で立太子によって王朝交代が起こり、天智天皇の家系は中国の冊封体制下にあったため中国元号という絶対年代がわかり日本書紀の基準時計となったと示した。
そして、あまり信頼されていなかった『先代旧事本紀』と『古事記』・『日本書紀』を比較することで『先代旧事本紀』の年干支と日干支を使った絶対年代を確認したとき、神武建国から始まる天皇の絶対年代の即位を確認した時、すべてを理解することができた。
これら3書の作成順(完成順ではない)は『日本書紀』の安康天皇まで→『古事記』の顕宗天皇まで→『日本書紀』の崇峻天皇まで→『古事記』・『先代旧事本紀』→『日本世記』・『日本紀』の天智天皇までという順で、『古事記』までの史書は紀伝体で絶対年代が全く分からない王それぞれの記録を生まれた順を想像して並べた。
そして、『日本書紀』はさらに「継体・善記」から始まる多くの地域で流通する元号が書かれていないことから、『日本書紀』を書いた王朝は自身が建元した元号ではなかったから書かなかったこと、そして誰が記述者かを知ることができる。
白雉年号を建元した舒明天皇と朱鳥を建元した天智天皇は少なくとも『日本書紀』を追記させ、常色以前は舒明天皇の王朝の建元でなく、白鳳元号は天智天皇の王朝でなかったので天智天皇『日本書紀』に書かなかった。
そして、『先代旧事本紀』を書いた王朝は干支という絶対年代を知っていたため干支付きの史書を書き、『日本世記』には中国元号を基にした編年体の史書が書かれていたのだろう。
そして、『日本書紀』を完成する材料が揃い、まず、『先代旧事本紀』の元資料の干支を並べ、干支を始めた王朝の宮の干支付きカレンダーを用意する。
次に中国年号を使っている王家の王朝交代がその王の何年目かをカレンダーに落とし込み、さらにその王家の畿内に関係する記事を落とし込んでいく。
次に、各王家の王や宮の内容(多くは干支が解らない?)をカレンダーの干支を変えないで落とし込んでいくので、干支と記事は無関係で、中には干支付きの記事が有ってカレンダーにその干支が無い場合はその干支のまま使うので干支が合わなくなる。
そのため、干支が合っていても内容に矛盾が生じたり、記録の干支と全く合わない干支の記事は是日・是月・是年を使って日干支を書かないということになる。
履中天皇が『三国志』に倣って、「始之於諸國置國史。記言事達四方志」と4国の史書を併せた『四方志』のように、各王家の事績を併せた方法が舎人親王の『日本書紀』を完成させた方法なのである。

2018年4月27日金曜日

終兵器のミサ 日本書紀のレシピ

 現在の『日本書紀』は8世紀の官僚が作った偽書で信用できない、継体以降は信用できるがそれ以前は信用できないという、信用できない人物が作った書物を半分信じるという理屈にもならないことを平然と述べ、無邪気にもそれを信じている人々が日本ではほとんどだ。
『続日本紀』には「舍人親王奉勅 修日本紀」と『日本書紀』でないことが証拠などと言う人々もいるが、考え方が「先に『日本書紀』偽書有りき」で、この文面は『日本紀』を修正して『続日本紀』を書いた人々が知っている『日本書紀』を作ったとの意味で、そのため『日本書紀』には『日本舊記』・『日本世記』と記述されていて、『日本紀』があるからそれに対して古い『日本紀』は『日本舊記』であり、それらを併せた『日本書紀』なのである。
8世紀につくったのなら、欠史8代は不要、長命天皇も不要、長い統治も不要、中国や朝鮮の史書を見て知っているので、その事件に合わせて書けばよいのだから、それらとずれるはずが無く、武内宿祢が2世紀にわたって出現させる必要もなく、九州王朝を消さなくても、すべて天皇が行ったことにすればよいのです。
「郭務悰」が進駐したなどと書く必要もないし、計算して作った干支を一巡・二巡ずらしたり、天皇の死亡記事が解らないなどと書く必要もないのです。
現代の人々は古代の人々を、自分と同類の無邪気な人々、空想と現実の見分けがつかない人々と見誤り、無邪気に空想科学小説として『日本書紀』を理解しているが、現代の人々は空想科学小説を論拠に大真面目に古代史・考古学を論じていて、鉄腕アトムが・仮面ライダーが信長・秀吉・家康と同列に伝記に載せるように映り、滑稽でならない。
『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』も野中寺の『弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』も空想科学小説の『日本書紀』に合わないから偽物とするが、なぜか国宝になっているのだ。
日本は偽造という犯罪者の作品を国の宝とする異様な国家と映ってしまい、ピカソの模造画があまりにも素晴らしいから国宝にすると同じことを行っており、本来、日本国民は国に対して訴訟を起こすべきと言わなければならない。
勿論、本来は逆で、どちらも本当に立派な国の財産で、現代の人々の目が曇っているのであって、訴訟を起こすべきは国宝側で、名誉棄損で古代史学者を訴えるべきなのである。
『三国志』の著者陳寿は壱岐の広さは漢代からの常識で15Km四方だと知られていた、邪馬台国は会稽の南ではなく東にあたり、『後漢書』に「倭在韓東南大海中」・『三国志』に「大海之中」すなわち『山海經』以来から書かれている海中(渤海・黄海・東シナ海)にある、大和なら日本海の「海外」か太平洋の「大荒」になるということは常識で間違いないと弁論するはずである。

