2018年5月30日水曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 伝承と遺物2

 『先代旧事本紀』でも同じように「饒速日」は「御炊屋姫」を娶って「宇摩志摩治」が後を継いでいるように、侵略地の姫を娶ってその子に王位を譲ることによってうまく王位を継承できる伝統があるようで、別王朝が王朝を継承する時いつも有名な姫が現れ、「閨閥」が重要な制度だ。
従って、「支石墓」の国は「八国」で稲作をはじめ、「甕棺」の「事代主」の国が征服し、伊都国の山のふもとに「彦火瓊瓊杵」が領地を分けてもらい住み着いたと考えられる。
「伊都国」は最後まで「甕棺」墓の中心で「三角縁神獣鏡」が出土して「一大率」があり、官名も「爾支」と「主」に似ており、国譲りは移住を受け入れてもらっただけで、「壱岐」と交換だった可能性すらある。
鏡の出土も伊都国や奴国の甕棺の中に有り、鏡の祭祀文化も事代主の祭祀の可能性が高く、多紐文鏡も事代主の国の祭祀で、倭国は自国で作成できず、すなわち、鏡を祭祀に使用していなくて、国境決定の測量に鏡が必要なため鏡を多数中国に要求した可能性もあり、伊都国には硯も出土し、文字を彫られた土器も出土するなど、文化的優位が解る。
 そして、大国主から国譲りされたのは「饒速日」たちで、『日本書紀』の「拔十握劔倒植於地踞其鋒端而問大己貴神」に対して『古事記』は「抜十掬剣、逆刺立于浪穂、趺坐其剣前、問其大国主神」とする。
剣を倒してその端にしゃがんで対話をしているように見える『日本書紀』に対して、切っ先を突き付けて毅然と胡坐をかく『古事記』を見れば、『古事記』を書いた人々の無理やりの国譲りの態度が鮮明で、しかも、対象者も大己貴と大国主で異なる。
さらに、『古事記』は「葦原中国者、我御子之所知国」と支配する国と言っているのに対して、『日本書紀』は「欲降皇孫君臨此地」とある土地に天降りしたいと言っているだけで国を支配しようとまで言っていない。
これに対して、『先代旧事本紀』を書いた人々は『日本書紀』と同じ態度で、「揆十握劔倒刺立於地踞其鋒端而問大巳貴神」だが、「駈除平定汝意如」と平らげようとしているので中間で、すなわち、『日本書紀』は大巳貴の領域に住まわせてもらい、『古事記』は大国主の領域を奪い、『先代旧事本紀』は大巳貴の領域の一部を奪った話なのだ。
そもそも、福岡平野近辺は矛の地で「十握劔」自体が借り物の説話で、銅鐸を祭祀とする畿内政権の地の国譲りの説話を借りたものなのだ。
私はこの違いから、『日本書紀』の国譲り伝承は伊都国への天氏の移住、『古事記』は大物主の中国地方の支配、『先代旧事本紀』は饒速日の畿内への侵略の伝承と考えた。
従って、神武東征は『日本書紀』が伊都から事代主の地の猪野へ侵略した建国、『古事記』は安芸から事代主の地の筑紫の京都へ侵略した建国と安芸から三輪の地、大和への大物主の侵略、『先代旧事本紀』は大国の領域の畿内への侵略と建国の説話である。
私は、『日本書紀』を紀伝体で記述された史書で漢代初めから天氏が中国と交流し元号と対応を持つ天氏の宮の変遷を基準尺にして、多くの王を一まとめにしたと論じ、その一環としての神武天皇の説話であるとした。
畿内には神国(八国)、中国名で辰国や東鯷国と呼ばれた所謂縄文人の国があったが、 饒速日が移住して神国の姻戚となることができ、そのころ、天氏は伊都へ移住し、大物主は中国地方を領有した。
漢代になると、郡設置のように朝鮮半島への侵略と呼応して、大物主を主神とする人々が大和へ侵略し銅鐸を破壊し、祭祀道具の銅鏡や銅鏃・銅剣などの武器を作り、その中に『古事記』の神武天皇である磐余彦がいて、神国の配下に入り、『日本書紀』の神武天皇は猪野に建国した。
紀元前1世紀頃になると、出雲から畿内に『先代旧事本紀』の神武天皇が楠葉侵攻で神国を破って大倭国を建国し、1世紀にはもう一人の神武天皇が周防から筑紫の京都郡に侵略して建国した。
「若御毛沼命 亦名豊御毛沼命 亦名神倭伊波礼毘古命」と、『古事記』は若御毛沼の事績を豊御毛沼として流用したと白状している。

2018年5月28日月曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 伝承と遺物1

  前章をまとめると、日本は畿内に銅鐸や銅剣、鏡、前方後円墳の宗教儀礼の政権変動があったが、土器などの出土の変遷と神話を考えると、南九州の轟B式土器の使用者が甕棺のある糟屋地域に流入して福岡平野を支配し続け、『古事記』や『先代旧事本紀』を作った畿内政権から7世紀に政権奪取したのが『日本書紀』を完成した政権だということがわかる。
この章では出土物と伝承から古代史を俯瞰してみようと思う。

