2018年5月7日月曜日

最終兵器の聖典 プロローグ3・・・史書『日本書紀』の背景2

 異変の1つが書風で、森 博達氏が語彙や語法、使用されている万葉仮名において、音韻上の特徴、日本の常識的習俗の知識を欠く注釈部分などからα群(巻第十四〜二十一、巻第二十四〜二十七)とβ群(巻第一〜十三、巻第二十二〜二十三、巻第二十八〜)にわかれるとし、正確な漢文のα群と和文化漢文であるβ群を分類した。
すなわち、森 博達氏は安康天皇まで、推古と舒明と乙巳の変と大化の改新、天武以降は文体が違うと証明した。
しかし、常識的習俗を知らない中国人に史書を書かして検閲しない天皇や上級官僚などの命令者は考えられず、王朝の常識的習俗を知らない人物が史書を書きそのまま通してしまうことは有り得ない。
しかし、直近の天武天皇以降を元正天皇の周辺の知識人が記述したがそれ以前のβ群と違う知識を持った、すなわち、α群の知識を持った人物が記述したこと、すなわち、β群の支配者と異なる知識人集団・異なる常識人集団が記述し異なる支配者に献上したことがわかる。
常識で考えても、天皇が理解できない書風の常識人集団など有り得ないと考えられ、同じ王朝内で異なる書風の史書ができるはずが無く、『続日本紀』も「一品舍人親王奉勅 修日本紀」と修正したと読める。
従って、異なる常識人集団ということは王朝自体が異なるから常識が違うのであり、違う王朝が記述したことが考えられ、雄略天皇が安康天皇までを、推古天皇が崇峻天皇までを、孝徳天皇が舒明天皇までを、天武天皇が天智天皇までをそれ以降を元明天皇が書かせ、それぞれ王朝が変わったと考えさせる。
そして、斉明天皇は白雉元号は書いたが常色以前の元号は違う王朝が書き、天智・天武天皇は白鳳を書かなかったが、天武・持統天皇は天智天皇と朱鳥年号を書いた。
全国で使用されている元号を統治している天皇が書かないはずが無く、継体年号から常色年号までを制定した王朝は『日本書紀』に記述することが無く、異なる王朝が『日本書紀』のそれぞれの時代を記述したからである。
そして、『古事記』があるのに『日本書紀』が有るということは、712年に崩壊した政権から、天智天皇まで書いてある史書を得て、乙巳の変と大化の改新、天武以降を付加して修正を加えたとわかる。

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