2018年4月25日水曜日

終兵器のミサ 唐は日本古代史を良く知っていた2

 そして、『新唐書』は多くを『日本書紀』の内容と『旧唐書』を踏襲して記述されて、新生日本国の初代の王の天智は天豐財の子とやはり『日本書紀』を踏襲しているが「孝徳天皇」は兄妹で親子ではない。
以前は子から親の相続を理解できなかったと書いたが、私はもう新しい段階を知っていて、650年から662年、実際は664年まで「俀国」では親と長男の相続が継ながったと考えるべきで、倭国の用明から斉明天皇までを「俀国」の用明から孝徳天皇までと置き換えたのである。
本来「倭国」が日本を征服して664年に「俀国」が奪った日本の歴史から、「倭国」を消し去ったということで、「俀国」の孝徳天皇だから、実際は天皇ではなかったが、664年に天皇に即位したから、意味不明な「未幾孝德死」と即位後すぐに死亡と記述したのであり、中国の史書は古くは「神国」・「大国」・「扶桑国」・「秦王国」をほとんど無視したように『新唐書』は「倭国」を無視することにした。
天豐財の親の孝徳天皇(夫婦)は11年間続き、長男で天豐財の兄は661年から跡を継ぎ、実際は664年に日本の天皇として即位したが直ぐに崩じて、天豐財すなわち中宮天皇が即位したが、天豐財の名は『新唐書 劉仁軌傳』の「仁軌乃率新羅・百濟・儋羅・倭四國酋長赴會 天子大悅」と天子と会見した為に名が記された。
私は皇祖母が不思議でならなかったが、670年建国の新生日本国の皇祖は天智天皇だから、その母が皇祖母なのであり、皇祖という地位が重要で、以降、皇位を継承する時、『続日本紀』に「神亀元年・・・挂畏淡海大津宮御宇倭根子天皇乃万世尓不改常典」と不改常典を天智天皇が定めたとされ、最初に日本国王を継承した天武天皇が宣言し大化年号が始まり、大化の改新と呼ぶのではないだろうか。
後代の醍醐天皇が延喜式に国忌を制定した時、醍醐天皇の直系とはいえ嵯峨天皇が含まれていないにも拘らず、天智天皇を含めたのは、天智天皇が皇祖だからであろう。
そして、文武・阿用も藤原宮・平城宮と解釈でき、『日本書紀』と同じ王朝観を描いていて、『新唐書』も『日本書紀』を踏襲し、同じ皇位継承を記述した可能性があり、『続日本紀』の養老七年723年十月に「得左京人紀朝臣家所獻白龜・・・孝經援神契曰 天子孝 則天龍降 地龜出」とある様に、実際は神亀年号ではなく白亀年号が正しかった可能性がある。
このように、唐は中国にとっての最大の敵国日本の古代史を最初にまとめ上げた日本人より優秀な日本研究者だったのであり、そのために新羅と日本を分断し漢朝からの宿敵日本に勝利し、日本を分断させた冊封体制に入っていた倭奴国の末裔によって日本国を崩壊させ、日本国を冊封体制に組み入れることができたのである。

2018年4月23日月曜日

終兵器のミサ 唐は日本古代史を良く知っていた1

 新唐書は「日本古倭奴也・・・日本乃小國爲倭所并故冒其號・・・仲哀死 以開化曽孫女神功爲王・・・次欽明 欽明之十一年 直梁承聖元年 次海達 次用明亦曰目多利思比孤 直隋開皇末始與中國通 次崇峻 崇峻死 欽明之孫女雄古立 次舒明 次皇極・・・太宗貞觀五年 遣使者入朝・・・永徽初 其王孝德即位改元曰白雉・・・令出兵援新羅 未幾孝德死 其子天豐財立 死 子天智立 ・・・天智死 子天武立 死 子總持立 咸亨元年・・・倭名更號日本・・・或云日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉 又妄夸其國都方數千里・・・長安元年 其王文武立 改元曰太寶 遣朝臣眞人粟田貢方物・・・文武死 子阿用立 死 子聖武立 改元曰白龜」と記述されている。
中国元号の承聖元年・貞觀五年・ 咸亨元年・ 長安元年と『日本書紀』の天皇に矛盾が無く、日本の元号の白雉・太寶も『日本書紀』どおりで、国号の変更も『三国史記』の「文武王立・・・十年・・・倭國更號日本」と同じく670年だ。
ところが、『漢委奴國王』印記事の『後漢書』「東夷倭奴國王遣使奉獻」の「倭奴」のあと、「倭國王帥升」・「卑彌呼」・「壹與」・「倭王倭濟」・「倭國王世子興」・「倭讃」・「弟珍」・「弟武」を無かったかのように記述しないのである。
『旧唐書』では「倭国者、古倭奴国也」とし、「日本国者倭国之別種也」としていて、先祖は倭国と同じ倭奴国だが、倭国とは別種で、「多利思比孤」は新生日本国の先祖として、倭国とは異なるとしている。
『隋書』では「俀国」と「倭国」が記述され「俀国」は絶縁され「倭国」は引き続き隋・唐と交流し、『新唐書』に敵国として「扶餘隆繇熊津白江會之 遇倭人白江口」と倭国が記述されている。
すなわち、『旧唐書』は「二十二年、又附新羅奉表」も含めて白江までの倭国は敵国で本小国だった「倭奴国」→「俀国」が旧日本・倭国を乗っ取って倭国から日本国に国号を変えたと記述していて、倭国は中国に歯向かう敵国と書いて切り分けている。
『後漢書』に「建武中元二年 倭奴國奉貢 朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也」、『三国志』に「倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑 舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國・・・女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」、『旧唐書』に「倭國者 古倭奴國也・・・日本國者倭國之別種也」、『新唐書』に「日本古倭奴也」と記述されている。
それ以外は倭国の位置や風習・事件を記述しているので、日本国の生い立ちに関しては4書のみで、倭奴国は倭国の一部で倭国の中心国、その倭国が『旧唐書』に「仁軌遇倭兵於白江之口」と白村江の戦いによって崩壊し、日本は倭国の別種で『三国志』に出現する邪馬台国の東の倭種を倭国の一部の倭奴国の分国が併合した国と記述している。
さらに、『新唐書』に「神武立,更以天皇爲號,徙治大和州」と倭国の別種で『三国志』に出現する邪馬台国の東の倭種日本は神武天皇からずっと大和にあったと記述し、唐が正式に倭国と外交するのは631年の「貞觀五年、遣使獻方物」で、倭国は倭奴国の分国の王の天智天皇のとき崩壊し、670年に新生日本を建国するのである。