史書の順が『古事記』→『先代旧事本紀』→『日本書紀』と書いたが、国産みの伝承を精査すると、『古事記』・『先代旧事本紀』では「筑紫国 豊国 肥国 熊曽国」と九州が4国、「伊予国 讃岐国 粟国 土左国」と四国が4国すでにある。
史書の先祖がある土地を開拓した時に既に開拓地に国が有るはずが無く、『日本書紀』では「伊豫二名洲」と「筑紫洲」で4国に別れていないので、伝承としては『日本書紀』から始まる。
そして、最初に産んだ国も『日本書紀』は「磤馭慮嶋→淡路洲爲胞→豐秋津洲」で、『古事記』は「淤能碁呂島→淡島→淡道之穂之狭別島」、『先代旧事本紀』は「磤馭盧嶋→淡路州吾恥也 或本州皆爲洲」と記述される。
すなわち、『日本書紀』・『古事記』・『先代旧事本紀』それぞれ書いた人々は共に「 磤馭慮嶋」を建国の島とし、『日本書紀』を書いた人々は「磤馭盧嶋」出身で、『先代旧事本紀』を書いた「淡路島」出身の人々から政権を奪ったと考えられる。
さらに、建国説話で有名なのが『出雲風土記』で「意宇郡」の「國引坐八束水臣津野命詔」なのだが、「意宇郡」は海に面していないのに、対岸の国から綱で国を引っ張ってきている。
見えもしないので、綱が引っかかったか解らないし、接岸したかもわからない、いくら神話で荒唐無稽だと言ってもリアリティーが微塵もない。
これは、大国がまだ国でなかった意宇洲(意宇岐)の頃に船に乗って接岸した島に杭を打って綱で止めた話と考えた方がリアリティーがあり、国引きした国に船で出かけ、その土地に船を固定して接岸して国を奪った話だ。
すなわち、大国の発祥の地は「隠岐の島」、「八束水臣津野命」が建国したのは大国主以前の話で、「八上比売」・「八尺鏡」・「八尺勾璁 」・「八尋殿」・「大八島」など「八」は数えきれないほど出現し、「吾屋橿城」は最初に負けた神といえる。
『出雲風土記』の「意宇郡」の「國引坐八束水臣津野命詔」の「北門佐伎之國矣」・「北門良波乃國矣」は『山海經』の『大荒東經』・『大荒北經』・『海外東經』に大人国が、『海內北經』・『海內東經』に大人之市が記述されて関連がありそうで、その中心が『大荒東經』で「有大人之國。有大人之市,名曰大人之堂」と大人之堂が古代の高層出雲大社や三代丸山遺跡の物見やぐらを思い出す。
神々もそれぞれの史書で異なることも、それぞれの史書を書いた人々の配下の違いに過ぎず、「伊弉諾・伊弉冉」が産んでいない国神の有力氏族をいかに取り込むかが王朝を存続させる一番重要なことだったと思われる。
素戔嗚が出雲に天降った時既に「出雲国」・「越国」・「根国」などがあったように、また、大国主が「越」や「宗像」に嫁取りと称して国を取りに行ったように、神話の登場人物は既にある国を奪いに天降っているのであって、大国主が多くの亦の名を持つのも大国主がそれらの神々を支配したと考えるべきだ。
支配された大物主や三輪神などを祀る人々は大国主に敗れたが、大国主を祀ることは大物主や三輪神を祀ることと同じだと宣言しているのだ。
国譲りは実際は事代主や大物主から譲られたのであって、元々はこれらの神がそれぞれの土地を支配していたので、その娘たちをそれぞれの神武天皇に一括りされた建国王は嫁にした。

