2018年5月18日金曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 神話3

  古文書のそれぞれ異なる部分は日本の創造主の伊弉諾・伊弉冉が生まれるまでの先行する神々の名前で御中主か常立か狭霧か先頭の神と順が微妙に違っている。
普通に読めば先頭の神様が一番偉いと 誰もが考え、偉い順というのは後から神話の一番前に書かれている神を支配した、すなわち、神話の原本に新しく支配した神を前に付加した結果がこれらの神話ということになる。
『日本書紀』では「號國常立尊 次國狹槌尊 次豐斟渟尊 凡三神矣」とNo2「國狹槌尊」が、『先代旧事本紀』では「國常立尊 亦云國狭立尊 亦云國狭槌尊 亦云葉國尊」と亦の名に押しやられてしまっているが、その代わりに、祖神として『日本書紀』に出てこない「天祖天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊」が出現する。
『日本書紀』のNo1「國常立尊」が『先代旧事本紀』では「天祖天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊 天御中主尊 可美葦牙彦舅尊 國常立尊」とNo4にされているということは、『日本書紀』を完成した王朝はNo4が、No1からNo3を滅ぼしてNo1になったことを意味する。
そして、『古事記』を書いた氏族の先祖神が御中主でその氏族が『先代旧事本紀』を書いた狭霧を先祖神とする氏族に敗れたことを示している。
すなわち、御中主を先祖神とする氏族は狭霧を先祖神とする氏族に異議を申し立てできず、『先代旧事本紀』が完成した時、氏族が滅びたか没落して支配され続けていることを示している。
そして、『日本書紀』は狭霧を狹槌と置き換え御中主は本節に記述しなかったが国史になっているのだから誰も異議を申し立てていない、すなわち、滅びたか没落した。
従って、『日本書紀』は『先代旧事本紀』を記述した氏族から政権を奪った氏族が記述し、『先代旧事本紀』を記述した氏族は『古事記』を書いた氏族から政権を奪ったことが解る。
史書作成の流れは『古事記』→『先代旧事本紀』→『日本書紀』の順で、「 國常立尊」の大元の国は「葉國」とわかり、「葉國」→「可美國」→「中國(豐國)」→「狭霧國」→「(天)國」と政権が遷ったと考えられる。
そして、『日本書紀』の常立から伊弉諾・伊弉冉に至る神々の序列も同じで、本来、吾屋橿城が伊弉諾・伊弉冉に国産みや神産みをさせたと考えざるを得ない。
吾屋橿城は天族で「ヤ」国に住み着いた人物、クジラの神を祀った人物で船にのって馭慮嶋にやってきて、しかも、本来は神(氏族の長)や国・最高支配者を産む神が一番偉いはずであり、伊弉諾・伊弉冉が一番偉く、水蛭子や淡島を最初に産んでいる。
これは、もともと伊弉諾が出雲の王の娘の伊弉冉と共に隠岐の島後(淡島・大島)で建国して子の水蛭子が王となったのだが、吾屋橿城に支配されたという神話と思われる。
ここで、『日本書紀』の「此子者入葦船而流去」と水蛭子を流した葦船を私は水葬と論じ、古代日本では流すと直ぐにばらける葦船を使った水葬が行われ、その流れ着く先が黄泉の国で対馬海流が流れ着く対馬を想定し、夜の支配者「月読」は「津岐黄泉」と推定されると論じた。
『古今和歌集』に「白浪に 秋の木の葉の 浮かべるを 海人の流せる 舟かとぞ見る」という歌があるが、私は「精霊流し」の伝統を思い浮かべ、その風習は海人の水葬の風俗のようだと読んでいるように感じた。
海人の水葬は葦船を使い、その船を「木の葉舟」と呼んだと感じ、海人が漕ぐのではなく目前の死者に対する思いをもって流し、流される舟には船頭がいなくて死者が乗り、思い出に残る死者を思いそっと浮かべた木の葉のように揺れていると表現しているように感じ、木の葉のように漂うだけの船に、生きた人間が誰も乗るはずがない。
『伊未自由来記』という伝承に「隠岐の国に初めて住み着いた人間は木の葉比等であった」との伝説があり隠岐の海人が水葬に使った葦船を「木の葉」人の「舟」と呼んでも矛盾を感じないし、『先代旧事本紀』の「國常立尊 亦云國狭立尊 亦云國狭槌尊 亦云葉國尊」の葉国、『日本書紀』第1書の「亦曰葉木国野尊」も無関係に思えない。

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