2018年4月20日金曜日

終兵器のミサ 九州王朝説の鎮魂歌2

 「古田武彦氏」が主張する「九州王朝説」は『日本書紀』が無視するどころか中国史書も東に「俀国」と異なる王が存在する、しかも、おそらく王がいない国などないのだから、王をまとめる王がいる「秦王国」を認め、「俀国」と異なる「俀国」の分国のような扱いの「倭国」が「秦王国」に取って代わったと記述して、古田説を否定している。
畿内政権が九州王朝の分国というのは「唐書」ではその通りだが、古田氏が主張する神武帝からの分王朝は考え直さなければならない。
磐井以前の筑紫は福岡平野のみ独特な須恵器を出土し、磐井以後筑後平野に広がっていて、古墳の埋葬法も竪穴と横穴で磐井より前は異なり九州王朝の代表王朝の地位は疑わなくてはならなず、畿内政権の配下の九州の国と呼ばなくてはならない。
唐は『日本書紀』が記述する白雉元年の儀式に唐の使者が出席し、断交した九州王朝「俀国」ではなく国交のある「倭国」の首都難波宮に招待されたのであり、副都仮説は否定され、九州王朝「俀国」と断交した「唐」が使者を「俀国」に送ることは有り得ない。
名実共に日本国内で天皇にはなれなかったが大王の地位を得た「俀国」は中国が王朝交代したとはいえ冊封体制に組み入れられていた臣下であったことを忘れて、対等な天子とおごり隋朝から断交された。
そして、その代わりに、「俀国」の分国が「俀国」に代わって歴史ある「倭国」を名乗っていて冊封体制を継続したが、名目上臣下だと思っていた「新羅」は「倭国」と対等になってしまい、政策を間違えて「百済」を援助した為に、「唐」の駐留を許すことになった。
 畿内政権は古く「漢」代には「委奴」国とは違う「東鯷国」が存在し、その後、周防を出発して「狗奴」国を「邪馬台国」の東から南に押しやった倭種の国、『梁書』で「宋大明二年 賓國嘗有比丘五人游行至其國 流通佛法」とインドから仏教を学んだ「扶桑国」が存在したと記述した。
『梁書』は同時代の『隋書』に「夷人不知里數但計以日」と記述されるように里単位に矛盾があるが、その理由は倭人の里単位が「隋」と違う里単位を使っていると述べているのであって、『梁書』は里単位に矛盾があることが解る。
『漢書』・『後漢書』・『三国志』・『梁書』・『隋書』・『旧唐書』は一貫して西に倭国、東に倭種の国が存在し続けたが国交を持ってこなかったのは、冊封体制を拒否した国であったからだ。
『三国史記』ではいつも「倭」と戦っていた「新羅」が『日本書紀』ではあたかも日本の冊封体制に組み入れられているかのように書かれていて同じ「新羅」と見えないのは、『日本書紀』が「倭」と一線を画した史書であり、「秦王国」から「倭国」に政権が変わってもあたかもずっと継続しているように記述している。
古田説の委奴国から白村江まで九州王朝が支配して、白村江の戦いで敗れて現在の天皇家が政権を奪取したがミレニアムである700年まで名目上天皇で国号変更も行ったなどと言う訳の分からない説はマスコミに弄ばれた古田武彦氏とともに埋葬されたのである。