2018年5月25日金曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 遺跡3

  そして、素戔嗚の時代に既に青銅製の武器があり米作をして、主という官位があり、「衣冠帶劍」したのだから権力構造が有って青銅製の武器を甕棺の中に副葬しているので、藤尾氏が述べるⅢ期と呼ばれる時期にあたる(※藤尾慎一郎 国立歴史民俗博物館 九州の甕棺)。
母が甕棺埋葬しない豊国の姫で、よそ者の火火出見の家系は甕棺と無関係な墓制を持っていたと思われ、天氏が勢力を拡大するにつれて甕棺墓が縮小し、勢力が拡大したのに墓制が縮小する権力構造を私は思い浮かばない。
そして、分布図を見るとⅣ期には糟屋郡あたりが新しい政権の誕生地と考えられ、金印も出土して古田氏が言う卑弥呼の墓の須玖岡本などが副葬品として頂点に立ってはいるが、甕棺墓の主流が伊都に遷って、これでは九州王権が伊都国に遷ったとしなければならず『三国志』と符合しなくなる。
そして、天皇の璽に剣と鏡が含まれるが共に出土中心は出雲や畿内で、『三国志』は「兵用矛楯木弓」と矛を用い、『日本書紀』には出土する鏡ほど力点を置いて書かれていないことから、卑弥呼が祭祀に使うために鏡を得たのか疑問で、鏡に執着する説話は「出雲臣之遠祖出雲振根主于神寶・・・出雲人祭 眞種之甘美鏡」・「近江國鏡谷陶人」の説話のように出雲・畿内である。
 畿内では弥生前期から方形周溝墓が墓制で古墳へと変化するが、その間に銅鐸が消え鏡の副葬が始まり、また鏡の副葬の消失、そして、日本中のみならず朝鮮にも前方後円墳が造られた。
『古事記』で神代に鏡が記述されるが、神武天皇以降は朝鮮からの献納のみで、興味を示していないことから、『古事記』を記述した王家が鏡を副葬したとは考えられず、『古事記』作成者にとって三角縁神獣鏡は神話の世界となってしまう。
それに対して、『先代旧事本紀』の作成氏族は古代から「群臣奏上鏡劔於武小廣國押盾尊」と宣化天皇の時代まで鏡に固執し、それも当然で、「饒速日命兒宇摩志麻治が神武天皇に璽の鏡を献納した三種の神器の1つだ。
また、甕棺に対して、遠賀川式土器が全国に流布し銅剣や銅鐸の領域を内包し、大きな文化圏が存在していたようで、それが、「八国」であり、弥生時代の始まりの頃に「辛酉年春正月庚辰朔。天皇即帝位於橿原宮」と畿内に建国され、根・出雲・天・空・日向・筑紫・菟狹・安藝・吉備・浪速・河内・紀伊・吉野・倭・葛城などは『日本書紀』の王の建国前に存在した国々である。
そして、弥生末には比恵・那珂・西新町・藤崎などには周溝墓や箱式石棺が現れ、魏志倭人伝と関係するところでは、壱岐の原の辻には伊都国系の弥生土器が多量に出土して一大率が伊都国に置かれたことと合致する。
これらの宗教儀礼の変化は宗教儀礼を先導する王の影響なしには語れず、朝鮮半島の前方後円墳と応神天皇の文字導入及び須恵器の流通が無関係とは考えられない。
また、畿内の須恵器は牛頸窯を圧倒する陶邑窯跡群があり、平城宮下層遺構の溝 SD6030上層からTK73 型式の須恵器にともなって出土した木器の年輪年代が412年であったため、5世紀前半には須恵器生産が始まったようで畿内と朝鮮の関係が裏付けられる。
古墳期の九州王権は、博多湾岸の遺跡規模や朝鮮系土器の出土数が減少して、さらに、伽耶国の副葬品銅器は福岡平野系の銅器類から畿内系の銅器類に変わり伽耶国での九州王権の力が弱まったようだ。
さらに、瀬戸内系土器や畿内のⅤ系土器・庄内式土器の流入、三角縁神獣鏡の副葬、前方後円墳と畿内の影響をかなり受けている(久住猛雄氏)ことから畿内>九州が解る。
しかし、割竹型木棺の那珂八幡古墳の被葬者が以降の葬送儀礼の規範を作り出し、5世紀には須恵器の窯が現れ福岡平野で使用され、筑紫国造磐井が豊や火の国を侵略してその後の葛子の子たちが筑紫・火の国を支配した結果、大宰府の牛頸窯の須恵器が筑後や肥後に横穴式石室とともに広まった。
そして、7世紀初頭まで筑前・筑後・肥後近辺のみで牛頸産の須恵器が流通した。

2018年5月23日水曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 遺跡2

 そして、磤馭慮嶋の意味は「大のコロ島」と思われ、大八島の「生隠伎之三子島」の別名を天之忍許呂別と「天之忍許呂」島から別れた島と呼び、隠岐は4島あるので、三子島でない「隠伎之」親島が「忍許呂」島とこの語幹も「コロ」島で磤馭慮嶋は隠岐の島後のことと思われる。
隠岐の島後には宮尾遺跡があり、爪形文・条痕文という1万3千年~1万千年前の南九州と同系の縄文土器が出土する。
さらに、伊弉冉は『古事記』に「僕者欲罷妣国根之堅州国」・『出雲風土記』に「嶋根郷」と今の松江出身のようだが、宮尾遺跡と同系の土器が板屋Ⅲ遺跡(飯南町志津見)や佐太講貝塚(松江市鹿島町)で発掘された。
そして、大八島と目される島々には縄文時代後期の隠岐の島町の湊遺跡、壱岐の名切遺跡(前期~晩期)・松崎遺跡(早期~後期)・鎌崎遺跡(前期~後期)、紀元前4千年頃の佐賀貝塚(峰町)から縄文人骨・阿高式土器(北部九州系)、紀元前3200年頃の志多留貝塚(上県町)から鐘崎式土器、佐賀県伊万里産の黒曜石や貝製腕輪、福江堂崎遺跡(ふくえどうざきいせき)の縄文土器(前期~後期)、小豆島の「ほら貝岩洞穴遺跡」の住居跡・大洞窟貝塚遺跡(豊島)、坂出の沙弥ナカンダ浜遺跡、宮島(厳島)の高島遺跡、児島の大明神遺跡と大坪遺跡(中期末ごろ)、中期後半の矢田ヶ瀬式から、後期初頭の三宮貝塚式へと移行する過程の藤塚貝塚遺跡の縄文土器は鳥取あたりに類例があり、大八島は縄文時代の国であることがわかる。
大八島の縄文土器のほとんどが縄文前期以降の土器でアカホヤで逃げ出した人々の船着き場的な活動領域なのかもしれない。
磤馭慮嶋をつくったとき使用した瓊矛も銅矛ではなく瓊すなわち玉のように磨かれた石矛おそらく柄の短い槍で国産みしたのではないだろうか。
とくに、天之忍許呂別(隠伎之三子島)、天之狭手依比売(津島)、天比登都柱(伊岐島)、天之忍男(知訶島)、天一根(大島)、天両屋(両児島)は「天照大日孁尊 此子光華明彩 照徹於六合之内」と、六合と呼び、『山海經』の「海外南經」に「地之所載,六合之閒,四海之內,照之以日月」とあるように玄界灘を中心にした黄海から日本海にある島々と符合し、「轟B式土器」も出土する(イ サンキュン 縄文前期 前半期 に お け る轟 B 式 土 器群 の 様相より)。
そして、スサノオは米などの食料を大八島を拠点にその対岸の人々と交換し、スサノオが出雲に天降ったとき、その地にはすでに主や耳を官位とする国があり、『山海經 海經 海外東經』に「君子國在其北,衣冠帶劍」・『大荒東經』に「有君子之國,其人衣冠帶劍」と冠をつけ帯刀した人々が東部日本海側から太平洋側にまたがっていた。
伊勢堂岱縄文遺跡から出土した中で、唯一完全な形で復元された伊勢堂岱縄文館の板状土偶には刀のようなものが真ん中左寄りに刻まれている。
ストーンサークルや石組といった石を組み合わせた祭祀を行い、石柱を使った日時計様の出土もあり、縄文遺跡の下船渡貝塚(岩手県大船渡市)には甕棺が出土し、縄文時代前期の蟹沢遺跡(八戸市)には胎児や乳児を甕棺に埋納し、支石墓や甕棺墓の前段階を思わせる。
石川県の縄文遺跡の「中屋サワ遺跡」では石刀や石冠が出土し東北地方の土器型の模様も見られ、愛知県の「マサノ沢遺跡」でも縄文時代の石刀を出土して日本海から太平洋に跨る君子国を証明し、石川県は越の国だ。
「八」岐の大蛇を退治した時素戔嗚が持っていた剣は大蛇が持っていた剣で簡単に折られてしまい、おそらく素戔嗚の十拳釼は石剣で草那芸之大刀は銅剣だったのだろう。
 『日本書紀』の「長田爲御田 時素戔鳴尊 春則重播種子」と米作が始まり銅剣が「ヤ」国に流入し始めた頃の説話であることがよくわかり、天孫降臨は稲作を行い青銅器を手に入れた弥生時代に起り、すなわち、すでにそこには甕棺による埋葬が行われていた。

2018年5月21日月曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 遺跡1

 前章の神話によって、従来言われていたような征服王朝などなく、五島列島から玄界灘の島々に住む倭人と九州や本州に住んでいた東鯷人・辰人などが日本列島に住んでいたが、これらのどれかが、3種類の神話が現存しているのだから、少なくとも3つの種族が姻戚と武力によって覇権を争い天氏の天命開別の国が勝利をおさめたことを意味している。
そして、辰人はかなり以前から渤海近辺まで影響力があったことが示されていて、この章では遺跡からその証拠を示していく。

 「世界最古となる約2万年前の土器片を、中国・江西省の洞窟遺跡で発見した」と、北京大と米国の研究チームが科学誌サイエンスに発表した。
もちろん、これ以前にどこかで土器を作っていたかもしれないが、現在のところ、この土器が一番古く、また、江西省以北にこれより古い土器は発見されないだろう。
なぜなら、時代は氷河時代で定住のための土器を作るのに江西省以北は適しないからで、重くかさばる土器を持っての移動は考えられず、少なくとも、拠点のような場所で半定住して煮炊きに使う等しないと意味が無く、また、それより南も、食料が豊富で木の実・穀物の備蓄が必要と思えず、定住や土器の使用はなさそうに思える。
もし、土器が無くても穀物や木の実の煮炊きができるのなら、もしくは、煮炊きが不要な食物が豊富なら、世界に先駆けて土器を作成する必要がないし、氷河の中で定住できるのなら、氷河期にアメリカ大陸へ移住できたはずだが、人類がアメリカ大陸に渡ったのは氷河期終了後だ。
日本列島でも1万6千年前の青森県の大平山元の土器よりも古い土器の発見は氷河時代を考えるとむつかしく、江西省にいた人々が大平山元遺跡にやってきたと考えるのが理にかなっていて、大平山元遺跡には世界最古の石鏃も見つかり、少なくとも、定期的に半定住する猟場だったのだろう。
そして、氷河期が終わり、木の実や穀物など一時に食べきれない食料を見つけて、余剰食糧で1年間過ごすことができることを知り、貯蔵や煮炊きに土器を使うことを考えて壷型土器を作り、洞窟から出て竪穴住居で定住した。
日本海東岸のことを書いた『山海經 海經 海外東經』には「黑齒國在其北,為人黑,食稻啖蛇」と中国国内以外では黑齒國のみに「食稲」が記述され、「青丘國在其北,其人食五穀」と米や麦を含むか解らないが五穀(米,麦,粟,きび,豆)を主食にし、「勞民國在其北 其為人黑 食果草實」・「有國曰玄股,黍食」と果実や黍を主食にしたとしている。
中国国内は百穀・栗・橘・卵・獣・人を食し、稻は西部や南部だけ記述していて、『海內經』に「西南黑水之閒有都廣之野后稷葬焉・・・爰有膏菽、膏稻、膏黍、膏稷,百榖自生,冬夏播琴」と河姆渡周辺の遺跡によく対応している。
 そして、支配者「橿城」が子たちに建国説話を話すのだが、磤馭慮嶋は、祀っているクジラが大きな子を産むように産んだ、その背景には火山島が出来上がる姿や鍾乳石ができる様子から想像して作り上げたのだろう。
「つぐめのはな遺跡」では7千年前の土器の曽畑式土器を使用した人々が大きな獲物を突く用途の石銛や鯨を解体するのに用いられたスクレーパーが大量に見つかり、すでにクジラを食料としていたようで、『山海經 海經 海外南經』に「在焦僥東 捕魚海中」と船で海外(日本海)南、恐らく山陰から海中(黄海)に出て魚を捕獲(釣魚ではなく捕鯨?)している。
さらに1万2千年前の栫ノ原遺跡で丸ノミ形石斧が発見されこの石斧は船を作る道具で、このころ対馬海流が流れ始めた。