2018年4月18日水曜日

終兵器のミサ 九州王朝説の鎮魂歌1

 7世紀の日本列島は『隋書』によれば、魏志の邪馬台国から続き隋時代には『隋書』に「有阿蘇山其石無故火起接天者」と阿蘇山の見える位置に有る「俀国」と呼ぶ国と「又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」と竹斯國をはじめその東に30国余有って、その中に「秦王国」という王がいる国があると言っている。
俀国にも王がいるのに俀王国と呼ばないということは、王国を支配する国だから秦王国なのであり、王国の連合体であることを『隋書』は述べているのである。
そして、607年の直前の阿蘇山近辺の王は火君・火中君兄弟、その父筑紫君が支配していたと考えられ、筑紫君は筑紫国造の磐井の子で磐井が豊国や火国を侵略して新羅の貢物も我が物にすると言って物部麁鹿火に天皇が九州を付与すると約束して磐井を攻め、磐井を殺害し勝利した。
しかし、なぜか葛子は筑紫君に出世し、それからこの地域に新しい王が現れておらず、「俀国」の「タリシヒコ」は「火・火中」君若しくはその子たちと考えられ、『先代旧事本紀』の614年即位の欽明天皇がいた例でも分かるように、583年即位の欽明天皇十七年の「百濟王子惠請罷・・・別遣筑紫火君 百濟本記云 筑紫君兒 火中君弟 率勇士一千衛送」で556年ではなく、恵王即位時の599年の可能性が高く、欽明天皇が「火中君」、「タリシヒコ」が「火君」の可能性が高い。
倭の5王時代の「倭国」は筑紫国造のことで、中国から「新羅」や日本全土の王に任命されたことで「新羅」の利権を我が物にし、豊・火に侵略したと考えられるが、天皇にとっては自分の配下が天皇の支配領域を侵略したため、賊軍磐井を殺した。
だが、逆に筑紫君という同盟関係の国に出世し「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢」のように「俀国王 オオキミ タリシヒコ」となった。
そして豊国以西は天皇の領域で天皇のいる王国は「秦王国」となり、中国史書は初めて「倭国」以外に王の存在を認めた。
 「俀国」は大業三年607年に国書をもって朝貢し「明年 上遣文林郎裴淸使於俀国・・・此後遂絶」と翌年裴淸が来日したがうまくいかずに断絶したにもかかわらず、「大業四年・・・倭・・・遣使貢方物。六年・・・倭國遣使貢方物。」と同年3月及び大業六年610年に「倭」が使貢したということは、「俀国」と異なる国の「倭」が存在して中国と国交を続けている。
すなわち、30国余の1国なのだろうが、「倭」は続いて『旧唐書 』の「貞観五年、遣使献方物」と631年、『日本書紀』の「舒明天皇四年 唐國使人高表仁等到干難波津。」と舒明天皇4年632年に高表仁が国書を渡せず失敗したが、「二十二年、又附新羅奉表、以通起居」と648年「倭」が国書を送り『日本書紀』の「白雉元年休祥。又遣大唐使者。」と650年唐から使者が来日した。
『舊唐書』の「麟德二年 封泰山 ・・・倭四國酋長赴會 高宗甚悅」と665年には天子と接見し、『三國史記』の「十年・・・倭國更號日本」と倭王が国号を日本に変えたと記述されていて、『舊唐書』に「日本舊小国、併倭国之地」と「倭」は日本の前身の国と異なるもと小国だったが、少なくとも632年には高表仁が来日しているので日本の前身の「倭」はこの頃倭が王となった。
『旧唐書』でも「倭」は「 古倭奴国也」としていて、「俀国」の分国で倭国がもともと「筑紫国造」だったのだから、その近辺としか考えられない。
「唐」になって「王子」と争ったと書かれているのだからこの時点では「倭」は王で小国の王だった「舒明天皇」の一族が大国の日本の前身の王となったのである。
その間消失した国が「秦王国」で発生した事件は舒明天皇即位時の「山背大兄王」との皇位継承の争い、「崇峻天皇」の殺害、「物部守屋」との戦いのどちらかとなる。

2018年4月16日月曜日

終兵器のミサ 日本人はいつ誰から日本人になったのか2

 弥生人が水田技術や土器をもって九州に侵略する前に縄文人が水田技術や弥生式土器の原型を持ち、渤海の文化である支石墓も取り入れた。
弥生人・倭人の史書の『日本書紀』の神話でも、「擧此豐葦原瑞穗國而授我天祖彦火瓊瓊杵尊。」と「ニニギ」は水田のある瑞穂の国を大国主から譲り受けたと高らかに宣言した。
国譲り前は「天国」に居住していたが、それは「大八島」であり、『山海經』の「海内東經」の中の黄海、東シナ海にあたる可能性が高い。
『山海經』の「海外南經」に「地之所載六合之閒四海之内照之以日月」と記述され、海外というのは日本海のこと、四海は東・西・南・北海の「海内」でその中の六合の間と記述している。
すなわち、朝鮮半島南部が対象で、『日本書紀』にも「此子光華明彩 照徹於六合之内」、「閉磐戸而幽居焉 故六合之内常闇而不知晝夜之相代」などと、漢以前の中国と同じ常識で記述されている。
そして、「海外南經」にも倭は出現せず、「大荒東經」の「海内有兩人名曰女丑 女丑有大蟹」と記述される「大蟹」から「海内東經」の「大鯾居海中 明組邑居海中 蓬萊山在海中 大人之市在海中」が倭の可能性大で、なぜなら、「大人之市」より後は渤海に話が変わって東シナ海の会稽まで記述するからである。
 倭は少なくとも「周」初には黄海近辺に存在し、『論衡』に「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」と記述するように「越」を頼っていることからもわかる。
黄海地域は6000年以上前から南九州、有明海、天草、朝鮮南部などと共通した縄文土器が出現するなど一つの文化圏を形成している。
人々は弥生人が中国や朝鮮、果ては南方の島から移住した、いや、北方民族の征服王朝だという人々も合わせると全ての人々が弥生人・倭人は日本列島以外から縄文人を征服したと、中には平和的という人も存在するが、どちらにしても征服したことには違いが無い。
ところが、出雲神話の国引きのような縄と杭を使って建国したように、縄文時代の神話としか思えない神話を残し、縄文土器の流れをくむ土器を使用し、縄文時代の大国主を祀る、言葉は全て捨てて日本語を話す、漢字の導入も漢代の文字と読み、そんな征服があるのだろうか。
日本はいつでも1つの民族が住んでいるという幻想が弥生人移動説を生み出したのであり、人類史的に見れば民族は最後の氷河期が終わったときに始まり、夫々の土地に定住して土器を作り始めた。
土器を持っての移動は大変なのだから定住が当然で、定住した民族毎の感性や宗教観によって土器様式がかわり、現代の民族が形成され、最も早い時期に定住した地域の1つが日本列島だ。
そして、日本列島の土器様式は1種類だけではないことに留意すべきで、その中に縄文人・弥生人・アイヌ・琉球人その他が存在したと考えるべきではないか。