2018年5月18日金曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 神話3

  古文書のそれぞれ異なる部分は日本の創造主の伊弉諾・伊弉冉が生まれるまでの先行する神々の名前で御中主か常立か狭霧か先頭の神と順が微妙に違っている。
普通に読めば先頭の神様が一番偉いと 誰もが考え、偉い順というのは後から神話の一番前に書かれている神を支配した、すなわち、神話の原本に新しく支配した神を前に付加した結果がこれらの神話ということになる。
『日本書紀』では「號國常立尊 次國狹槌尊 次豐斟渟尊 凡三神矣」とNo2「國狹槌尊」が、『先代旧事本紀』では「國常立尊 亦云國狭立尊 亦云國狭槌尊 亦云葉國尊」と亦の名に押しやられてしまっているが、その代わりに、祖神として『日本書紀』に出てこない「天祖天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊」が出現する。
『日本書紀』のNo1「國常立尊」が『先代旧事本紀』では「天祖天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊 天御中主尊 可美葦牙彦舅尊 國常立尊」とNo4にされているということは、『日本書紀』を完成した王朝はNo4が、No1からNo3を滅ぼしてNo1になったことを意味する。
そして、『古事記』を書いた氏族の先祖神が御中主でその氏族が『先代旧事本紀』を書いた狭霧を先祖神とする氏族に敗れたことを示している。
すなわち、御中主を先祖神とする氏族は狭霧を先祖神とする氏族に異議を申し立てできず、『先代旧事本紀』が完成した時、氏族が滅びたか没落して支配され続けていることを示している。
そして、『日本書紀』は狭霧を狹槌と置き換え御中主は本節に記述しなかったが国史になっているのだから誰も異議を申し立てていない、すなわち、滅びたか没落した。
従って、『日本書紀』は『先代旧事本紀』を記述した氏族から政権を奪った氏族が記述し、『先代旧事本紀』を記述した氏族は『古事記』を書いた氏族から政権を奪ったことが解る。
史書作成の流れは『古事記』→『先代旧事本紀』→『日本書紀』の順で、「 國常立尊」の大元の国は「葉國」とわかり、「葉國」→「可美國」→「中國(豐國)」→「狭霧國」→「(天)國」と政権が遷ったと考えられる。
そして、『日本書紀』の常立から伊弉諾・伊弉冉に至る神々の序列も同じで、本来、吾屋橿城が伊弉諾・伊弉冉に国産みや神産みをさせたと考えざるを得ない。
吾屋橿城は天族で「ヤ」国に住み着いた人物、クジラの神を祀った人物で船にのって馭慮嶋にやってきて、しかも、本来は神(氏族の長)や国・最高支配者を産む神が一番偉いはずであり、伊弉諾・伊弉冉が一番偉く、水蛭子や淡島を最初に産んでいる。
これは、もともと伊弉諾が出雲の王の娘の伊弉冉と共に隠岐の島後(淡島・大島)で建国して子の水蛭子が王となったのだが、吾屋橿城に支配されたという神話と思われる。
ここで、『日本書紀』の「此子者入葦船而流去」と水蛭子を流した葦船を私は水葬と論じ、古代日本では流すと直ぐにばらける葦船を使った水葬が行われ、その流れ着く先が黄泉の国で対馬海流が流れ着く対馬を想定し、夜の支配者「月読」は「津岐黄泉」と推定されると論じた。
『古今和歌集』に「白浪に 秋の木の葉の 浮かべるを 海人の流せる 舟かとぞ見る」という歌があるが、私は「精霊流し」の伝統を思い浮かべ、その風習は海人の水葬の風俗のようだと読んでいるように感じた。
海人の水葬は葦船を使い、その船を「木の葉舟」と呼んだと感じ、海人が漕ぐのではなく目前の死者に対する思いをもって流し、流される舟には船頭がいなくて死者が乗り、思い出に残る死者を思いそっと浮かべた木の葉のように揺れていると表現しているように感じ、木の葉のように漂うだけの船に、生きた人間が誰も乗るはずがない。
『伊未自由来記』という伝承に「隠岐の国に初めて住み着いた人間は木の葉比等であった」との伝説があり隠岐の海人が水葬に使った葦船を「木の葉」人の「舟」と呼んでも矛盾を感じないし、『先代旧事本紀』の「國常立尊 亦云國狭立尊 亦云國狭槌尊 亦云葉國尊」の葉国、『日本書紀』第1書の「亦曰葉木国野尊」も無関係に思えない。

2018年5月14日月曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 神話2

 中国や日本では最初から祖先神が存在したが、それに対して、朝鮮は『三国史記』に「辰人謂瓠爲朴,以初大卵如瓠,故以朴爲姓,居西干」と朝鮮というアイデンティティーを持つ前から「辰人」という朝鮮人ではない支配者がいて、アイデンティティーを持った時、自民族以外の王を迎えたため卵から産まれたことになった。
朝鮮人が自然発生的にアイデンティをもって建国したのなら父祖神を書くのが自然で、中国はその父祖として3皇を記述したのである。
そして、朝鮮は『山海經』に記述されていて、中国建国前に『山海經 海内東經』に「朝鮮在列陽東 海北山南 列陽屬燕」・『山海經  海内經』に「東海之内,北海之隅,有國名曰朝鮮」と渤海の南遼東半島南に殷より以前に存在し、それ以前に辰人に支配されていた。
『遼史』に「渤海改爲蓋州 又改辰州 以辰韓得名」と記述され、現在の蓋州市以南を蓋州と言って、後に辰州と変わり、辰韓はその辰州から由来すると記述されて、すなわち、蓋国も中国建国前に既に存在していた。
その、蓋国の南に「蓋國在鉅燕南,倭北」(鉅燕は漢代の視点)と倭が存在し、「海内東経」に記述されているので黄海のことと書かれていて、「檀君古紀」の檀君が殷の末裔は全くのまちがいで、殷以前から朝鮮は朝鮮民族という定住したアイデンティティーが辰州から独立して存在している。
すなわち、中国建国以前の極東特に日本海沿岸には既に多くの国々が存在し、朝鮮半島黄海岸は蓋国その後辰国が間接統治し、その後分裂して、燕・朝鮮・辰韓と分国し、その中には倭も黄海に存在し、辰国は韓人を支配したのだから韓人以外の人々で、当然朝鮮や燕なら辰人と呼ばないので、日本海沿岸の国とわかる。

それに対して、『日本書紀』では、父祖が新しく支配する土地を産み、その住民を産み、さらに、支配者を産んだが、そこにはまだ国もなかったが、実際にはイザナミの出身地の「根国」は存在し、「根国」の建国神話が存在せず、日本列島は日本建国時には既に国があったことがわかり、『山海經』の多数の国を証明している。
 『日本書紀』も『先代旧事本紀』も『古事記』も神話の構成は同じで、細かいところは違うが全く違う民族が書いた神話でないことは一目瞭然だ。
まだ日本が縄文時代の中国周王朝の2代成王の時、倭人が『論衡』の「恢国篇第五八  成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」と中国貢献していて『漢書』には「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」と楽浪海外の日本海ではなく海中すなわち黄海・玄界灘にある島々(大八島)のことを指した地域の倭人が縄文時代から住んでいて中国に貢献してきていることを表している。
中国人は『漢書 卷二十八下 地理志第八下 呉地条』の「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云」と日本海の東鯷人と倭人を区別できており日本で言う弥生人その人が倭人で、このころ、九州の菜畑遺跡では「山の寺式土器」という縄文土器を使う縄文人によるジャポニカ種による水耕が始まり、九州北部から中国地方にはいわゆる東鯷人・縄文人が住んでいた。

2018年5月11日金曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 神話1

 神話というものはその民族が同じ神の後裔とアイデンティティーを確立した由緒書きで、当然この由緒ある人物は以前、違うアイデンティティーの集団の一員であったことは当然である。
神話作成のアイデンティティー集団は以前の出身アイデンティティー集団を含めて異なるアイデンティティー集団を飲み込みこんだ史書で、中国は複数の史書に分散し、日本や朝鮮は1つの史書にまとめ上げたもので、別々のアイデンティティー集団をまとめ上げた歴史を記述している。
人々は『山海經』などの神話を「其為人一身三首」・「一首而三身」・「獸身人面,乘兩龍」など頭が3つある人やその逆、獣の体を持つ人が龍に跨ると言ったように荒唐無稽で信じるに足りないとまともに取り合わないでいる。
現代人は漢代の人々が無邪気にあたかも現代の漫画を楽しんでいるように考えて、やはり現代人も無邪気に納得顔をしている。
しかし、神話と思われていた殷が見つかり、更に殷以前の王朝も想定されるにもかかわらずやはり未だに柔軟な考えに至っていない。
『古事記』の「生筑紫島 此島亦、身一而有面四」を誰も4つの顔を持つ人物と考える人は無く、「筑紫国謂白日別、豊国謂豊日別、肥国謂建日向日豊久士比泥別、・・・熊曽国謂建日別」と4国からなる九州と考える。
すなわち、「一身三首」は1島に3国、「 一首而三身」は3島からなる1国のことで、また、「獸身」は毛皮を纏ったことを意味し、福井県は恐竜化石が多く見つかり、その福井県に九頭竜川が有り、化石から龍の伝説が生まれ、9つの山を竜頭と呼び、川を下る筏を龍と呼んだとしたら良く理解できる。
日本では万物に神が宿るといって祭祀対象とし、蛇や狐を祀ることもあり、縄文土器には蛇に見えるようなデザインがあったり、土偶には女性をモデルとしものがあり、女子国も理解でき、もちろん女性が王であっても驚かない。
 中国『山海』・朝鮮『三国遺事』・日本の神話を比較すると、中国は最初から人が生まれていて、風俗通義』に燧人(スイジン)始鑽木取火」と火を発見した燧人や同じく『風俗通義』に「伏羲始別八卦,以變化天下,天下法則」と八方などの決まりを定めたのが伏羲で、同じく『風俗通義』に神農悉地力,種㯏疏,故託農皇於地 」と神農が農耕を始めた。
これら3皇の名が「女媧 ・燧人 ・遂人 」など複数あり、火の発見は複数の人が発見したのだろうが、中国の土地が既にあり、国というものが無く、アイデンティティーを持つ前から定住していたことを表している。
そして、「黄帝」が現れ、中国のアイデンティティーたる国が構築されたが、中国建国前に日本海沿岸に「衣冠帶劍」した丈夫国・君子国の存在をはじめ中国の周辺には多くの国々があり、倭は国と呼ばれず、『山海經』に「羲和者,帝俊之妻,是生十日」など帝俊の妻が国産み・国造りを行っていた。
 