2018年4月13日金曜日

終兵器のミサ 日本人はいつ誰から日本人になったのか1

 現在、日本ではもともと弥生人が日本列島に存在せず、中国や朝鮮半島から縄文人を混血も含めて席巻したと疑いなく信じられている。
凡そ弥生人イコール倭人が従来の定説で、倭人が稲と弥生式土器を日本列島に導入したと考えられてきた。ところが、水田が紀元前1000年頃に始まったことが解ると、弥生土器も従来科学的測定法を否定してきたはずが急に信頼され紀元前900年頃まで遡ってしまったのである。
朝鮮半島の松菊里型住居と似た江辻遺跡が倭人の侵入と関係なくなってしまい、菜畑遺跡の土器には山の寺式土器が含まれ1000年前には縄文と弥生が混在することになった。
江辻遺跡と菜畑遺跡に共通する模様の「彩文」の存在から、江辻遺跡の「円形竪穴式住居」は逆方向、九州から朝鮮のように水田の移動と同じになってしまった。
しかし、この変化は弥生人すなわち倭人の朝鮮半島からの流入を主張する人々は見なかったこと、聞かなかったことにしているようだ。
 『山海經』は夏王朝以前を対象に記述する漢代に完成した神話だが、漢代の地理理解がかなり影響されていて、渤海から黄海のことを記述した「海内東經」には北から順に領域、国が付記されていない地域を記述している。
神話時代の「燕」は中国外、「北山經」に「北百二十里曰燕山多嬰石 燕水出焉東流注于河」と凌河の水源地らしき場所を指定しているが、「海内東經」という後に中国に組み入れられた「海内經」地域のすぐ外に「鉅燕在東北陬」と記述された。
「燕」は中国の東北隅にあり、万里の長城を見てもわかるように、遼東半島から北上して西に向っており、領域として合致する。そして、「蓋國在鉅燕南」の「蓋國」は『史記』の「周」の武王の項に「西伯蓋即位五十年・・・蓋王瑞自太王興」と記述され、定説は「けだし」とさられているが、この項だけ「蓋」の文字が頻出していて不可解なため、私は蓋が人名で「蓋国」は「蓋王の国」と考え、「蓋国」は「燕」ではなく「鉅燕」で「秦」代までの「燕」の支配域の南すなわち遼東半島付近となる。
「海内經」に「東海之内,北海之隅,有國名曰朝鮮」と朝鮮は朝鮮半島西岸「京畿湾」岸で「西朝鮮湾」の隅、少なくとも清川江より南だ。
「海内東經」の「朝鮮在列陽東海北山南 列陽屬燕」と「列陽」が鴨緑江近辺、「海内北經」の「匈奴開題之國列人之國並在西北」に繋がる。
そして「列姑射在海河州中 姑射國在海中屬列姑射」と続き、「東山經」に「姑射山・南姑射山・北姑射山」があり「列姑射」は山東半島・遼東半島近辺の国だということが解る。
その中に「海内東經」で「蓋國在鉅燕南倭北 倭屬燕」と「倭」が出現するが、「海内經」に出現しない、すなわち、東海にも西海にも北海にも南海にも入らない、「朝鮮」にも属さないことから、黄海に浮かぶ島が予想される。
『漢書』には、「殷道衰箕子去之朝鮮教其民以禮義田蠶織作」と記述し、さらに、燕の侵略や衛氏との戦いや郡設置を記述して、倭人が逃れたことを一文字も記述していないことからも、倭人が朝鮮半島の住人ではない。
倭を書きながら、会稽郡や朝鮮半島に倭人を書かないのであるから、倭を無視しているわけでないので、書かれていないだけで実は居たとの論法は証明不足で、書かれていないけれど有ったならそれは空想となり科学ではない。

2018年4月11日水曜日

終兵器のミサ 日本書紀・先代旧事本紀と干支4

ここで、『上宮聖徳法王帝説』の「又本云 廿二年甲戌秋八月 大臣病臥之 卅五年夏六月辛丑薨之」の641年の馬子の薨は稲目と考えられ、馬子は『先代旧事本紀』などを646年に記述しているので、『上宮聖徳法王帝説』は『日本書紀』の記述に合わせて卅五年としているが、647年死亡の 池邊大宮治天下天皇ではないかとも考えられる。
このように、『先代旧事本紀』の物部氏の記述法が世代数で記述されているのだから、天皇も世代で書かれていて当然で、その世代は物部麁鹿火が物部大市御狩や物部守屋と4世代経過で1世紀近く違う人物を同じ世代として書かれるなど系図としては成り立たず、親子関係ではなく宮の世代と考えるべきで、1世代には複数の親子関係が内包されている。
この手法で天皇も書かれているので、志歸嶋宮世代が一括りに並行して614年から654年までを志歸嶋41年間に他田・池邊・倉橋・小治田の宮を記述する『上宮聖徳法王帝説』も同じ手法の1世代を記述した文書となっている、同じ人々が書いた文献だと言え、『日本書紀』とは異なる手法の文献だ。
さらに、『先代旧事本紀』の日干支と年干支が正しい神武・安寧・崇神・垂仁・成務・仲哀・神功・仁德・履中・清寧・顯宗・仁賢・繼體・敏達・用明の天皇がある。
これが意味するところは、この天皇紀の記述が『日本書紀』と同時期、なぜなら神武天皇などと言う称号を天皇名として書き、『日本書紀』に合わせた年号を使っていることからわかる。
特に神功皇后までは『日本書紀』が『先代旧事本紀』の資料を使っていることが推定され、『先代旧事本紀』の宮の統治年数の可能性がある。
天氏の宮の推移が立太子で天皇の統治年数は神国の宮の統治年数の可能性があるということで、よりリアルな分析に近いように感じる。
懿德元年辛亥春正月己酉朔壬子、反正元年歳次丙子夏四月丁丑朔戊寅という干支は無く日干支は1月違いで閏月の指定違いも考えられるが、少なくとも、『日本書紀』とは日干支が同じなので『先代旧事本紀』が『日本書紀』を参考に日干支を変えたことは間違いないが、年干支の理由が解らず、究明を続けたい。
すなわち、『日本書紀』と『先代旧事本紀』は『先代旧事本紀』から干支を流用して年干支を削除し、『先代旧事本紀』は『日本書紀』から天皇名や一部の内容を流用して書き直したことが解る。