2018年5月9日水曜日

最終兵器の聖典 プロローグ4・・・史書『日本書紀』の背景3

 そして、『日本書紀』に記述される『日本世記』も天智天皇と同じ常識の書物と考えられ、「日本世記曰 内大臣春秋五十薨」と『日本世紀』は669年以降おそらく692年より後に書かれ、『日本書紀』の追記も更に後に書かれた。
乙巳の変を天武天皇が書かなかったということは、正当な行為ではなかったから書かなかった若しくは後から変質させて付け加えたと考えられ、同じことが天武天皇は正当な皇位継承だから天智天皇まで史書を書き、文武天皇のクーデタは不当なため天智・天武天皇をクーデタによる不当な政権とした。
もう一つの異変が天皇名で、「神倭磐余彦」に始まり「足中彦」までと「雄朝津間稚子宿禰・白髮武廣國押稚日本根子・勾大兄廣國押武金日・武小廣國押盾・天國排開廣庭」の名前で、本来王朝の主に氏姓など無く、名前すら不要で、若様・東宮・陛下・上皇などで一生を過ごす。
すなわち、「神倭磐余彦」に始まり「足中彦」までは氏姓を与えた権力者が他にいたことを示し、「譽田別」が中心王者になり、「瑞齒別」の子が「瑞齒別」まで『日本書紀』を書き、「譽田別」の家系ではあるが「瑞齒別」の子の臣下の「雄朝津間稚子宿禰」の子「大泊瀬稚武」が王朝の王者となって「穴穗」までを書き、この王朝は正規の中国風漢文を理解していないと言うことを『日本書紀』は示している。
以降推古天皇の時書いた部分では、稚武・弘計・億計・稚鷦鷯・男大迹・渟中倉太珠敷・橘豐日・長谷部若雀と天皇らしい名があり、この王が推古天皇時の血筋で、他は広国や豊国・天国の王名や息長足と息長氏の王名で、氏姓を持った臣下を示している。
そして、『日本書紀』は新しい王朝から公式に授与された王名をそのまま残していて、その王名は新たに授与されるまで相続されて長男に受け継がれたことが考えられる。
その為、『古事記』も『先代旧事本紀』も『上宮聖徳法王帝説』も同じ王名が記述され、『日本書紀』が元正天皇時に脚色されたとは考えられない。
私は『日本書紀』の天皇に複数の王を当てはめ、内容によって王名などの主語を変えたり、削除したりして完成させたと論じた。
王の当てはめが絶対年代から一定の割合(王の統治年分)でズレて記述されたと主張して、矛盾点は王の当てはめが矛盾していると主張するのである。
以降神話の時代から年代順に検証結果を述べていこうと思う。

2018年5月7日月曜日

最終兵器の聖典 プロローグ3・・・史書『日本書紀』の背景2

 異変の1つが書風で、森 博達氏が語彙や語法、使用されている万葉仮名において、音韻上の特徴、日本の常識的習俗の知識を欠く注釈部分などからα群(巻第十四〜二十一、巻第二十四〜二十七)とβ群(巻第一〜十三、巻第二十二〜二十三、巻第二十八〜)にわかれるとし、正確な漢文のα群と和文化漢文であるβ群を分類した。
すなわち、森 博達氏は安康天皇まで、推古と舒明と乙巳の変と大化の改新、天武以降は文体が違うと証明した。
しかし、常識的習俗を知らない中国人に史書を書かして検閲しない天皇や上級官僚などの命令者は考えられず、王朝の常識的習俗を知らない人物が史書を書きそのまま通してしまうことは有り得ない。
しかし、直近の天武天皇以降を元正天皇の周辺の知識人が記述したがそれ以前のβ群と違う知識を持った、すなわち、α群の知識を持った人物が記述したこと、すなわち、β群の支配者と異なる知識人集団・異なる常識人集団が記述し異なる支配者に献上したことがわかる。
常識で考えても、天皇が理解できない書風の常識人集団など有り得ないと考えられ、同じ王朝内で異なる書風の史書ができるはずが無く、『続日本紀』も「一品舍人親王奉勅 修日本紀」と修正したと読める。
従って、異なる常識人集団ということは王朝自体が異なるから常識が違うのであり、違う王朝が記述したことが考えられ、雄略天皇が安康天皇までを、推古天皇が崇峻天皇までを、孝徳天皇が舒明天皇までを、天武天皇が天智天皇までをそれ以降を元明天皇が書かせ、それぞれ王朝が変わったと考えさせる。
そして、斉明天皇は白雉元号は書いたが常色以前の元号は違う王朝が書き、天智・天武天皇は白鳳を書かなかったが、天武・持統天皇は天智天皇と朱鳥年号を書いた。
全国で使用されている元号を統治している天皇が書かないはずが無く、継体年号から常色年号までを制定した王朝は『日本書紀』に記述することが無く、異なる王朝が『日本書紀』のそれぞれの時代を記述したからである。
そして、『古事記』があるのに『日本書紀』が有るということは、712年に崩壊した政権から、天智天皇まで書いてある史書を得て、乙巳の変と大化の改新、天武以降を付加して修正を加えたとわかる。

2018年5月4日金曜日

最終兵器の聖典 プロローグ2・・・史書『日本書紀』の背景1

 『旧唐書』に「日本舊小国、併倭国之地」と倭国・日本を別国に書き、倭国を旧小国で旧日本と別国の旧倭国と呼ばれた地として、大きい旧日本の地を併合して新たに新生日本と呼ぶようになったと書き、更に『新唐書』は「日本古倭奴也」と新生日本は倭国と同じ旧倭奴とした。
すなわち、新生日本は倭国を併合した倭国と同種の小国で旧日本は『旧唐書』に「日本國者倭國之別種也」と書くように別種国ということだ。
『三國史記卷第六 新羅本紀第六 文武王』に「十年 十二月 ・・・倭國更號日本」とあるように、日本は670年に倭から日本に改名したので、それ以前は倭と呼ばれていたが、その倭は旧小国で、670年以前の倭は小国だった倭が併合した新しい倭で、以前は異なる国が統治していたと書いている。
しかし、日本では『三国史記』の「自言近日所出以爲名」と『旧唐書』の「倭国自悪其名不雅、改為日本」のみ信頼して「日本舊小国、併倭国之地」を無視した。
魏以前の話とすると唐も存在せず、日本のみ過去に辿って小国と書く必然性が無く、唐建国の618年時も670年頃の新生日本を建国した倭国は小国だったと理解せざるを得ない。
現に『新唐書』以降は日本が旧小国とは書かないで1つの王朝として書き、それ以前の歴史は古い史書で読めと言わんばかりに記述していない。
さらに『新唐書』は「次用明亦曰目多利思比孤」と記述し、『日本書紀』の推古天皇とは符合しないが、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』や『隋書』とは『日本書紀』にも言及があり、『日本書紀』は用明紀も倭の歴史ではなく、倭を併合した倭と別国の俀国「多利思比孤」を先祖に持つ倭奴→倭国→俀国→新生日本の歴史であるから、合わなくて当然なのである。
唐建国の618年から631年「貞觀五年 遣使獻方物」までの間に倭が旧日本を併合して小「倭国」が大「倭国」となったのであり、まさに629年に崇峻天皇が即位前に物部守屋を滅ぼしている。
しかし、『日本書紀』はそのようなことが無かったかのように同じ王朝として書き続けているということは、それ以前も以後も同じように王朝が変わっても無かったかのように書き続けているはずだが、まさに、『日本書紀』は所々で異変を示している。

2018年5月2日水曜日

最終兵器の聖典(バイブル) 新シリーズのプロローグ1 はじめに

 現代日本は『日本書紀』を現天皇家の正当性を示すために8世紀の官僚が適当に作ったと言ってまともに取り扱ってはならないことにしている。
しかし、中国史書に出て来るから倭国登場時には既に中心的王権を持っていたと言い、それが大和政権だ、いやそのころは九州に有ったが古墳時代には畿内に東侵したと証拠が有るわけでもないのに好き勝手に想像している。
当然で、『日本書紀』は間違いでどのように捉えてもまったく自由で、大和侵略記事をどの時代にしても証拠が無いのだから自由だが、九州説は巻向遺跡の中心的地位と時期が邪馬台国より早くて矛盾し、大和説は地理的に『三国志』を間違いとせざるを得ない。
そのため、日本では中国史書も中国を良く見せるため唐時代の里単位を持ち出して距離を誇大に脚色して書いているから信頼できないと言って、都合の良いところだけ正しいとして例えば『梁書』を無視して仏教伝来は欽明朝と正しい理由を全く検証せずに偽造のはずの『日本書紀』に出てくるとしてきた。
しかし、私はそれら文献を間違いではなく、矛盾があるところはどうして矛盾となるかを検証してある程度の古代史観を構築することができた。
私はこれまでトピックとして1つの事柄に絞って検証してきたが、このシリーズでは古代史の大きな流れをまとめていきたい。
試案では、矛盾を同じ『日本書紀』内や他の金石文・他の史書と検証しあって修正して、真実の古代史を求めて再構築していこうと思う。
試案というのは、私の原文解読がすべて正しい、捉え方がすべて正しいなどと奢っていないためで、私が述べた矛盾点の検証方法が間違いなら、その解決策を提言してほしいからである。
私が求めているのはより真実に近い歴史を知りたいがためで、お互いに相いれない妄想史観から脱却する方法は文献批判で文献の正しい捉え方を他文献や遺跡・金石文を使って模索する以外道が無いと思うからで、遠回りでも文献の検証を1つ1つ地道に行うことしか論理を進める方法が無いと思うからだ。
これまでの私のトピックが古代史の流れの中でどのようにつながっていたのかを新しい研究成果も交えて発表しようと思う。
間違っても、自分の考えに合わないからと偽造や間違いで済まそうとは思っていないし、そのような安易な態度を何度も繰り返し見てきた。
まずはプロローグとして次回は『日本書紀』の作成された頃の同時代資料の『旧唐書』から日本古代史を述べてみる。