2018年4月9日月曜日

終兵器のミサ 日本書紀・先代旧事本紀と干支3

 ここで、気になるのが『先代旧事本紀』の「廾年春二月朔庚午政葬皇大夫人堅鹽媛於」と同じく『日本書紀』の「二月辛亥朔庚午 改葬皇太夫人堅鹽媛於桧隈大陵」で「政」と「改」は写し間違いと考えられるが、この干支は612年と638年共に考えられるが、わざわざ「辛亥」を省略したことと、そもそも「堅鹽媛」を即位してから20年も経ってから改葬しなければならないかとの疑問である。
そして、『上宮聖徳法王帝説』に欽明天皇は三二年までなのに「志歸嶋天皇治天下卌一年」と記述されていること、「五年春三月已卯朔戊子有司請立皇后詔立豐御食炊屋姬尊立為皇后」は577年ではなく602年に当たり、どちらも今一つ整合性がないが、638年3月1日の1日前が已卯になり、1日の誤差は書紀には多数有る。
皇大夫人は皇后と同じで家系が悪いための称号で、皇大夫人が薨去したため、食炊屋姫が皇后になりそれが638年だったと考えられる。
『先代旧事本紀』の推古紀で敏達5年に18歳で皇后になり、敏達14年27歳で34年の年号を持つ王が存在し、39年に天皇に即位している。
この時期に長年即位した天皇は欽明天皇だが、まさに、『上宮聖徳法王帝説』で41年まで在位が記述されていて、すなわち、並行して更に41年まで続いている。
すなわち、638年が敏達5年なのだから、敏達14年は647年、崇峻5年は652年でこれが欽明39年なのだからさらに41年、
すなわち、634年が敏達天皇元年654年になる。
物部氏の大王の宮は志歸嶋宮が614年から654年、他田宮が634年から647年、倉橋宮が648年から651年、小治田宮が619年から654年となり、志歸嶋宮は尾輿・15世目と継承しその子の馬古は「難波朝御世授大華」と良く合致していて、志歸嶋宮が『日本書紀』通りならどちらかは化け物になってしまうし、『日本書紀』の欽明・推古の親子は2代で110年近くで化け物である。
従って、秦王国物部王朝としては安閑天皇が麁鹿火・押甲親子、宣化天皇の守屋が628年までの天皇で目と「兩大臣曰随命於是穴穗部皇子陰謀王天下之事」と共存していたようだ。
更に、『 船王後墓誌』から「阿須迦天皇之末歳次辛丑」や『上宮聖徳法王帝説』より641年まで稲目、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の「池邊大宮治天下天皇 大御身勞賜時 歳次丙午年」と『上宮聖徳法王帝説』の「池邊天皇治天下三年 丁未年四月崩」より645年から647年まで馬子、647年に『藤氏家伝』の「十四年 皇太子攝政」、『先代旧事本紀』の「六曰田眼皇女嫁息長足行廣額天皇」から息長足行廣額天皇が少なくとも翌年おそらく664年まで在位して、田眼皇女が鎌媛大刀自、息長足行廣額天皇は蝦夷の可能性がある。
『舊唐書』の630年に「貞觀五年 遣使獻方物 太宗矜其道遠 勅所司無令貢 又遣新州刺史表仁 持節往撫之 表仁無綏遠之才 與王子争禮 不宣朝命而還」と倭国の条に難波訪日が記述されているので630年以降は秦王国から確実に政権が変わっていて稲目が天皇と言える。

2018年4月6日金曜日

終兵器のミサ 日本書紀・先代旧事本紀と干支2

 そして、『先代旧事本紀』も『日本書紀』に記述されている干支は正誤かまわず日本書紀に合わせているが、『日本書紀』に記述されていない内容は『日本書紀』の内容と矛盾した干支が割り振られている。
これは、『先代旧事本紀』の矛盾した干支が実際の資料に残された干支の可能性が高く、そのためか、特に推古天皇の時代に矛盾が集中している。
その矛盾は規則正しく矛盾していて、推古元年は「元年春正月壬寅朔丙辰」と西暦593年2月9日、旧暦593年1月1日だが、619年が元年の推古天皇が存在する。
『先代旧事本紀』の「卅九年・・・冬十二月壬申朔巳卯皇后即天皇位於豐浦宮」の「十二月壬申朔」は618年で『日本書紀』どおりだが、「廿八年歳次庚辰春三月甲子朔戊戌攝政上宮厩戸豊聰耳聖徳太子尊」の「三月甲子朔」は646年、「廾二年夏六月丁卯朔己卯詔大仁矢田部御嬬連公改姓命造則遣大唐」の「六月丁卯朔」は640年、「廾八年春二月甲午朔甲辰上宮厩戸豐聡耳皇太子命大臣蘇我馬子宿祢奉」の「二月甲午朔」は646年、「春三月甲子朔制日奉爲君后謂不忠者」の「三月甲子朔」も646年で、すべて元年は619年だ。
私は、推古天皇は何人もいて、その一人が619年に即位した推古天皇で、この天皇は遣唐使を640年に派遣している。
この天皇15年の「十五年秋七月戊申朔庚戌大禮小野臣妹子遣於大唐」は『日本書紀』と同じ内容だが、607年では小野妹子の年齢は、子や孫と年齢が合わないが、633年ならよく合い、高向玄理の随行年齢にも合う。
631年の『旧唐書』の「貞觀五年、遣使獻方物 表仁無綏遠之才」のあとお詫びの訪唐を行って、成功させた結果の640年の唐派遣はよく合う。
これらのことから、『先代旧事本紀』の作成は「廿八年歳次庚辰春三月甲子朔戊戌攝政上宮厩戸豊聰耳聖徳太子尊宮厩戸豊聰耳聖徳太子尊命大臣蘇我馬子宿禰等奉 勅定宜録先代舊事」と646年に作成されたことになる。
646年は『日本書紀』では大化2年で馬子が生きているはずがないが、それを承知で『先代旧事本紀』の内容が修正されていないということは、『先代旧事本紀』が真実であると考えるべきだろう。
わざわざ、『日本書紀』と合わないように間違えることなど有るとは考えられず、実際、『先代旧事本紀』では、舒明天皇や皇極天皇・斉明天皇が出現せず、推古天皇からとんで難波朝・淡海朝・淨御原朝で終わって、宮ではなく朝廷と記述法が変わっている。
すなわち、舒明天皇の妃は記述されているが、舒明天皇本人が記述されていないことから、『先代旧事本紀』は646年に物部氏の姫(おそらく布都姫)が「御食炊屋姫」と呼ばれて天皇として在位した時に馬子が作成し、『日本書紀』作成後に修正した文献と考えられる。
なお『日本書紀・先代旧事本紀と干支1』で計算で大の月4連続が無いと書いてしまったが、日付なのだから切り上げになるのではと思い返し、確認したところ大の月の4連続が存在したが、計算と異なるズレた朔が有るということは『日本書紀』が計算で算出したことは証明できない。

2018年4月4日水曜日

終兵器のミサ 日本書紀・先代旧事本紀と干支1

 日本書紀の日干支は計算と1部1月ずれたり、1日ずれたりするがいつのまにか正しい干支に戻っているが、私は日本書紀完成後後ろから干支を当てはめたと論じている。
日干支は現代まで延々と60日周期で続いており、「朔」は計算で新月の日付が確認でき、節気も計算で確認できるため、現代の旧暦を過去に遡って調べることができる。
私は、紀元前701年から西暦2015年まで10万日分程度のカレンダーを作り、日干支を当てはめていき、月齢計算で朔を決めて大小の月の日にちを当てはめ、太陽運航から節気を算出して12節気が無い月を閏月とした1覧を作成し標準旧暦を作成した。
西暦を基準にしているので、計算で派生する誤差は吸収されるので古代人が短いスパンで作る暦との誤差はほとんど無いと考えられる。
私の計算のため狂いが有るかもしれないが、概ね『日本書紀』と違いが無く、1月のズレや1日のズレは1ヶ月が29日の月と30日の月の違い、すなわち大小の月や閏月の違いと思われ、江戸時代も地域によって閏月が異なっていたそうだ。
ところが、所々で全く合わない干支が現れるが、また、正常に戻るため、狂った干支は実際の資料に残った干支がそのまま残ったとしか考えられず、計算で求めた干支ならズレて戻れない。
また、古代人も計算で求めたのなら、定数の若干のズレが有っても一定のズレなので私の計算とずれても一定なのでこれも計算とは考えられない。
『日本書紀』作成時に日干支を計算すると確実に4年で1日西暦で言う「うるう年の2月29日」が足りないはず、うるう年が解っていても100年に1日うるう年が無いから1日多くなってしまい、それも計算していたら400年に1日足りなくなってしまうので、1年を一定にしていたら年干支と日干支が合うとも思えず、在位年数から必ずズレる。
旧暦ではこのような話を聞いたことが無いので、日本では720年頃にグレゴリー暦を発明していたことになるが、こんなことを言ったら精神状態が疑わられるので、『日本書紀』の日干支は少なくとも所々、しかも紀元前600年頃の日干支が残っていたとしか考えられないのである。
朔は太陽と月と地球の位置関係で変化するため、旧暦では大の月と小の月が交互に現れず、大の月が4月続くこともあり不吉と言って修正することもあったのだから、計算で朔を算出していたら朔日が朔とかけはなれてしまい、政権の信頼を失う。
それを表す代表例が『続日本紀』の文武元年「元年八月甲子朔 受禪即位」で『日本書紀』では「八月乙丑朔 天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」で『続日本紀』が正しいが『日本書紀』の同じ出来事を計算できていないから1日ずれていて、暦が変わったのであれば禅譲した日干支は変わらないので、『続日本紀』は「元年八月甲子朔乙丑」と書かなければならないが、この時代の朔は甲子と『続日本紀』の作者は計算できたが『日本書紀』は計算できず資料を使ったからズレたのである。
そして、神武天皇の建国前、1月ずれているのは、記録された言い伝えが有ったため修正しなかった、既に暦と干支を知っている政権があったと考えられる。

2018年4月2日月曜日

終兵器のミサ 邪馬台国論争のレクイエム5

 『日本書紀』には神功皇后摂政三九年の項に「魏志云 明帝景初三年六月 倭女王遣大夫難斗米等 詣郡求詣天子朝獻」、神功皇后摂政四十年の項に「魏志云 正始四年倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻」と記述されている。
西暦240年で全く矛盾が無いにも拘らず、日本書紀は間違いだから、後代の官僚が勝手に作ったものだから信用できないとして無視をする。
『三国志』も同様に伊都国が解っており、不彌国も奴国の位置も凡そ推定でき、福岡平野とされそうにも拘らず、結果を決めているから東は南の間違いだの、日と月が違うだのと内容を書き換えて自説の場所に誘致している。
ところが、鏡を貰ったことは正しいと言って「三角縁神獣鏡」を貰った、いや「漢式鏡」だと鏡を貰ったことも間違いかも知れないのに都合の良いところは間違わないのである。
古文書を間違いだと言い出した時、その古文書の内容を証明に使うことはアンフェア・論理になっていないはずなのに、「東」が間違い「日」が間違いという絶対的な証拠など有り得ないのに、自説に合わないから書き換えている。
『日本書紀』も自説に合わないから虚偽とするだけで、実際に記述されているのだから、精緻な論証で否定すべきなのに『日本書紀』の完成が8世紀であることをいいことにして切り捨てて、都合の良いところだけ資料が残っていたと使う。
後代作ったものなら都を香椎宮にしなくても里単位が長里と合う場所に宮を置いておけばよいのに、そうなっていないのは『日本書紀』の筆者は『三国志』を読んで香椎宮に都が有れば合致すると考えたから、もしくは記録が残っていたから『三国志』の記事を当てはめたのではと考えないのだろうか。
『古事記』には『三国志』に出てくる国名も官位も一部彦・主・耳などを除いて全く出てこない、武器が剣と矛で全く異なり、もちろん『古事記』に矛が出てくるが是は祭祀の道具として扱われていて、邪馬台国は祭器のお飾りで女王を警護しているのかと私は揶揄した。
『三国志 魏志倭人伝』に「奴國百里・・・有二萬餘戸」、「不彌國百里・・・有千餘家」、「邪馬壹國・・・可七萬餘戸」と記述され、千餘家の不彌国の南に二萬餘戸の奴国と七萬餘戸の邪馬台国がある場所は糸島半島から能古島・志賀島・海の中道しかない」と述べた。
また、『日本書紀』の成務天皇の記事に「則隔山河而分國縣 隨阡陌以定邑里 因以東西爲日縱 南北爲日横」と境を使ったり、山や川で区切り、里単位も『三国志』と同じ「阡陌里」と記述されているので、奴国と邪馬台国の境は室見川か御笠川だと述べた。
『日本書紀』の神功皇后のいた香椎宮は全く矛盾しないということは、『日本書紀』の神功皇后の記述は卑弥呼と台与のことを書いているということだ。
 私は『日本書紀』が本来 紀伝体で書かれていて、「1人の天皇に複数の王の内容が書かれている」と主張しているが、神功皇后の記述も複数の王の内容が書かれていると考えるべきだ。
「三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡」と結論付けているが、この理論によって、本来、それ以前の遺物の可能性が有っても無視され、魏で景初4年鏡とない年号を作ってしまう。
考古学的遺物の年代が確定すればするほど、邪馬台国論争の200年近い論争の無意味さを実感する日はもう近いのだが、その日に日本人のどれだけの人々が感動して受け入れるのだろうか。
すくなくとも、国民の大多数が感動することを望みたいが、この邪馬台国論争という結果先にありきの神学論争にあきれ果てて興味を失っていなければよいのだが。
私の論が邪馬台国論争の葬送曲になるか、日本古代史の葬送曲になるのか、出来得れば邪馬台国論争の葬送曲であってほしいものである。

倭人伝
始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離
名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、 副曰卑奴母離
又渡一海千餘里、至末廬國
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。
東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離
南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。
古事記
次生伊伎嶋、亦名謂天比登都柱。
次生津嶋、亦名謂天之狹手依比賣。
并八神。故、所斬之刀名、謂天之尾羽張。亦名謂伊都之尾羽張。
故、其日子遅神和備弖、三字以音。
故、此大国神、娶坐胸形奥津宮神、多紀理毘売命、生子、阿遅二字以音。
天照大御神之命以、豊葦原之千秋長五百秋之水穂国者、我御子、正勝吾勝速日天忍穂・・・
魏志倭人伝
居處宮室 樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衞
兵用矛・楯・木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與儋耳・朱崖同。
古事記』 14(祭祀)
天沼、其沼、八千神、此八千神、握横刀之手上由気、宇陀墨坂神祭赤色楯
大坂神祭黒色楯、縵八縵・、縵四縵・2回)、羅木之八尋
『古事記』 13
御佩之十拳(3)、御佩之十掬(2)、神度、其前、以納于、自懐出自其胸刺通、
自尻刺通、賜草那芸置其美夜受比売之許而
『古事記』 釼
抜其所御佩之十拳、亦取成刃。八尺勾たま鏡及草那芸、其弟破御佩之十拳
御陵在池之中崗上也
『古事記』 
人名 16
訓或云麻比、布玉命(6) 二字以音、於底津石根宮柱布斯理、如先期美阿多波志都、
古夜能伊毛能美許等、久米能摩伊比売、名荒河弁之女、弁二字以音、苅羽田弁、
弟苅羽田弁、
使用若しくは指示の前置詞有り 39
著其御前之血、著御本血亦、集御之手上血、因御所生之神者也、御之刃毀、思恠以御之前、
取此大、汝所持之生大・生弓矢以而、持其大・弓、取佩頭椎之大、以槽小析其口、
解所佩之槽小、齎一横、受取其横之時、問獲其横之所由、専有平其国之横、可降是
者坐石上神宮也、降此状者、信有横、以是横而献耳、即握横之手上、毎人佩
一時打殺也、令作横壱仟口、即作八塩折之槽小、以此小刺殺天皇之寝、
其后以槽小為刺其天皇之御頚、作八塩折之槽小授妾、莫動其、作詐、取佩出雲建之解置横而、
詔為易、佩倭建命之詐、云伊奢合、各抜其之時、出雲建不得抜詐、抜其而打殺出雲建、
所忘其地御
刀名 7
所斬之名謂天之尾羽張、在都牟刈之大、是者草那芸之大也、其持所切大名謂大量、
名云佐士布都神、先以其御苅撥草、以其御之草那芸剣、
祭祀 3
御幣登取持而、布詔戸言祷白而、取持其大神之生大与生弓矢及其天沼琴而、